第21話 入れ替え戦前夜
七月の風が、訓練場の砂を薄く撫でた。
誠は木刀を振らず、蓮司が構えるのを待っていた。
明日、黒羽と戦う。
その前の、最後の確認だった。
蓮司は左肘の位置を直し、右足を半歩引く。
五月には、言われるたびに全部を直そうとして固まっていた。
今日は、自分で一つだけ選んだ。
「いいぞ」
誠は踏み込む。
細雪・薄氷で動き出しを小さくし、触れたところから水切りへ移る。
木刀同士が、小さく鳴った。
蓮司は押し返そうとして、やめた。
「返すところを掴めなかった」
「無理に押さなかったな」
「押すと、自分が前へ出る。何度もやったから、さすがに」
蓮司は、自分の足跡を見た。
誠よりも先に、少し嬉しそうに笑う。
千紘が横から近づいた。
「今のは、左足の音が小さかった。ただ、二回続けると肩が下がる」
「癖が戻るか」
「うん。黒羽なら、そこを待つと思う」
玲奈は紙へ線を一本足した。
「水切りのあと、剣先を戻さず、身体の方を置き直してください。二回目を一回目と同じ場所から始める必要はありません」
透は砂時計を横へ寝かせた。
「今日は、増幅ありの練習は終わりです」
誠が顔を上げる。
「あと一回、時計と合わせて」
「昨日、確認しました。起動から一分までは上昇なし。一分が満ちたあとは、出力を必要な分へ絞る。今日は、その前の動作が揃っています」
透の声は揺れなかった。
「疲れてずれた動きを覚え直す方が、明日困ります」
誠は木刀を下ろした。
四人が止めに来るより先だったので、千紘が少し驚いた顔をした。
「学習したな、俺も」
「遅い」
彼女は笑った。
警告文の件では、学校の調査が続いていた。
道具棚への不審な照会は断られ、訓練場へ出入りした記録も確かめられた。
差出人までは、まだわからない。
ただ、そのあと二か月、四人が襲われることはなかった。
何も起きなかったから無意味だった、と誠は思わなかった。
道具を受け取る場所に、毎日教師が立っていたのを知っている。
夕方、榊が最後の確認に来た。
試合前の身体検査。使用する木刀。技能の制限範囲。
誠は紙へ署名する。
「試合場へ立つのは一人。外からの術式補助、予測の伝達、技能の接続は認めない」
「はい」
透も頷いた。
明日は、記録するだけだ。
「使う技能のすべてを観客へ公表する必要はない。ただし、相手の記憶を試合後まで改変する行為は認めない」
誠は、完全犯罪を本戦で選ばないことを決めていた。
偽装は自分の気配と動作の見え方に範囲を絞る。
上手く隠せるから使う、というだけでは済ませなかった。
榊は、誠の右手を取って開かせた。
「痛みは」
「今はありません」
「試合中に握れなくなれば止める。お前の返事を待つとは限らん」
誠は頷いた。
「先生が止める前に、勝ちます」
「その言い方が、お前だな」
榊は笑わなかったが、手を放す時だけ少し表情を緩めた。
片づけたあと、五人は訓練場の縁へ座った。
誰もすぐに帰ろうとしなかった。
透が、薄い綴じ紙を誠へ渡した。
「当日読むのは、この一枚だけにしました」
最初の頃は、文字が小さすぎて、頁の上にもう一枚あるように見えた。
今日の紙には、確かめた事実と、まだわからないことが、短く並んでいる。
「全部、入れなくていいのか」
「覚えるためじゃなく、迷った時に戻るためなので」
誠は紙を折り、懐へ入れた。
千紘は布を差し出した。
「靴底に巻くやつ。使っていいか、今日の検査で確認した」
「これは、本番では使わない」
千紘の指が止まる。
「どうして」
「乾いた砂と湿った砂で、滑り方が違った。最後の一歩を、まだ身体が覚えきってない」
誠が言うと、彼女は布を見る。
やがて、頷いた。
「じゃあ、荷物に入れて。帰りの木刀、包むのに使えるから」
「そうする」
受け取った布は、何度も洗ったらしく柔らかかった。
使わないと決めたことまで、準備した結果だった。
玲奈は自分の手のひらに、小さな線を描いていた。
「明日、黒羽さんが細雪へ対応したら、同じ形へ固執しないでください」
「わかってる」
「私は、形を変えるのが苦手でした。それを教えてくれた人が、私の書いた形から出られなくなるのは嫌です」
誠は、その目を見て頷き直した。
蓮司だけは、渡すものがなかったらしい。
膝の上で手を擦り、少し迷ってから言った。
「怖くないか」
誠は空を見た。
「怖いよ。知らない技を、まだ持ってるだろうし」
「誠でも、怖いんだな」
「見たことないから、見たいとも思ってる」
蓮司が困ったように笑う。
「俺、勝ってほしい。けど、立てなくなるまでやってほしいわけじゃないんだ」
誠は何も言えなかった。
千紘は下を向き、玲奈は筆をしまった。
「負けて帰ってきても、明日から見てくれるんだろ」
「ああ」
「じゃあ、帰ってこいよ」
誠は、懐の紙と布を一度押さえた。
「帰ってくる。勝って」
最後の言葉に、蓮司が笑った。
校門へ向かう途中、柊木が待っていた。
誠の荷物を見て、今日はもう振らないのかと聞く。
「止められた」
「いい人たちだね」
「知ってる」
柊木は、少しだけ目を逸らした。
「勝ったら、松平が残した記録へ近づけるかもしれない」
「近づけないとしても、黒羽とは戦う」
彼女がこちらを見る。
「それは、よかった」
どういう意味だと尋ねる前に、柊木は続けた。
「松平を口実にして、無茶をしないでほしかったから」
誠は立ち止まった。
彼女はもう、前を歩く四人の背中を見ていた。
「明日も、あの人たちと帰って」
それだけ言い、校舎へ戻っていく。
誠は、その小さくなった背中を見送ってから、四人へ追いついた。
部屋へ戻り、木刀を壁へ立てる。
試合のために書いた紙を、今日は一枚しか開かなかった。
明日の帰りに買うものを、その下へ書いた。
六人分の菓子。
柊木が受け取るかどうかは、まだわからなかった。




