【第9話】白い悪魔の襲来と、封鎖された街――コレラ
おかんギルドによる要塞化工事が着々と進み、私のボロ小屋が「難攻不落の兵站基地」へと変貌を遂げてから、さらに一週間が経過した頃。
私は増築された特等席のサンルームで、マーサ特製のアップルパイを頬張りながら、淹れたてのハーブティーをすすっていた。
「……ふぅ。いろいろ諦めたら、これはこれで極楽かもしれない……」
庭ではクロが日向ぼっこをしながらしっぽを揺らし、門の砦の上ではバルガスが「異常なし!」と森を睨みつけている。
毎朝届く最高級の食材。ピカピカに磨き上げられた床。
自分の手足を一切動かさずに美味しいご飯が出てくる生活は、確かに前世で夢見た自堕落そのものだった。
――ズギャギャギャギャッ!!
その優雅なティータイムを切り裂いたのは、血を吐くような馬のいななきだった。
跳ね橋を轟音とともに渡り、白泡を吹いた軍馬から転がり落ちてきたのは、ボロボロのマントをまとったルシアンだった。
胃薬をもらいに来た時の爽やかな麗青年の面影は微塵もない。甲冑は泥にまみれ、血走った目は狂気に染まりかけていた。
「せ、先生……ッ! エルシャ先生はおられるかぁぁッ!!」
「ルシアンさん!? ちょっと、そんなに慌ててどうしたの、また胃に穴でも空いたの!?」
私が駆け寄ると、ルシアンは私の両手を骨がきしむほどの力で掴み、地面に膝をついて慟哭した。
「街が……川下の交易都市オーレンが、滅びかけています! 謎の劇症疫病が発生し、すでに数百人が命を落としました! 父上――辺境伯も現場で防衛指揮を執っておりますが、もはや都市の機能は崩壊寸前です……!」
「疫病……!?」
「腹痛も前触れもなく、突然お尻から『米のとぎ汁のような白い水』が滝のように噴き出し……半日で全身が干からびて、ミイラのように息絶えるのです! 聖光教会の高位神官長は『悪魔の瘴気が大気に満ちた』と宣言し、感染区画を巨大な鉄柵で封鎖しました……! そして――」
ルシアンの声が、怒りと絶望で激しく震えた。
「神官長は『水を飲むと体内の悪魔が増殖して腹が腐る』と触れを出し、隔離された人々の飲水を完全に禁じたのです! 街中が渇きに狂った人々の叫び声で溢れかえり……神官長は明日にも、感染区画を住民ごと聖火で焼き払おうとしています……!」
その瞬間。
私の体の中で、カチリと音がして冷たいスイッチが入った。
「…………は?」
私の口から漏れたのは、低く、地を這うような冷酷な声音だった。
米のとぎ汁のような水様便。
激しい脱水。
そして――水を求めて叫ぶ患者に対する、【絶水命令】。
「激しい下痢で水分と塩分を失って死にかけている人間に、水を飲ませるなですって……? そんなの、治療でも隔離でもないわ」
私はマグカップをテーブルに叩きつけた。
パリン、と音を立てて陶器が割れる。
「ただの虐殺よ」
前世の公衆衛生学と熱帯感染症の講義で、教授が何度も黒板を叩いて叫んでいた言葉が頭を満たす。
人類を幾度となく絶望の淵に叩き落とした、あの最悪の水系感染症――。
(……間違いない、【コレラ菌感染症】だわ!)
「バルガス! クロ! 出かけるわよ!」
「ハッ! 護衛の戦斧はすでに研ぎ澄まされております!」
「ウォォォォンッ!」
私の号令一閃、バルガスが愛用の巨大戦斧を背負い、クロが巨大な漆黒の体を跳弾のように躍動させた。
私はパジャマの上から白衣のローブを羽織り、マイルームの携行医療鞄をひっつかんだ。
「ルシアンさん、馬を回して! その傲慢な神官長の顔面に、塩と砂糖を叩き込みに行くわよ!!」




