【第11話】甘い息の昏睡――糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)
天幕が張られた指揮本部。
簡易ベッドの上に、この広大な辺境領を取り仕切る最高権力者――辺境伯グラシスが横たわっていた。
白髪交じりの威厳ある顔立ち。だが、その巨躯は今や土気色に変色し、完全に意識を失っていた。
「父上! 父上、しっかりしてください!!」
ルシアンが必死に呼びかけるが、反応はない。
「ルシアンさん、下がって! 生命兆候を確認するわ!」
私がベッドサイドに飛び込むと、宮廷魔術師たちが杖を構えて叫んだ。
「立ち去れ無礼者! 領主様はコレラの瘴気ではなく、邪悪なる死霊の呪いを受けておられる! 体内から甘美なる死の香りが漂っているのだ! 今すぐ魂を繋ぎ止める神聖結界を――」
「黙りなさい!!」
私の一喝が魔術師たちを壁際まで吹き飛ばした。
私は即座に辺境伯の顔面へと顔を近づけ、五感を極限まで研ぎ澄ませた。
【視診・聴診】
・胸と肩を激しく上下させ、異常なほど深く、速く、苦悶に満ちた呼吸を繰り返している。
――クスマウル大呼吸!
・舌は干からびて白く縮み、皮膚の弾力性は著明に低下。コレラ患者と同等以上の極度の脱水。
・だが、下痢は一切していない。衣服も清潔だ。
そして――私の鼻腔を突いた、決定的な異臭。
ツンとする、果物が腐敗したような。
あるいは前世でネイルを落とすときに嗅いだ、あの刺激臭――。
(……除光液の匂い……【アセトン臭】!!)
「疫病でも呪いでもない……! これは、【糖尿病性ケトアシドーシス】よ!!」
「と、とうにょう……? ケト……何ですって!?」
ルシアンが狼狽して尋ねる。
「極度のストレスと過労、そしてコレラ騒動による脱水が引き金になったのよ! 体の中のインスリンというホルモンが完全に底をついて、細胞が血液の中の砂糖をエネルギーとして使えなくなっているの!」
【病態解説:糖尿病性ケトアシドーシス(DKA)】
インスリンが枯渇すると、飢餓状態に陥った細胞を救うため、体は自らの体脂肪を猛烈な勢いで分解してエネルギー源(遊離脂肪酸)を作り出す。
しかし、その燃えカスとして肝臓で大量に生成されるのが、強酸性の「ケトン体」だ。
ケトン体が血中に溢れかえると、血液のpHは一気に酸性へと急降下(酸性血症)。全身の酵素が働かなくなり、脳が麻痺して昏睡に陥る。
体は血液の酸を少しでも中和しようと、炭酸ガスを吐き出すために深く激しい「クスマウル呼吸」を行い、甘酸っぱいアセトン臭を放つのだ。
「血の中に薪(ブドウ糖)が山ほどあるのに、火をつけるマッチ(インスリン)がないせいで、柱や壁(体脂肪)を無理やり燃やして家の中が有毒な煙(ケトン体)で窒息しかけている状態よ!」
「そんな……! では、父上はどうなるのですか!?」
「このままだとあと数時間で心停止よ。……でも、私の目の前で患者を死なせたりしない!」
私は両腕を突き出し、全魔力を込めて叫んだ。
「【診療室生成】――出力限界、緊急投影ッ!!」
ボウッ、と眩い燐光が天幕を満たす。
私の手の中に現れたのは、18ゲージの点滴針、輸液ライン、そして生理食塩水の輸液パック!
「まずは脱水の補正! 生理食塩水を全開で急速静注!!」
私は辺境伯の太い前腕の静脈を探り当て、迷いなく針を穿刺。
全開にした輸液ラインから、透明な生理食塩水がドクドクと血管内へ送り込まれていく。
高血糖による浸透圧利尿で失われた数リットルの水分を補い、血液の循環を力ずくで復活させる。
「さらに――マイルーム、炭酸水素ナトリウム液投影!」
強酸性に傾き、pHが7.0近くまで落ち込んでいる血液を中和するためのアルカリ化剤。
これを側管から慎重に注入し、致死的なアシドーシスにブレーキをかける。
「ルシアンさん! 今すぐ街の屠殺場へ走って! 屠殺したばかりの『新鮮な豚か牛の膵臓』を氷詰めで持ってこさせて!!」
「す、膵臓……!? 分かりました、全速力で調達してまいります!」
ルシアンが天幕を飛び出していった。
三十分後、息を切らしたルシアンが抱えてきたのは、冷やされた新鮮な家畜の膵臓だった。
私はマイルームから冷アルコール、希塩酸、濾過器を取り出した。
1921年、バンティングとベストが成し遂げた、あの歴史的抽出実験の記憶を脳内でトレースする。
「細かくミンチにして……酸性アルコールでインスリンを抽出……不純物のタンパク質を沈殿させて濾過……」
手際よく作業を進める私の額から、ポタポタと大粒の汗が滴る。
出来上がったのは、わずか数ミリリットルの、澄んだ微黄色の粗製インスリン抽出液。
「頼むから、効いて……!」
私は極細の注射針に抽出液を吸い上げ、辺境伯の腹部の皮下へと慎重に注入した。
細胞のドアを開く「鍵」が、血流に乗って全身へと行き渡っていく。
溢れかえっていたブドウ糖が細胞内に取り込まれ、狂乱していた脂肪分解がピタリと停止。ケトン体の新規産生に急ブレーキがかかる。
点滴を開始して、三時間後。
――ふぅ……っ、すぅ……。
天幕の中に響いていた、あの荒々しく苦しげだったクスマウル呼吸が、ふっと穏やかな寝息へと変わった。
乾ききっていた皮膚にしっとりとした潤いが戻り、土気色だった顔面に力強い血色が蘇る。
そして。
「……う、む……」
かすかな呻き声とともに、辺境伯の重いまぶたが、ゆっくりと開かれた。
「ち、父上……ッ! 父上ぇぇぇッ!!」
ルシアンが涙を流してベッドにすがりつく。
「ルシアン……か? 余は……一体……?」
「父上、助かったのです! このお方が……エルシャ先生が、父上の命を救ってくださったのです!!」
辺境伯はおずおずと視線を動かし、ベッドサイドで肩で息をしながら座り込んでいる私を見つめた。
私は疲労困憊で手をひらひらと振った。
「……ふぅ。アシドーシス離脱完了……。もう大丈夫です。でもしばらくは安静にして、水分をしっかり取ってくださいね……。私、もう限界なので、そこの椅子で寝ます……」
バタン、と私が簡易椅子に突っ伏した瞬間。
辺境伯の瞳に宿ったのは、単なる感謝などではなかった。
それは、神仏を前にした狂信者をも凌駕する、圧倒的な畏敬と、絶対的な忠誠の光だった。
「……何というお方だ。都市を滅亡から救い、死の淵にあった余を、その小さな手ひとつで引き戻された……」
辺境伯は身を起こし、床に突っ伏して眠る私の背中に向かって、深々と頭を垂れた。
そして、隣に控えるルシアンと騎士団長へ向けて、低く厳然たる声で命じた。
「直ちに辺境伯家の全財産と工兵団を動員せよ」
「は……? 父上、工兵団を何に使うのですか?」
「決まっている。あのお方の住まわれる診療所だ。……あのような粗末な小屋に、天上の大賢者様を住まわせておくなど、辺境伯家の末代までの恥辱! 余の命とこの領地の総力を挙げ、あのお方に相応しき『最高の恩返し』を成し遂げるのだ!!」
「「ははぁーーーーーーッッ!!」」
騎士たちが一斉に平伏した。
泥のように爆睡していた私の耳には、己の平穏を完全に粉砕する「巨大国家プロジェクトの始動宣言」は、ただの心地よい子守唄にしか聞こえていなかった。




