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夕陽亭そば勝負  作者: 杉下栄吉
18/28

娘の結婚

17、娘の結婚

 開店から2年が過ぎた。土日は客足が多いので40杯を定量にして、月火は定休日、水、木、金は25杯定量と変更していた。客足は落ち着いてきて、ほぼ毎日4時から5時ごろに売り切れになっていた。

 その日は3月下旬、世間では春休みが始まり、子供たちの集団登校の声は聞こえなかった。地球温暖化の影響か、冬が終わると、一気に夏に向かって変化していく。まだ、春休みだというのに気温は20度を超え、天気予報は5月並みの気温と言っていた。杉下は毎朝の日課で、畑に野菜を収穫に行ってもさわやかな日差しだった。

 昼の営業を終えたころ、妻の携帯に着信があった。3番目に娘からだった。杉下夫婦には3人の娘がいて、長女は3年前に県内に嫁いでいき、次女は昨年結婚し東京に住んでいる。開店の時に手伝ってくれたのは福井県内に住む長女だった。3女は就職して大阪に住んでいた。妻が電話を取り

「あら、どうしたの葵ちゃん。」

「え、明日、明日来るの?」

「わかったわ。お父さんにもそう伝えておくわ。」

と言って電話を切った。

「おとうさん、葵が明日、帰ってくるんですって。なんか誰かを連れてくるって言ってるわよ。」

妻は何となく知っていたのかもしれない。時々、娘たちとLINEで話しているので3女が結婚を前提に付き合っている人がいることも知っていたのだろう。杉下には初耳である。午前の部の営業を終えて、一休みしながら客席のテーブルを拭きながら娘が来ることを聞いた。急に自分だけ聞かされていなかったことに少し寂しさを感じたのか、テーブルを拭く手が早くなってきて、机の上に置いてあった七味の瓶を落としてしまった。

「何しに帰ってくるんだ。盆や正月でもないのに。それに明日は土曜日だから忙しいぞ。相手していられるかな。」

とぶっきらぼうに答えると、妻は

「慌てなくてもいいじゃない。梓の時も瑞季の時も相手の男の子を見てすぐによろしくって返事したじゃない。」

と落ち着き払って話している。土曜日の営業が終わったくらいを目指してくるという事だった。

 翌日は朝からそわそわして何をしても上の空になってしまった。畑で野菜を収穫するときは大根3本もあれば十分なのに5本も引っこ抜いてしまうし、ネギに至っては取ってくるのを忘れて帰ってからまた取りに行った。麺の準備も40食でいいのに50食も作ってしまった。妻は

「お父さん、朝からおかしいわよ。少し落ち着いて」

と言ってコーヒーを入れてくれた。コーヒーで心を落ち着けていると開店時間が来た。お客さんが来て忙しくやっていると、娘のことを忘れて蕎麦に集中できた。そうこうしていると夕方5時になり、最後のお客さんが夕陽を見終えて1階に降りてきた。

「有難うございました。」

と言って妻がお勘定をして、1日の営業が終了した。妻はすぐに2階のお客用のテーブルの1つをきれいに拭いて、娘たちを迎える準備をした。杉下は蕎麦ゆでの大釜のガスの栓を落として掃除に取り掛かった。蕎麦ざらを洗い、大釜のお湯を捨てようとした。しかし、その時、何を考えたのか、大釜にもう一度ガス栓を開けて温め始めた。

 5時30分ごろ、いよいよ大阪から来た二人が玄関を開けた。

「ただいま」

葵の声である。妻は元気な声で

「お帰り、葵、元気だった。」

と言うと葵の後ろからその青年は

「初めまして。大阪から来ました、越川です。」

と言いかけたところで妻が

「ちょっと、お父さん」

と杉下を呼んだ。杉下は下を向いて作業を続けながら

「2階へ上がってもらえ。」

と言って黙々と蕎麦を打っていた。妻は

「お父さんは、後できますから、とりあえず2階に上がってください。」

と言って階段を上がっていた。客用のテーブルに葵とその青年を座らせると1階まで下りてきた妻は

「お父さん、せっかく玄関で挨拶してくれているのに出てこないなんて、失礼でしょ。何で蕎麦打ってるの、蕎麦出すつもり?」

と言うので

「蕎麦職人なんだから、まずは蕎麦でも食べさせようと思ってさ」というと

「それじゃ、私もコーヒー職人なんだからコーヒー出そうかな」

と対抗してきた。とりあえず、お茶を出しそのあと、蕎麦を出して、最後にコーヒーを出すことで合意は形成できた。妻がお茶を入れて2階に運んでいる間に、杉下は蕎麦を切り、出来立てを茹でて、蕎麦を洗っていた。お茶を出し終えた妻が戻ってきて

「お茶出したわよ。」

と言うタイミングと同時に蕎麦を洗い終えて蕎麦ざらにのせて完成した。だしと薬味を添えてお盆に乗せると

「自分で持っていく?」

と妻が聞いてきたが目で持って行ってくれと頼んで、妻が蕎麦を運んでくれた。蕎麦をテーブルに出すタイミングで杉下も2階に上がった。その青年は杉下が部屋に入ってきたのを見て椅子から立ち上がり

「あ、お父さん。大阪から来ました、越川です。よろしくお願いします。」

と緊張して挨拶した。杉下は

「ま、とりあえず、蕎麦を食べてください。」

と言うとその青年は座りなおして、しげしげと蕎麦をながめて

「これがおろし蕎麦ですか。葵さんから話は聞いています。」

と言って割りばしを割って蕎麦ざらを手にとり、麺をだしと混ぜて食べ始めた。

「うまい。麺が細くて、だしによく絡みますね。大根の辛さと蕎麦の香りが冷たいからこそマッチして、おいしいですね。さすが、越前おろし蕎麦 大阪でも有名です。」

と感想を言いながらあっという間に一杯食べ終えた。

「なかなかいい食べっぷりでしたね。次はお母さんのコーヒーが出ますよ。」

と言うと妻が一階に下りていき、コーヒーをいれに行った。二階のテーブルではコーヒーが来るまでしばらく沈黙が続いたが、コーヒーとケーキが四人分来ると、ようやく緊張がほぐれてきた。

「越川君はどんな仕事をしているの?」

と妻が聞くと

「大阪の梅田近くの日本料理店で調理師をしています。大学を卒業してから、しばらく証券会社に勤めていたんですが、小さいころから調理人になりたいという夢をあきらめきれず、会社を辞めてこの世界に弟子入りしました」

と答えてくれた。

「お父さんやお母さんはどんな方なの」

続けて妻が質問を浴びせると

「父は建設会社に勤務していましたが、昨年定年退職しました。母は主婦です。」

さらに妻は

「ご兄弟は」

と聞き続けると越川君は

「兄弟は3人です。一番上が兄で三井住友銀行の銀行員です。転勤が多く今は札幌にいます。2番目が姉で大阪市内の小学校で教師として勤めています。」

と答えてくれた。娘の葵が

「お母さん、尋問しているみたい。聞きすぎよ。」

とたしなめた。杉下が話題を変えて

「福井の蕎麦はどうだった?」

と聞くと越川君は

「すごいですね。僕、蕎麦好きなんで、全国いろんなそばを食べますが、越前おろし蕎麦はおいしい食べ方だと思います。蕎麦粉のひき方は素朴で、飾ってなくて色は黒っぽいですが、その分、蕎麦の香りが引き立っていると思います。さらに茹でた蕎麦を冷水で洗って冷たいまま食べることで、大根の辛さが最大限に活かされています。蕎麦ざらがまたいいですね。全国的には冷たい蕎麦はざるに乗せ、暖かい蕎麦ははちに入れるという概念から飛び出しています。九谷焼のような鮮やかな模様が越前の蕎麦のポイントだと思います。」

杉下は

「さすがに料理人だね。コメントが的を得ているね。気に入ったよ。蕎麦を好きな人に悪い奴はいない。娘を頼む。」

と勝手に決めてしまった。妻はあきれた表情だったが

「最初から反対する気なんかなかったんでしょ。」

と手の内を見透かしてきた。

「お母さんのコーヒーもすばらしい香りですね。豆の煎り具合なんかもこだわっているんですか。」

越川くんは妻も褒めてきた。

「あら、そう。煎り方をこだわっているわけではなくて、コーヒー専門店から豆で買ってくるだけなんだけど、飲む直前にしか豆をひかないようにはしているわ。蕎麦は挽きたて、茹でたてだけど、コーヒーも挽きたてドリップしたてがおいしいわけね。」

とわかったようなことを言っている。

 話が弾んで和気あいあいとしてきたが、わずかな静寂の時間が過ぎた後、そんな雰囲気が来るのを待っていたかのように、越川君は改めた表情で

「お父さん、お母さん、葵さんと真剣にお付き合いさせていただいてきました。どうか結婚をお許しください。」

と言ってきた。突然の申し出に杉下夫婦は面食らっていたが、どうせ来るだろうと考えていたし、杉下に至っては

「娘を頼む」

ともう言ってしまっていたので、拍子抜けな感じはしたが改めて

「こちらこそ、娘をよろしくお願いします。」と答えた。

 結婚することは仕方がないと覚悟はできていた。3人娘が2人まで外に出て行ってしまったので、最後の一人に淡い期待を寄せていなかったと言えば嘘になる。養子に来てもらって福井に住んでもらうという結婚にこだわって、娘が婚期を逸し結婚しないままに親と一緒に住み続けるようになっても困る。しかし、もしかしたら3人の娘のうち誰か一人くらい親の面倒を見てやろうとか、墓を守ってあげようとか考えてくれる子がいるかもしれない、そんな淡い期待がなかったわけではない。しかし、大阪市内に勤める越川君が福井に来てくれることはなさそうである。しかし、3人兄弟の一番下である。もしかしたらというわずかな望みをこめて

「大阪の勤めている店は素晴らしいかもしれないけど、将来的に福井に来たいなんて気持ちはないですか。」

と聞いてみた。すると越川君は

「今はまだ修行のみなので何とも言えませんが、一人前になったらどこかでお店は持ちたいと思います。それが大阪かも知れないし福井かも知れないし、もしかしたらこのお蕎麦屋さんかもしれないし、まだ先のことなのでわかりません。」

と言ってくれた。

 杉下夫婦に大きな希望が見えてきた。結婚して杉下家を継いで30年、娘3人ができて幸せな家庭だったが、娘たちが成長するにつれていつかやってくる夫婦だけの生活、先祖から受け継いだ家や土地、畑や田んぼはどうなるんだろう。そんなおぼろげな不安にかりたてられ、そんな不安から目を背けるために蕎麦屋を始めようと考えたのかもしれない。そんななか、一番下の娘が連れてきた青年がいつか家を継いでくれるかもしれないと言ってくれたのだ。暗闇の中で一筋の明かりが見えたようなそんな感じがしていた。

 その日は越川君が近くに宿を取っていたが、送るからという事で店の2階で飲もうということになった。閉店後の蕎麦屋の2階、店の冷蔵庫から出してきたビールと、つまみは魚屋から仕出しを取った。ビールはよく冷えていて、越川くんのコップに注ぐと外側に水滴がついた。乾杯をして飲み始めると気分が高揚してきた杉下は

「この蕎麦屋を継ぐのもいいと思うけどどうかな。」

とストレートに聞いてみた。越川君はすこし酔いが回ってきていたが、

「今すぐとは言えませんが、いつか一人前になったらこの店を継いで、蕎麦だけじゃなくほかの日本料理を出すのもいいかなと思います。」

とたくましいことを言ってくれた。


 厨房のテーブルで話を聞いていたご婦人たちは娘の結婚という事で目の色を変えていた。

「よかったわね。あなた幸せ者よ。どこの家も子供たちはみんな出て行ってしまって老夫婦だけが残されるのが今の時代よ。私たちもそうよ。3人ともこどもはみんな都会に行ってしまったの。息子夫婦が同じ家に同居するなんて30年くらい前までよ。しばらくは同じ敷地内に家を建ててスープが冷めない距離でなんて言ってた時代もあったけど、今じゃ同じ県内なら御の字と言うありさまよ。こちらの家では3人娘の一番下がもしかしたら料理人のお婿さんを連れてくるかもしれないんでしょ。うらやましいわ。」

娘が帰ってくる可能性があるんだか文句言ってはいけませんと諭されているような気分になった主人であった。


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