【第4話】裏庭の異臭と、神話級のモフモフ――ガス壊疽
砦ができてから三日後の夕暮れ時。
バルガスが門番として近隣の魔獣を片っ端から叩き潰してくれているおかげで、私の庭は不気味なほどの静寂を保っていた。
「うん、なんだかんだ言って平和かも」
淹れたてのカモミールティーをすすり、庭の家庭菜園へ夕飯用の芋を掘りに行こうとした時だった。
――くぅぅぅ……ん……。
微かな、苦しげな呻き声。
小屋の裏手、鬱蒼とした茂みの奥から聞こえてくる。
「……ん? 野良犬……?」
近づくにつれ、私の鼻腔を強烈な異臭が貫いた。
生ゴミの腐ったような臭いではない。もっと重く、粘り気のある、甘ったるい死の臭気――腐肉臭だ。
「うっ……! この臭いは……まさか……」
草むらをかき分けた私の視界に飛び込んできたのは、漆黒の毛並みを持つ、子熊ほどもある大きな獣だった。
犬……というよりは、立派な狼の子供のようだ。
その左後ろ足に、錆びついた鉄製の大型獣用トラップが深く、骨に達するほど食い込んでいた。
狼は息も絶え絶えに横たわり、私を見上げると、警戒する力すら残っていないのか、力なく「キャン……」と鳴いて目を伏せた。
「可哀想に、罠にかかっちゃったのね……って、ちょっと待って」
私は反射的にしゃがみ込み、トラップの周囲の傷口を観察した。
背筋に冷たいものが走る。
【視診】
・トラップが食い込んだ周囲の筋肉が、どす黒い赤紫色から、不気味な青銅色へと変色している。
・創口からは、濁った薄茶色の汚れた液体がタラタラと漏れ出ている。
・傷の周囲の皮膚が、パンパンに風船のように腫れ上がっている。
「嘘でしょ……この色、それにこの甘い腐敗臭……」
私はそっと、腫れ上がった太ももの皮膚に指先を触れ、軽く圧迫した。
――プチプチ、パチパチ。
指先を通して、皮膚の下で微小な泡が弾ける感触が伝わってきた。
握雪感(捻髪音)だ。
「偏性嫌気性菌……【ガス壊疽】!!」
全身の血が逆流するような戦慄を覚えた。
錆びた罠の破片とともに、土壌の中にいたウェルシュ菌などの嫌気性細菌が、傷の奥深くへと侵入したのだ。
酸素の届かない低酸素の筋肉の中で菌が爆発的に増殖し、毒素を撒き散らしながら肉をドロドロに溶かしている。さらに菌がガスを発生させ、皮下に充満して組織を内側から圧迫し、壊死の範囲を猛スピードで広げているのだ。
「このままだと、数時間で毒素が全身に回って敗血症性ショックで死ぬ……!」
見捨てて立ち去る選択肢が、一瞬脳裏をよぎる。
相手は言葉の通じない獣だ。助けようとして噛み殺されるかもしれない。
だが――。
ぐったりとした黒い仔狼が、助けを求めるように私の指先を、冷え切った舌で弱々しくペロリと舐めた。
「…………っ、もう! 私のバカ! お人好し!」
私は自分の前髪を乱暴に掻きむしり、叫んだ。
「【診療室生成】――起動!!」
青白い燐光が私の両手を包む。
具現化させたのは、局所麻酔薬(1%リドカイン)の注射器、鋭利な外科用メス(15番)、組織鑷子、剪刀、そして大量の生理食塩水。
「痛いけど、ちょっとだけ我慢してね!」
私はまず、トラップの金具を力任せに押し広げて脚から外した。
患部の周囲に素早くリドカインを皮下浸潤麻酔していく。神経ブロックが効き始めたのを見計らい、私はメスを構えた。
ガス壊疽の治療鉄則。
それは「嫌気環境の徹底的破壊」と「壊死組織の完全切除」だ。
酸素を嫌う細菌なのだから、傷を閉じるなど論外。空気に晒し、死んだ組織をすべて削ぎ落とすしかない!
「いくよ……っ!」
スーッ、と青銅色の皮膚と、その下にある緊満した筋膜を一気に縦に長く切り開いた。
プシュッ、と微かな腐敗ガスとともに、濁った茶褐色の浸出液が噴き出す。
筋膜を開くと、中から現れたのは――煮た牛肉のように白っぽく変色し、完全に生気を失った筋肉だった。
ピンセットでつまんでも、ピクリとも収縮しない。メスを入れても、まったく鮮血が滲まない。
「死んでる……。ここも、ここも全部……!」
私は無心でメスとハサミを動かした。
死んだ筋肉を残せば、そこが再び菌の温床になる。
健全な赤い肉が露出し、生きている鮮血がジワリと滲み出てくる境界線まで、腐敗した筋肉を容赦なく削ぎ落としていく。
「ふぅ……っ、ふぅ……っ……!」
ボロボロと落ちる壊死組織。
すべての壊疽部位を切除し終えた時、太ももは大きくえぐれていたが、残った筋肉は鮮やかな赤色を取り戻していた。
「次は洗浄!」
私は数リットルの生理食塩水を創部に力任せに浴びせかけ、残った菌と膿を徹底的に洗い流した。
そして最後――。
「マイルーム――医療用蜂蜜、投影!」
私の掌に現れたのは、黄金色に輝く純粋な高濃度生蜂蜜のボトルだった。
前世の創傷治療でも見直されていた、古典的かつ最強のドレッシング材だ。
蜂蜜の強烈な高浸透圧は細菌から水分を奪って脱水殺菌し、微量に含まれる酵素が持続的に微量の過酸化水素を発生させ、嫌気性菌の息の根を止める。しかも組織の再生を促す湿潤環境を保ってくれるのだ。
私はトロリとした蜂蜜を、えぐれた傷口一面に惜しみなく塗りたくった。
そして傷口を絶対に縫合せず、滅菌ガーゼをふんわりと当てて包帯を巻く。
「……処置、完了……っ!」
ガクン、と膝をつく。
全身汗だくだ。気付けば周囲はすっかり夜の闇に包まれていた。
ふと見ると、麻酔から醒めかけた黒い狼が、痛みが引いたのかスースーと穏やかな寝息を立てていた。
その全身を覆う漆黒の毛並みは、月光を浴びてビロードのように艶やかに輝いている。
「……はぁ。疲れたぁ……」
張り詰めていた緊張が解け、私はそのまま狼の隣へと倒れ込んだ。
横たわると、ちょうど狼のふっくらとしたお腹が私の頭の下に入り込む。
「……ん? あれ……?」
信じられないほど柔らかい。
シルクと羽毛を極上の比率で混ぜ合わせたような、極上の温もりと弾力。
「な、何これ……最高のお昼寝(夜だけど)枕じゃない……!?」
私はモフモフのお腹に顔を埋め、深呼吸した。
野獣特有の臭みは一切なく、どこか凛とした夜の森の香りがする。
「よし、決めた。あんたの名前は今日から『クロ』ね。私の特等席クッションにしてあげる……ふわぁ……おやすみ……」
私は極上のモフモフに包まれながら、泥のような眠りへと落ちていった。
自分が手当てしたのが、この大陸の神話に記された「世界を滅ぼす災厄の魔獣」の子供だとは露ほども知らずに。




