(8)イモ女と呼ばれて(ありがとうジャガイモ)
ハイマン伯爵邸に移ってからの毎日は、まさに怒涛のスパルタ修行だった。
姿勢の矯正から始まり、貴族としての歩き方、扇の扱い方、上流階級の複雑怪奇な会話術――。
頭も体も悲鳴を上げていたけれど、すべてはあの眩しすぎるジュリアン様にふさわしい婚約者になるため。「よーし、やってやるわよ!」と、私はやる気をみなぎらせていた。
そんなある日の午後。
みっちり絞られたレッスンを終え、生まれたてのヤギみたいに膝をガクガク言わせながら自室へ戻る廊下でのことだった。
向こうから、豪奢なドレスを身に纏った若い女性が、数人の侍女を引き連れて歩いてきた。
「……あの方が、旦那様の御息女であられるロザリア様です」
侍女の囁きに、思わず背筋がピンと伸びる。
(ジュリアン様の、元婚約者……!)
同じ屋敷にいながら、これまで一度も顔を合わせる機会がなかった人だ。
(ちゃんとお礼とご挨拶をしなきゃ……!)
私は慌てて足を揃え、最近ようやく身についてきた淑女の挨拶を披露した。
「ごきげんよう、ロザリア様。コレットと申します。この度は縁あって伯爵家に――」
言いかけた言葉が、突き刺さるような冷たい視線に呑まれて喉に引っかかる。
……に、睨まれてる?
ロザリア様はスッと扇を広げ、口元を隠した。
「ふうん……。あなたが、ジュリアン様の……」
まるで路傍の石ころを見るような品定め。
私が息を詰まらせていると、彼女はわざとらしく扇を少しだけずらし、私にだけ見えるように唇を動かした。
声は一切出していなかった。けれど、その動きはあまりにも明白だった。
――い・も・お・ん・な。
(……は???)
イモ女って言った!? この人、今ハッキリとイモ女って煽ったわよね!?
いやまあ、事実だけど! 否定の余地なくジャガイモしか名産がない田舎貴族の娘ですけど!!
露骨すぎる敵意に一瞬カッとなった――けれど。
(……待って。この方がジュリアン様を振ってくれたからこそ、今の私があるのでは……?)
だとすれば、この人は私にとって足を向けて寝られない大恩人じゃないの!
(ありがとうございます……!)
湧き上がる心からの感謝を込め、私は去りゆくロザリア様御一行の背中へ、一点の曇りもない満面の笑みをお見舞いしてやったのだった。
◇
季節は巡り、夏の終わりを迎えた頃――伯爵邸の中が急に慌ただしくなった。
様子を見に来てくれたジュリアン様に「何かあったのですか?」と尋ねてみたところ、とんでもない事態が起きていた。
記録的な日照りに加え、大地を巡る魔力の流れ――“霊脈”とかいうものがズレてしまったせいで、国中の小麦が大凶作に陥っているらしい。
難しい魔法の理屈はさっぱりだったけれど、要するに国中が大飢饉の危機に瀕しているということだけは分かった。
「えっ……じゃあ、うちの領地の人たち、ご飯食べられてないんじゃ……!?」
真っ青になって急いで実家に手紙を飛ばしたところ、お父様から呑気な返事が返ってきて拍子抜けした。
なんと、ボヌフォワ領の一帯は全員ピンピンしているという。
なんでも、我が家は以前から国に言われて大量のジャガイモを備蓄していたらしい。「イモなら山ほどあるぞ!」とお父様がその備蓄を大放出したのと、ジュリアン様のお父様――グラナート侯爵が外国から小麦を買い付けてくれたおかげで、実家周辺は飢えを免れたとのことだった。
(よかったぁぁ……! ありがとうジャガイモ……!)
胸を撫で下ろした私だったけれど、王都のあちこちや貧しい地域では、今もパンが買えずに苦しんでいる人がたくさんいるらしい。ジュリアン様もその対応で毎日本当に忙しそうだった。
そんな緊迫した空気のまま時は流れ、間もなく冬至。
王国最大の祝祭である「建国記念の祝賀舞踏会」が近づいていた。
十七歳になった私の部屋に、ジュリアン様から大きな木箱が届く。
中に入っていたのは、私の社交界デビューのために誂えられた、息を呑むほど美しい薄紫のドレスだった――。




