第16話 五月の入れ替え戦
鷹宮慎也は、試合場へ入る前に一度だけ左手を握った。
親指の付け根に、白く残った傷がある。
黒羽宗一郎は、その手を見てから木刀を下ろした。
「治ったか」
「お前を殴る分にはな」
「剣で来いよ」
二人が笑った。
観客席の誠は、その短いやり取りで、今日の試合を見に来てよかったと思った。
記録にある敗北は一行だ。しかし、あの手で一年、何度剣を握り直したのだろう。
蓮司たちは隣へ座った。
透が手帳を開く。千紘は前の席の頭を避け、足元の見える位置へ座り直す。玲奈は審判が説明する使用範囲を聞いていた。
反響を使う試合のため、床の振動は外周で受け止められる。
観客へ届くのは、響く音まで。防護の担当者が四隅で札を確かめ、審判が開始を告げた。
鷹宮の一歩で、砂が後ろへ飛んだ。
疾駆・風切り。
木刀を振る速さより、距離が詰まる方が速い。
黒羽の右腕を打つと見せ、鷹宮は接触の直前に手首を返した。先端が下へ回り、膝へ向かう。
黒羽が受けた。
乾いた音がし、鷹宮の身体がわずかに浮く。
だが、倒れない。左足を先に引いて、返された力を流した。
「同じ手は、もう受けねえ」
鷹宮が二撃目へ移る。
今度は強く当てない。木刀の先を触れさせ、黒羽が返す前に離す。
三撃、四撃。
黒羽の袖をかすめた時、観客席から声が上がった。
「押してる」
千紘が囁いた。
誠も頷く。
単に速くしたのではない。
相手が受け取りたい大きな衝撃を渡さず、小さな接触で防御の形を動かしている。
去年負けた先にある剣だった。
黒羽の木刀が、低く鳴った。
反響剣・送り鐘。
鷹宮は打ち込んだあと、肩を引いた。
返ってくるはずの衝撃を待つ。
何も来ない。
ほんの一瞬だけ、足が止まった。
黒羽はその瞬間に、半歩前へ出た。
かん、と高い音が遅れて響く。
鷹宮の左腕が外へ開いた。
「今の、さっきの打ち込み?」
透が手帳へ線を引く。
誠は、鷹宮の肩が開いた位置を見ていた。
返す時刻を選んだだけではない。待った相手が次の動作へ移る、その瞬間を選んでいた。
鷹宮は歯を食いしばって剣を戻す。
黒羽の一撃を避け、横へ走った。
速い。避けたあとの姿勢も、綺麗に残っている。
その二歩目が、砂へ沈んだ。
反響剣・帰り鐘。
腕へ返した衝撃とは別の、溜めてあった一打が、地面を通って戻ってきた。
鷹宮は右足で踏ん張り、膝をつく寸前で止まる。
そこへ木刀が迫った。
受けた音が、場内へ響いた。
「鷹宮先輩、まだ止めてる!」
蓮司が身を乗り出す。
黒羽の剣が喉へ届く寸前で、鷹宮は鍔元を差し入れていた。
片膝のまま押し返し、立つ。
左腕が震えている。
「これだけか、黒羽」
「まだ立つなら、次もある」
黒羽の声から、軽さが減った。
鷹宮は笑って、また走る。
勝負が終わったのは、それから十数合あとだった。
鷹宮が左から入り、黒羽の木刀を弾いた。
返りが来る。わかっている。鷹宮は踏み込まずに待ち、来た振動へ膝を合わせた。
誠は、上手いと思った。
だが黒羽は、木刀ではなく肩で鷹宮の剣を受けた。
鉄響身。
身体の表面で受けた力が、足まで流れる。
黒羽自身は動かず、その力だけが相手の足裏へ返った。
鷹宮の踵が浮く。
黒羽の木刀が、胴の前で止まった。
「勝負あり。勝者、黒羽宗一郎」
拍手が起こった。
歓声の中で、鷹宮は自分の左手を見ていた。
黒羽が手を差し出す。
「去年より、ずっと嫌だった」
「慰めるな」
「慰めで肩を打たせるかよ」
黒羽が羽織の袖を上げる。
赤い痕が、そこに残っていた。
鷹宮はその痕を見て、ようやく手を取った。
誠は拍手をやめられなかった。
新しい技を見た興奮だけではない。
負けた側にも、去年から積み上げたものが残っている。それを勝った黒羽が、ちゃんと見ていた。
「どうだった」
隣の蓮司に聞かれ、誠は少し考えた。
「強かった。二人とも」
「だよな」
透は手帳の最後に、鷹宮の剣筋を一本書き足している。
千紘は自分の左足を見下ろしていた。玲奈もまだ試合場を見ている。
その時、黒羽がこちらを向いた。
「おい、木刀を持ってくれた一年」
指を差され、誠は周りを見た。
皆の視線が、既にこちらへ向いていた。
「俺か」
「ほかに三本のうち一本を運ばされた奴がいるかよ」
黒羽は、肩に残った赤い痕へ袖を戻す。
「何か、見つかったか」
「返すタイミングが、打った順番と違う」
黒羽の目が少し細くなった。
「それで?」
「足から返す時と、木刀から返す時で、構えが違う。まだ見分けられないけど」
「へえ」
周囲の話し声が小さくなる。
誠は気にせず、試合場の足跡を見た。
黒羽が動かなかったように見えた場所にも、僅かに踵を回した痕がある。
あれをもっと近くで見たい。
「次は、お前が試すか」
黒羽の問いに、誠は顔を上げた。
蓮司が隣で息を止める。
遠くの観客席にいた柊木が、こちらを見た。
予定していた返事はなかった。
だが、木刀を合わせた時の感触まで知りたかった。
「二ヶ月後に」
声に出すと、日付が急に近くなった。
黒羽は一度だけ眉を上げ、笑った。
「名前を覚えとく必要があるな」
「斎藤誠」
「わかった。七月、待ってる」
隣で、蓮司が頭を抱えた。
誠は、七月までの日数を数え始めていた。




