第12話 一年三組
「そこ、誰か座ってる?」
朝倉蓮司は、誠の返事を待たずに前の椅子を引いた。
腕には教本が三冊。いちばん上の本には、朝食の汁らしい染みがついている。
「指定席だろ」
「わかってる。話しかけるきっかけってやつだ」
蓮司は椅子を逆向きにし、背もたれへ両腕を乗せた。
「昨日はちゃんと名乗れなかったし。朝倉蓮司。蓮司でいい」
「斎藤誠。知ってると思うけど」
「知ってる。榊先生と三分やった奴」
もう、その説明が名前について回っているらしい。
誠が肩をすくめると、蓮司は手のひらを見せた。
「俺なんか、振ったあとに毎回崩されてさ。千回振ってても、ああなるんだよな」
固くなった皮の間に、新しい傷がある。
誠は、その手から目を離せなかった。
「毎日、千回?」
「雨でもな。道場が使えない日は軒下。家の柱に一回ぶつけて怒られた」
「振ったあと、止まれるか」
「止まる?」
蓮司が右肩を上げた。
木刀を振る真似をしかけ、教室だと思い出したらしくやめる。
「強く振ろうとして、次へ戻す足まで使ってる。試験で遅れたのは、そのせいじゃないか」
「……見てたんだな」
「順番が後だったから」
もっと食いついてくるかと思った。
しかし蓮司は、手を下ろした。爪の間に残った墨を親指で擦っている。
「じゃあ、千回って、無駄だったのかな」
誠はすぐには答えられなかった。
悪い癖を何度も反復している。それはそうだ。だが、その言い方で片づくものではないと、差し出された手を見て思った。
「無駄なら、あの打ち込みはできないだろ。止まる方も練習すればいい」
「そっちも千回?」
「まず十回」
「十回!?」
大きな声に、後ろの席の少女が顔をしかめた。
「朝からうるさい」
「悪い、水瀬」
水瀬千紘は、机へ載せていた足を下ろした。
誠を見る目が、少し尖っている。
「斎藤って、人の剣をそんなに簡単に直せるの?」
「直せるとは、まだ言ってない」
「十回で変わるみたいな言い方してたじゃん」
「十回やって、変わるか見る」
千紘は鼻で笑った。
「私のも見る?」
「踏み込んだあと、横へ動きにくそうだった」
言ってから、誠は少し後悔した。
千紘の口元から、笑みが消えたからだ。
「足が遅いってこと?」
「速い。だから、止める方が間に合ってない」
千紘は何も言わず、帯の木刀へ指を掛けた。
抜きはしない。自分で指を離し、窓の外を見る。
「あとで、見せてよ。止まれる速い剣ってやつ」
榊が教室へ入ってきたのは、その直後だった。
出席簿を置く音で、椅子が一斉に前へ向く。
「今日は基礎測定だ。上手く見せるための試験ではない。自分に何が足りないか、教師と一緒に確かめる」
誠は少し姿勢を正した。
榊の目が、それを見て細くなる。
「隠していいものと、隠すと自分が困るものを間違えるな」
訓練場に並ぶ三十二人は、全員が木刀を持っている。
同じ長さの木を渡されても、持ち方はばらばらだった。
蓮司は、順番を待つ間も握ったり緩めたりしている。千紘は剣先で地面を小さく叩き、足の置き場を確かめていた。
九条玲奈の番になると、空気が少し変わった。
白い袖が、型の動きに一拍遅れてついていく。どの位置で止めても、教本の挿絵にできそうだった。
ただ、相手のいない型なのに、誠には次の剣の置き場が見えてしまう。
「何か?」
終えた玲奈が、こちらへ来た。
誠は口に出した覚えがなかったので、少し驚いた。
「私の剣を見て、首を傾げていました」
「失礼だったな」
「失礼かどうかは、内容を聞いてから決めます」
言い逃れの余地がない。
「三手目のあと、必ず左へ戻るんだなと思って」
「その位置が、最も次へ移りやすいので」
「相手にも、次へ移りやすい場所を教えてる」
玲奈の目が、誠の足元へ落ちた。
自分ならどこを狙うか、考えているらしかった。
「入学試験で、同じことを言われました」
少し離れていた風間透が、顔を上げる。
「でも、九条さんは四手目を変えようとしていましたよね」
玲奈が振り向く。
透は、しまったという顔をした。
「すみません。見ていたので」
「謝らなくても。どこで、そう思いましたか」
「剣先だけ、下へ向きかけました。足が先に元の位置へ戻ったので、やめたのかと」
玲奈は木刀を見下ろした。
誠も、透を見た。
実際に何が起きたかを、随分細かく拾っている。
「そこまで見えて、試験では動かなかったんだな」
誠が言うと、透は肩を縮めた。
「見えるのと、できるのは……」
「ああ。違う」
その返事に、透は少しだけ顔を上げた。
責められると思っていたのかもしれない。
榊が誠の名前を呼んだ。
前へ出て、木刀を構える。
限界突破を見せる必要はない。だが、足運びまでわざと崩してしまえば、この三年間を学ぶために来た意味も薄れる。
誠は、できる範囲の基本をそのまま行った。
肩に余分な力を残さず、剣先を止め、次の位置へ移る。
榊の視線が、一度だけ足へ落ちた。
「その戻り方は、誰に教わった」
「何度も失敗したので」
「失敗を教えた者の名を聞いているんだがな」
答えられないまま、誠は一礼した。
測定のあと、蓮司が小さな声で呼んだ。
「十回、付き合ってくれる?」
先ほどまでの千回の話より、頼むのが難しそうな声だった。
誠が頷くと、千紘も近づいてくる。
「私も見る。口だけじゃないか、確かめるから」
「それなら、私もお願いできますか」
玲奈は、ごく自然に列へ加わった。
透は二歩離れたところで、来るかどうか迷っている。
「風間も、見たいなら」
「いいんですか」
「見るだけなら俺の許可はいらないだろ」
透は、そこで初めて少し笑った。
四人と話していると、後ろから榊が来た。
「午後は、その組み合わせでやる」
誰も返事をしなかった。
榊は順番に顔を見る。
「斎藤が四人の相手だ。ただし、言われた通りに動く必要はない。言われた弱点を知った上で、どう変えるかを考えろ」
千紘の表情が変わった。
ただ負けを確かめる授業ではないと、わかった顔だった。
「斎藤も、見た一回だけで相手を決めつけるな」
「はい」
その言葉は、誠にも刺さった。
ゲームの中で何度も見た剣でも、目の前の人間は次に何を選ぶかわからない。
四人を攻略表の四つの欄に押し込むには、まだ何も知らなかった。
昼休みの鐘が鳴る。
蓮司が、木刀と弁当を同じ手で持とうとして取り落としかけた。
千紘が呆れながら木刀を取る。
「まず、一度にやりすぎるのを直しなよ」
「それも十回で直る?」
「知らない」
玲奈が笑った。
誠はその声を聞き、午後の四人を、少し楽しみに思った。




