【第12話】エピローグ:要塞病院と、消えたスローライフ
交易都市オーレンを襲ったコレラの大流行を鎮圧し、糖尿病性ケトアシドーシスで死の淵をさまよっていた辺境伯グラシスを救命してから、早いもので一ヶ月の月日が流れていた。
あの事件のあと、私は全身の魔力と体力を使い果たし、ルシアンの用意した特注の馬車に揺られて森の我が家へと送り返された。
そこからの記憶はほとんどない。
泥のように眠り、起きてはマーサの差し入れてくれたスープを飲み、また眠るという極上の冬眠生活を送っていたのだ。
そして――今日。
私はついに、完全に体力を取り戻した爽快な朝を迎えていた。
「……ふわぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ! よく寝たぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
パジャマのまま両腕を天へと伸ばし、思いっきり伸びをする。
鳥のさえずり。窓から差し込むあたたかな木漏れ日。
前世のあの重苦しい倦怠感も、国試への焦りも、激務の筋肉痛も、綺麗さっぱり消え去っている。
「完璧……! ついに、ついに悪夢の連続急患ラッシュが終わったのよ……!」
私は歓喜に震えながら、台所でお湯を沸かし、お気に入りのカモミールブレンドのハーブティーをマグカップに注いだ。
ふわっと立ち上る甘い林檎のような香り。
「今日こそは誰にも邪魔させない。縁側の特等席で、クロをモフりながら一日中読書とお昼寝を満喫するのよ……! これこそが人類の至高の自由時間……!」
マグカップを両手で大事に抱え、私は意気揚々とリビングを横切り、玄関の木製ドアのノブに手をかけた。
カチャリ。
心地よい音を立ててドアを開け放ち、朝の清涼な森の空気を胸いっぱいに吸い込もうとした――その瞬間。
「………………はい?」
私の思考が、完全に停止した。
目の前に広がっていたのは。
昨日までそこにあったはずの、のどかな木々と野の花が咲き乱れる森の小道ではなかった。
――ズドオオオオオオンッ!!
見上げるほど高くそびえ立つ、純白の巨石を隙間なく積み上げた高さ十メートルを超える巨大な防壁。
その外郭を取り囲むように深く掘削された、幅二十メートルはあろうかという巨大な水の手の堀。
私のボロ小屋は、なんとその白亜の大要塞の「最深部・本丸」としてすっぽりと飲み込まれていた。
「な……な……っ!?」
アゴが外れんばかりに口を開けて固まる私の視界に、物々しい軍靴の轟音が飛び込んできた。
「全隊、整列ッ! 敬礼ッッ!!」
ドガァァァァンッ! と跳ね橋が下り、堀の向こうから現れたのは、ピカピカの白銀の全身鎧に身を包んだ百人規模の重装歩兵団だった。
その先頭で、巨大な戦斧を掲げて仁王立ちしているのは――バルガスだった。
胸には「警備隊長」と金糸で刺繍された豪華な肩章が輝いている。
「おおっ、エルシャ総院長先生! お目覚めになられましたかッ!!」
「ば、バルガス……!? 何よその格好! ていうか、外のこの巨大な城壁は何なのよぉぉぉッ!?」
「ハッ! 先生の安眠を蟻一匹たりとも脅かさぬよう、辺境伯家の直属工兵団と近隣のSランク冒険者ギルドが総出で築き上げた、難攻不落の外郭防壁であります! 有事の際は要塞砲が森の魔獣を一掃いたしますぞ!」
「物騒すぎるわバカァァァッ!! 私が頼んだのは静かな環境であって、最前線の軍事要塞じゃないのよ!!」
私の絶叫が木霊する中、今度は堀の水面を割って、巨大な黒い影が弾丸のように飛び出してきた。
ドパァァァァンッ!!
「グルルルル……ウォォォォォンッ!!」
神話級の威圧感を放ちながら私の足元に着地したのは、体長五メートル近くまで巨大化したクロだった。
背中には特注の鞍が取り付けられ、首元にはピカピカに磨かれた「警備犬」の首輪(特大)が巻かれている。
「クゥ〜ン♪」
私を見るなり、クロは嬉しそうに目を細めて尻尾を猛烈に振り、私の顔をペロペロと舐め回してきた。
相変わらずの極上のモフモフだが、その周囲を漂う神聖な魔力はどう見ても一国を滅ぼせる厄災のそれである。
「クロまで……! あんた、いつの間にそんな巨大化して警備隊の最終兵器になってるのよ……!」
呆然とする私の背後から、今度はけたたましい割烹着軍団の足音が迫ってきた。
「ちょっと筋肉ダルマ、先生の前に立ち塞がってんじゃないよ!」
「ぐふっ!?」
バルガスを巨大な木べらで叩き飛ばして現れたのは、マーサを筆頭とする村の主婦たち――【おかんギルド】の面々だった。
全員が清潔な純白の白衣エプロンを身にまとい、手には湯気を立てる大鍋や焼きたてのパンを抱えている。
「先生! おはようございます! 毎朝の搾りたてミルクと極上ステーキが焼き上がりましたよ!」
「東病棟の産科病室、次亜塩素水による拭き掃除と熱湯煮沸、全室完了しました!」
「手洗いマニュアルを暗記した見習い助産師が二十名、先生の最終検定を待っております!」
「ひ、東病棟……? 見習い助産師……?」
私が引きつった顔で指差す先。
かつて家庭菜園だった裏庭の広大な敷地には、美しく区画整理された巨大な石造りの病棟群が立ち並んでいた。
日当たりの良い大きなガラス窓。完璧に計算された換気口。清潔なリネンが風になびく広大な洗濯場。
前世の最新鋭クリニックすら凌駕する、衛生管理の行き届いた近代的大病院の姿がそこにあった。
「あ、あはは……夢だわ。まだ私、二度寝の夢の中にいるのね……」
現実逃避しかけた私の元へ、息を切らした人影が駆け込んできた。
山のような書類の束を抱え、目の下に濃いクマを作った麗青年――ルシアンだった。
「せ、先生ぇぇぇ……ッ! やっと起きてくださいましたか……ッ!」
「ルシアンさん!? ちょっと、顔色が前より悪くなってない!?」
「激務ですよ! 当然です! 先生の偉業を聞きつけた大陸全土の医師や薬師が、一日数百人単位で門前に押し寄せて『手洗いを教えてくれ』と叫んでいるんです! さらに周辺国家から『要塞病院に重症患者を受け入れてくれ』と親書が山積みに……! 先生、例の奇跡の胃薬を……胃薬の追加処方を何卒ぉぉぉッ!」
「支部長の過労死寸前じゃん!!」
ルシアンが私の足元にすがりついて泣き崩れる。
その時だった。
ファンファーレのラッパの音が、青空高く鳴り響いた。
要塞の正面大通りから、豪奢な馬車を連ねて現れたのは、すっかり血色の良くなった威厳ある巨漢――辺境伯グラシスだった。
白髪をなびかせ、最高礼装のマントを翻して馬車から降り立つと、私の眼前で恭しく膝をついた。
「大賢者エルシャ様! 朝のお目覚め、心より慶賀に存じまする!」
「へ、辺境伯様……!? なんで領主様がこんなところに……」
「決まっております! 本日は、領地の総力を結集して完成させました、この一大国家事業の記念すべき落成式にございます!」
辺境伯が力強く右手を天へと掲げた。
兵士たちが一斉に引き綱を引くと、要塞の正面ゲートの上に掲げられていた巨大な白布がハラリと落ちた。
そこに刻まれていたのは、純金で眩いばかりに輝く巨大な文字。
【辺境伯領直属・エルシャ中央総合要塞施療院】
(最高責任者兼・永久終身名誉院長:エルシャ)
「………………」
私は持っていたマグカップを取り落としそうになった。
辺境伯が満面の笑みで、胸を張って宣言する。
「門にはSランク冒険者による鉄壁の警備! 堀には神話の神獣! 内部には最新鋭の病棟と清潔なる兵站補給部隊! これぞ、死の淵より余を救い、交易都市を悪魔の病から解放した天上の聖女様に捧ぐ、地上最強の施療拠点にございます!!」
「「「エルシャ総院長先生、万歳ッッ!!!!」」」
ドォォォォォォッ!! という地鳴りのような歓声が、白亜の城塞を揺るがした。
騎士たち、おかんギルドの主婦たち、助産師たち、そして門前に詰めかけた数千人の市民たちが、一斉に私に向かって平伏し、祈るように手を合わせている。
そこへ、息せき切った若い騎士が広場へ飛び込んできた。
「ほ、報告ッ! 街道にて魔獣被害に遭った商隊が到着! 重傷者多数、直ちに傷病者選別をお願いしたいとのことです!」
「先生、増築した集中治療室の除幕式でテープカットを!」
「先生、朝採れの卵のおかわりをどうぞ!」
「先生、胃薬のサインをぉぉぉッ!」
押し寄せる人、人、人。
鳴り止まない歓声。
山積みにされるカルテと書類。
私はパジャマ姿のまま、両手にマグカップを持った姿勢で、どこまでも澄み渡る異世界の青空を呆然と見上げた。
……あれ?
おかしいな。
前世でエリート家族のプレッシャーに潰され、国試の直前で階段から落ちた時。
私は確かに、神様にこう願ったはずだ。
――来世は絶対に働かない。
――誰の期待も背負わず、日当たりのいい縁側でお昼寝して、ハーブティーを飲むんだ、と。
「…………」
門には最強の軍隊。
庭には世界を滅ぼす災厄の魔獣。
周囲には数百人の医療スタッフと、押し寄せる無数の患者たち。
私のささやかな平穏とスローライフは、跡形もなく消滅していた。
「……なんで前世の白い巨塔より、規模がでかくなってるのよォォォォォォッッッ!!!!」
少女の魂の絶叫が、雲ひとつない快晴の大空へと木霊した。
その足元で、クロが楽しそうに「ワオォォォォンッ!」と高らかに遠吠えを轟かせる。
辺境のボロ小屋から始まった女子医学生の受難の日々は、世界最強の要塞総合病院の院長として、今まさに新たな幕を開けたばかりだった。
(完)
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
「のんびり昼寝してハーブティーを飲みたいだけなのに、目の前の急患を放っておけないプロ根性のせいで、気付いたら前世よりデカい病院の院長に担ぎ上げられていた女子医学生」という、勘違いと受難の拠点発展コメディをお届けしました。
作中で登場した医療知識(緊張性気胸の脱気、ガス壊疽のデブリードマン、ゼンメルワイスの手洗いと産褥熱、骨盤位分娩のモーリソー手技、コレラと経口補水塩、そして糖尿病性ケトアシドーシス)は、すべて現実の医学史や病態生理に基づいています。
人類が迷信や偏見と戦いながら切り拓いてきた「医学の知恵」の面白さや痛快さを、エルのツッコミや奮戦を通じて少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
(なお、エルの念願だった「縁側でお昼寝スローライフ」が達成される日は……たぶん当分やって来ないと思います。頑張れエル先生、負けるなルシアン支部長の胃袋!)
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