第11話 入学式
制服の帯を結び直していたら、入学式の鐘が鳴った。
「斎藤くん、それ以上引っ張ったら昼飯が入らないよ」
宿の女将が笑って、結び目を少し緩める。
誠は礼を言い、鏡に映った自分を見た。白い羽織。新しい袴。腰には、数日前まで触ったこともなかった木刀がある。
見た目だけなら、どこにでもいる新入生だった。
「似合うじゃないか」
「そうですか」
「うん。昨日までより、ちゃんと帰ってきそうな顔をしてる」
意味を聞き返す前に、包みを渡された。握り飯が二つ。
「最初の日くらい、昼を食べなさい」
誠は懐へ入れた。試験の攻略を考えている間、昼飯を忘れたことまで見られていたらしい。
講堂の椅子は硬かった。
名前を呼ばれた新入生が立つたび、袴の擦れる音がする。前の席の少年は、緊張しているのか、両膝へ置いた拳を何度も握り直していた。
誠は式次第の端に、今日聞きたいことを一つだけ書いていた。
松平義久。
合格発表の時、柊木暦は今日なら話すと言った。
あの男は何者なのか。自分に何を知っていると思ったのか。確かめたいことは山ほどある。
だが、教師席にも来賓席にも、見覚えのある顔はなかった。
「斎藤誠」
慌てずに立つ。返事をする。
それだけのことが、少し懐かしかった。
高校二年の頃は、こうした時間が早く終わればいいと思っていた。家へ帰れば、まだ倒せていない敵が待っていたからだ。
十年が過ぎた今、別の世界でまた出席を取られている。
座ると、前の少年が振り返った。
「声、落ち着いてんな。俺、裏返った」
「名前を呼ばれただけだろ」
「それが難しいんだって」
少年は小さく笑い、前へ向き直った。
朝倉蓮司。入学試験で、何度崩されても木刀を離さなかった少年だった。
一年三組の教卓に、榊冬馬が立っていた。
誠は自分の席を確かめてから、もう一度教卓を見た。
変わらない。試験官の時と同じ顔が、こちらを見ている。
「不満そうだな、斎藤」
「知っている先生で安心しました」
「その調子で嘘をつくなら、三年は長いぞ」
教室の何人かが笑った。
榊は出席簿を開く。誠の欄だけ特別に印をつける様子はなく、一人ずつ、読み方まで確かめて名前を呼んだ。
「校則の説明は短くする。紙を読めばわかるところは省く」
黒板へ、二つの語を書く。
技能。行為。
「禁止事項は、スキルの名前だけで判断しない。他人の意思を奪う。本人の許可なく記憶を変える。能力を覗いて利用する。そうした行為を禁じる」
誠は配られた紙へ目を落とした。
認識に作用する技能については、演習ごとの使用範囲が別に定められている。
自分の動きを見誤らせることと、戦いのあとに相手の記憶を書き換えることは、同じ扱いではなかった。
「では、幻惑を使う流派は、不利になるのですか」
窓から二列目の少女が聞いた。九条玲奈。
榊は首を振る。
「対戦相手が承諾した範囲で使える。条件は試合前に示す。隠して破った者を罰するのであって、流派そのものを罰するのではない」
「承知しました」
誠は紙をめくる手を止めた。
偽装にも完全犯罪にも、できることはいくつもある。できるからといって、全部を同じ場で使っていいわけではない。
自分の手札の強さより先に、使ったあとの相手がいる。
そのことを、今朝の教室で確かめられたのはよかった。
「闘獣階への挑戦も申請制だ。上位者を廊下で襲って勝っても席は移らん。医務室へ運ばれる者と、処分される者が増えるだけだ」
蓮司が小さく唸った。
「やった奴がいるんだろうな……」
「今年は、まだいない」
榊は聞き逃さなかった。
校内案内が特別闘技場へ着く頃には、昼を過ぎていた。
厚い扉の横には、使用中を示す札と、点検簿が掛かっている。剣で勝ち取る席へ続く場所のわりに、入口はひどく事務的だった。
「待たせた?」
誠が振り返ると、柊木暦が壁にもたれていた。
黒い髪の下で、視線だけが動く。先に行った案内の列へ、誠は少し遅れると伝えた。
「約束を忘れたかと思った」
「忘れられた方が楽だったんじゃない?」
「柊木が?」
彼女は答えず、扉の使用札を裏返した。
話している間に、誰かが開けないようにしたのだと、誠は遅れて気づいた。
「松平は、学校にいない」
「今、出かけているという話じゃないよな」
「記録上は、所在不明。部屋は残ってる。荷物も、そのまま」
柊木は袖から小さな紙を出した。人名の下に、日付が一つある。
誠がこの世界へ来て、道端から宿へ運ばれた日だった。
「待ってくれ。俺が会ったのは、その翌朝だ」
「知ってる。だから、あんたの話を聞きたかった」
誠は紙と、彼女の顔を見比べた。
消失したと書かれたあとで、松平は通りを歩き、誠に話しかけている。
どちらかが間違いなのか、それとも、この日付が示すものが違うのか。
「最後に見た人が、この日に決まったわけじゃないのか」
「うん。学校が所在を確認できなくなった日。本人がどこで何をしていたかは、別」
「なら、俺が会った場所を――」
「調べた。教えられた通りも、道場へ入るところも。続きを見た人がいない」
柊木の声は、いつもより乾いていた。
誠はようやく、彼女が単に情報を小出しにしているのではないとわかった。
何度も同じ道を歩いて、そのたびに見つからなかった人間の声だった。
「松平は何を調べていた?」
「闘獣階。特に、一位の白神」
「白神が何かした証拠は?」
「ない」
即答だった。
「ないから、犯人とは言ってない」
誠は頷いた。
柊木の指が、紙の折り目をなぞる。何度開いたのか、端が柔らかく擦り切れていた。
「どうして俺に見せた」
「松平に会って、顔を覚えてるから」
しばらくして、彼女は付け足した。
「あの人が、本当に笑ってたか、もう一度聞きたかった」
誠は、朝の白舟を思い出した。
道を歩いてきた松平の声。入門試験の助言。手を軽く振って、去っていく姿。
「笑ってたよ。俺が知ってる顔より、ずっと穏やかだった」
「知ってる顔?」
「……怖い人だと聞いてたから」
柊木は追及しなかった。
紙をしまい、使用札を元へ戻す。
「勝手に危ないところへ入らないで。あんたまで探すのは嫌」
口を開きかけた誠を残し、彼女は廊下を歩いていった。
扉の向こうで、かちりと金具が動く。
誠は反射的に振り返ったが、今は追わなかった。
懐の握り飯が、潰れかけている。
廊下の端へ座り、一つ取り出した。
冷めた米の塩気が、やけにはっきりした。
学校に入れば何かがわかると思っていた。その「何か」は、攻略表の空欄より、ずっと重いものだった。




