【第2話】塞ぐな、刺せ!――緊張性気胸
「き、貴様……何を言っているんだ! 早く傷を塞がねば、悪霊が――」
「悪霊悪霊うるさい!! 病理学を百回音読して出直してきなさい!」
喚く神官を一瞥もせず、私は意識を自分の掌へと集中させた。
(マイルーム、起動。出力最大――消耗品投影!)
パッと青白い燐光が弾ける。
私の両手に現れたのは、前世の救急カートに常備されていた、あの見慣れた医療器具。
――14ゲージの極太血管留置針。
外径約2.1ミリ。注射針というより、もはや細い鉄串のような凶悪な太さの金属針だ。
そしてもう一つ、指サックの先端に切れ目を入れたような、薄いゴム膜でできた簡易のフラッター弁(逆止弁)。
「な、何を出す気だ……!? そんな太い鉄の杭を……まさか、とどめを刺す気か!?」
「手出しするな娘! 頭を殺す気なら、いくら子供でも容赦は――」
「うるさい、黙って見てなさい!」
騒ぐ冒険者たちを一喝し、私は巨漢――バルガスの右胸を睨み据えた。
体の中で何が起きているのか。
理屈は極めてシンプル、かつ致命的だ。
魔獣の角が胸壁と肺を突き破った。
その傷口が、組織の裂け目によって「一方通行の弁」になってしまっている。
息を吸うたびに、外の空気と肺から漏れ出た空気が、胸膜腔――肺と肋骨の間の隙間にどんどん吸い込まれていく。しかし、息を吐くときには弁が閉じて、空気が外へ逃げられない。
要するに、密閉された胸の中で風船が際限なく膨らみ続けている状態だ。
膨らみきった空気の塊は、右の肺を完全にペシャンコに押し潰すだけにとどまらない。
隣にある心臓と、心臓に血液を送り返す太いパイプ(大静脈)を、万力のような力でギューギューに圧迫しているのだ。
血液が心臓に戻れない。
だから心臓は空回りし、血圧はゼロになり、全身に酸素が届かなくなる。
これが【緊張性気胸】による、致死的な【閉塞性ショック】。
「傷口を塞いだらどうなると思う?」
私は針のキャップを歯で引き抜きながら、冷え切った声で呟く。
「外へ逃げようとしていた空気の出口まで塞がれて、胸の中の圧力が限界を突破するの。そうしたら――あと三分で心臓の血管が完全にへし折れて、この人は即死よ」
「な……っ!?」
神官が息を呑む。
「塞いじゃダメなの。今すぐやるべきことは――刺して、空気を抜くこと(脱気)よ!」
私はバルガスの鎖骨を指先でなぞった。
鎖骨の中央から垂直に下ろした線。
第2肋骨と、第3肋骨の間の隙間――第2肋間鎖骨中線。
解剖学の鉄則が脳裏に閃く。
肋骨の下縁には、肋間動脈、肋間静脈、肋間神経の束が走っている。下を傷つければ大出血を起こす。
狙うべきは――下位肋骨の上縁!
「いくよ……っ!」
第3肋骨の骨の感触を左手の指先で捉え、その上縁を滑らせるようにして。
私は全体重を乗せ、14ゲージの極太針を、バルガスの分厚い胸板へと垂直に一気に突き刺した!
ブスッッ!!
「ぐ、あああっ!?」
「き、貴様ァァァッ!?」
冒険者たちが抜剣しようと身を乗り出した、その刹那だった。
内針をスルリと引き抜く。
外側のプラスチックカテーテルだけが胸腔内に残された瞬間――
プシューーーーーーーーーーーーーーッッッッ!!!!
鼓膜を劈くような、猛烈な高圧排気音が小屋の中に轟いた。
まるで大型トラックの破裂したエアブレーキから、圧縮空気が一気に噴き出したかのような轟音。
針の根元から吹き荒れる突風が、私の亜麻色の前髪を激しく揺らす。
「な……っ!? 風……!? 胸から、風が……!?」
「空気が……噴き出して……!?」
冒険者たちが呆然と立ち尽くす。
噴出する空気の勢いが徐々に弱まるにつれて、劇的な変化がバルガスの肉体に現れ始めた。
左へ不自然に曲がっていた喉仏(気管)が、カクンと音を立てるように正中へ戻る。
破裂寸前のように青筋を立てていた首の頸静脈が、みるみるうちにスッと平坦に萎んでいく。
そして、どす黒い紫色だった巨漢の顔面に、さぁーっと健やかな赤みが差し始めた。
「が、はっ……! すぅぅぅぅ……はぁぁぁぁっ……!」
バルガスが、生まれたての赤ん坊のように深く、大きな息を吸い込んだ。
手首の橈骨動脈に触れる。
さっきまで消え入りそうだった脈拍が、トック、トック、と力強く、確かなリズムを刻み始めていた。
「ふぅ……。閉塞性ショックの解除を確認。血圧、脈拍、ともに回復傾向」
私はカテーテルの先端に、用意しておいたゴム製のフラッター弁を素早く装着した。
息を吐くときはゴムの切れ目が開いて空気が抜け、息を吸うときはペタッと閉じて外気を吸い込まない、即席の逆流防止弁だ。
「よし。これで肺が勝手に膨らんで、穴も自然に塞がっていくはず」
額の汗を袖でぬぐい、私は立ち上がった。
足元がふらつく。極度の緊張から解放されたせいで、どっと疲労が押し寄せてきた。
時計を見る(時計はないけれど、窓の外の太陽を見る)。
あぁ、私の貴重な午前中のお昼寝タイムが、完全に消滅してしまった……。
私は腰に手を当て、開いた口が塞がらない様子で固まっている冒険者たちと神官を見下ろした。
「処置完了。太い針で胸に溜まってた空気を抜いて、心臓の圧迫を解除しただけ。……さ、命は助かったんだから、その人を担いで早く自分たちの街へ連れて帰ってちょうだい」
しっしっ、と手で払う。
「あ、それと、土足で汚した床はあとで弁償してよね。私はこれから、ハーブティーを飲んでお昼寝し直すんだから!」
だが。
誰一人として、動こうとしなかった。
屈強なSランク冒険者たちも、プライドの高かったはずの神官も。
まるで神話の奇跡を目の当たりにした信者のように、震える膝をつき、信じられない目で私を見つめていた。
「胸に……太い鉄の杭を突き刺して……」
「悪霊の息を抜き……死の淵から……力づくで引き戻した……!?」
「神託の聖女様……?」
「は???」
静寂に包まれたボロ小屋に、私の間の抜けた声だけが響き渡った。
これが、私の平穏なスローライフが音を立てて崩壊していく、すべての始まりだった。




