第十一話 蓋の裏
父は朝から、二度目のあくびを噛み殺していた。
「父さん、寝てないだろ」
「寝た」
「どれくらい」
「寝たならいいだろ」
答える気はないらしい。
そのくせ、さっき置いたばかりの小刀を探している。エルドが黙って指をさすと、父は何事もなかったようにそれを拾った。
「俺よりひどいじゃん」
「お前は人のこと言える顔か」
「俺は寝たよ」
「なら鏡を見ろ」
それを言われると、何も言い返せない。
エルドも昨夜は何度か目を覚ましている。
鉱山のことが頭に残っていたのもある。けれど、それ以上に気になっていたのは、帰ってから工房で見た石だった。
作業台の端に、その石は昨日と変わらない姿で置かれている。
一度消えたはずの壊れた姿が、追うように意識を向けたときだけ、ほんの短く戻った。
あれをもう一度見られないか。
「また見るのか」
父に言われ、エルドは石を手元へ寄せた。
「少しだけ」
「仕事始める前にな」
「分かってる」
昨日、白い破片が重なっていた右端を見る。
今は何もない。
あのとき自分は何をしていたのか。
壊れた形を思い出そうとしたわけではなかった気がする。消える直前までそこにあった何かを、そのまま離さないようにしていた。
同じつもりで意識を向けてみる。
それでも、石は石のままだった。
「駄目か」
「うん。昨日は一回だけ戻ったんだけど」
「なら、まだできるとは言えんな」
「そうだね」
「まあ、何度か試してみろ。仕事の邪魔にならん程度にな」
「分かってる」
表の扉を叩く音がしたのは、その直後だった。
「開いてるぞ」
父が声を返す。
入ってきたサヴィンは、いつもの調子で世間話を始めるより先に紙を取り出した。
「昨日の石、仲買まで確認してきた」
「早かったな」
「こっちが流した荷で妙なことが続いてるんだ。残りまで出回ってからじゃ遅いだろ」
サヴィンは折り畳んだ紙を作業台に広げた。
話は、昨日鉱山で聞いたものと食い違ってはいなかった。
問題の石は、やはり再開してから掘ったものではない。閉山前から積まれたまま残っていた石を、鉱山を再び動かす際に選り分け、その中からまだ使えると判断されたものが出荷された。
ただ、いつ掘られたのかも、坑道のどこから出たのかも、仲買の記録には残っていなかった。
サヴィンは紙の一か所を指で叩いた。
「鉱山から出た荷はいったん河岸の荷捌き場に入って、そこで買い手ごとに分けられてる。それで、端数になった箱が一つだけ残ってた」
「同じ荷の?」
「ああ。次の荷とまとめて出す予定だったらしい」
エルドは作業台の石を見た。
一個だけでは、その石だけの異常なのか、荷全体に同じ傾向があるのかまでは判断しにくい。
それでも、同じ荷が残っているなら確かめておきたい。
「見に行ける?」
「ああ。そのつもりで話は通してある」
父は作業台の石を手に取った。
「なら、その前に一つ確かめておくか。向こうで比べるなら、今のうちに基準があった方がいい」
棚の布袋から石を一つ取り出す。以前から工房で使っている同種の触媒材で、今回の荷とは別口のものだ。
「昨日の石と、こっちを比べてみろ」
エルドはまず、父が出した方へ細く魔力を流した。
慣れた感触のまま、入れた魔力が奥へ抜けていく。触媒材を扱う仕事では何度も繰り返してきた、ごく普通の反応だった。
昨日の石に替える。
同じ程度に抑えて流し続けると、途中でほんのわずかな鈍さが混じった。
止まったわけではない。入れた魔力が一瞬だけ石の中に引っかかり、遅れて抜ける。
「やっぱり違う」
父にも二つを渡した。
「加工はしない。通すだけだ」
まず普通の石へ、ごく弱く魔力を通す。
次に問題の石へ替えた。流す量は上げない。しばらく黙ったまま確かめていた父が、二度目で指を止めた。
「……あるな」
「分かった?」
「ああ。ただ、言われなきゃそのまま流してたかもしれん」
父は手の中の石を見た。
「お前、最初からこれを拾ったのか」
「引っかかった感じはした」
「こういう細い変化に気づくのは早いな」
褒められたのかどうか、微妙なところだった。
サヴィンが二つの石を覗き込む。
「俺でも分かるか?」
「普段からこんな流し方してないなら、たぶん難しいぞ」
伸ばしかけていた手を、サヴィンはそのまま引っ込めた。
「じゃあ、今まで気づかなかったのもおかしくはないか」
「慣れの差はあると思う」
父は問題の石を作業台へ戻した。
「原因がはっきりするまでは、うちじゃこの荷は使わん」
「俺の手元の分も止めてある。仲買にも、今日いっぱいは同じ荷を動かさないでくれって頼んだ」
「向こうは?」
「渋られたよ。でも、こっちで続けて妙なことが出てるって話したら、今日一日だけなら止めるってさ。明日以降は返事をくれって」
それでも、昨日だけ戻ったあの姿と、今確かめた引っかかりが本当に無関係なのかは気になった。
「父さんも来る?」
「今日は無理だ。止めてた仕事が残ってる」
工房の奥には、まだ手をつけていない材料がいくつも残っている。
「サヴィンと行ってこい。残ってる石があるなら、お前が見た方が早い」
「俺が?」
「今ここで最初に違いを拾ったのはお前だろ」
父がそう言うなら、断る理由もなかった。
「分かった」
エルドが頷いても、父はすぐには作業へ戻らなかった。
「ただし河岸までだぞ」
「分かってる」
それでも父は念を押すようにエルドを見た。
「向こうで話が変わっても、そのままついて行くなよ」
「そこまでしないって」
「昨日だって、最初から坑道に入るつもりじゃなかっただろ」
そこを言われると返しに困る。確かに、最初から入るつもりだったわけではない。
「それは――」
「成り行き、とか言うなよ」
言おうとしたことを先に塞がれて、エルドは口を閉じた。
横でサヴィンが笑っている。
「行こう。これ以上いると、俺まで何か言われそうだ」
父はサヴィンを一度見ただけで、作業台へ向き直った。
エルドはその背中に「行ってきます」と声をかけ、サヴィンと工房を出た。
◇
河岸へ近づくにつれて、人の声と荷車の音が増えていった。
船から樽を下ろす人足が声を掛け合い、その脇を荷車が抜けていく。縄でまとめられた籠や木箱が道沿いに積まれ、川から上がった荷が次々と街へ運ばれていた。
坑道では小さな石の転がる音まで気にしていたせいか、あちこちから音が重なる河岸は妙に広く感じる。
「こっちだ」
サヴィンが河岸から一本入った道へ曲がった。
その先にあった倉庫は、大きな両開きの扉を開け放っていた。中では何人かの人足が荷を積み替えている。
サヴィンが声をかけると、奥から出てきた男がこちらへ来た。
「例の鉱山の荷だな。一箱だけ残ってる。注文の数に合わなくて、次の荷とまとめる予定だったやつだ」
「悪いけど、それも今日は動かさないでくれ」
「ああ、仲買から聞いてる。今日中だろ」
「助かる。中だけ見せてくれ」
男が人足に声をかけ、ほどなく木箱が運ばれてきた。
膝より少し低い、ごく普通の箱だった。新しい番号札が付いていて、外から見ただけでは工房へ来た荷との違いはない。
蓋が開くと、灰白色の石が並んでいた。
「触ってもいいですか?」
「壊さなきゃ好きにしろ」
一つ取り、指先から細く魔力を流す。
少しして、工房の石と似た鈍さが混じった。
「これもある」
もう一つ。
今度はずっと弱かったが、一定に流している途中で一度だけ引っかかる。
二つ続いた。
工房へ来た一個だけに起きていることではなさそうだった。
石を箱へ戻したところで、脇に置かれた蓋の裏に黒い線が残っているのが目に入った。
「待って」
近づいてみる。
板に染み込んだ古い印だった。何本かの線を組み合わせた形で、ところどころが擦れて薄くなっている。
エルドが指を向けると、倉庫の男も蓋を覗き込んだ。
「ああ、その印か。古いやつだな。俺がここに来た頃には、もう使ってなかった」
表に付いている番号札とは、見た目からして違う。
「この箱、ここで詰め替えたんですか?」
「いや。鉱山から来たままだ。こっちで付けたのは表の札だけだよ」
それなら、この印は河岸へ着く前から付いていたことになる。
鉱山から来た箱に残っていたものなら、写しておく意味はある。
「サヴィン、紙持ってる?」
「あるけど、どうした」
「これ、写しておきたい」
借りた紙を蓋の横に置き、残っている線を一つずつ写し取っていく。
濃く残った線は紙に写せた。
けれど、擦れたところから先は途切れている。
紙の上には、欠けた古い印が残った。




