第10話 柊木暦
「隠すの、上手だね」
柊木暦は、そう言った。
声は静かだった。
褒めているようにも聞こえる。
皮肉にも聞こえる。
ただ事実を述べているだけにも聞こえる。
誠は一瞬だけ返答に迷った。
この少女は、何を見抜いている。
限界突破か。
蓮撃への切り替えか。
それとも、ただ実力を抑えて戦っていたことか。
わからない。
わからないなら、下手に踏み込まない方がいい。
誠は、自然に笑った。
「何の話だ?」
「そういうところ」
柊木は表情を変えずに言った。
「わかってるくせに、わかってないふりをするところ」
「人違いじゃないか?」
「人違いで、斎藤誠に話しかけたりしない」
即答だった。
周囲では、まだ合格発表に一喜一憂する受験者たちが騒いでいる。
歓声。
泣き声。
家族に駆け寄る足音。
教師に質問する声。
その喧騒の中で、誠と柊木の周囲だけ、妙に静かだった。
柊木の存在感が、周りの音を遠ざけているように感じる。
誠は内心で警戒を強めた。
この少女は危険だ。
ゲームでの強さを知っているからではない。
今、目の前にいる柊木暦自身が、明らかに普通ではないからだ。
「合格、おめでとう」
柊木はもう一度言った。
「ありがとう。柊木も合格ってことでいいのか?」
「私は試験を受けてない」
「特別編入候補、だったな」
「うん」
柊木は何でもないことのように頷いた。
そこに自慢はない。
誇る様子もない。
ただ当然のこととして受け入れている。
「試験を受けなくていいって、かなり特別扱いだな」
「そうだね」
「理由を聞いても?」
「聞くだけなら」
「答えては?」
「気が向いたら」
誠は苦笑した。
やりづらい。
松平義久とは違う意味で、会話の主導権を握りづらい相手だった。
松平は穏やかに見えて、奥に何かを隠していた。
柊木は、隠していること自体を隠さない。
聞きたければ聞けばいい。
答えるかは別。
そんな態度だった。
「試験、見てたのか?」
誠が聞くと、柊木は少しだけ首を傾げた。
「少しだけ」
「俺のも?」
「うん」
「どうだった?」
「上手だった」
「それはどうも」
「隠すのが」
誠は黙った。
柊木は続ける。
「榊先生は、たぶん気づいてる。あんたが最後に何かしたことまではわかってない。でも、動きが変わったことは見てた」
「柊木はわかったのか?」
「全部はわからない」
全部は。
つまり、一部はわかっているということだ。
誠は質問を変えた。
「俺が何を隠してると思う?」
「それを私が言うと思う?」
「思わない」
「正解」
柊木は、ほんの少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
だが、その表情はすぐに消えた。
「斎藤誠」
「何?」
「あんた、何をしにこの学校へ来たの?」
その質問は、まっすぐだった。
誠は答えを用意していた。
「剣を学びに来た」
「嘘ではないね」
「じゃあ納得してくれ」
「でも、それだけじゃない」
柊木の目が誠を見る。
黒い瞳。
そこには、好奇心も敵意も薄い。
ただ、確かめるような静けさがあった。
「闘獣階?」
誠は目を細めた。
「どうしてそう思う?」
「今日、掲示板の前で一位の名前を見てたから」
「見てたのか」
「見てた」
やはり油断ならない。
誠は、掲示板の前で明鏡止水と偽装を使っていた。
それでも柊木は、こちらの視線や関心を拾っていた。
完全には隠せていない。
「闘獣階には興味がある」
「やめた方がいい」
柊木は即座に言った。
その言葉には、軽さがなかった。
ただの忠告ではない。
経験からくる言葉に聞こえた。
「理由は?」
「面倒だから」
「それだけ?」
「死にはしないかもしれない。でも、普通ではいられなくなる」
誠はその言葉を覚えた。
普通ではいられなくなる。
佐伯の忠告とも似ている。
闘獣階に近づくな。
松平に深入りするな。
危険なのは松平本人ではなく、松平が近づいているものだ。
やはり、闘獣階には何かがある。
「柊木は、闘獣階に詳しいのか?」
「それなりに」
「なら、松平義久についても知ってる?」
その名前を出した瞬間。
柊木の目が変わった。
ほんの少しだけ。
だが、確かに温度が下がった。
「誰から聞いたの?」
「道で会った」
「いつ?」
「入門試験の日」
「何を話した?」
質問の速度が変わった。
今までの淡々とした調子ではない。
柊木は明らかに、松平義久という名前に反応している。
誠は慎重に言葉を選んだ。
「入門試験の助言をもらった。白舟の試験は、勝つことより正しい選択ができるかを見るって」
「他には?」
「白舟剣術学校に入ることになったら、また会うかもしれないって」
「他には?」
柊木の声が、少しだけ鋭くなる。
誠は一拍置いた。
「この世界は、君が知っているほど簡単じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、柊木は沈黙した。
周囲の喧騒が、遠くなる。
誠は柊木の顔を見ていた。
表情はほとんど変わっていない。
だが、目だけが違う。
柊木暦は、その言葉を知っている。
少なくとも、松平がそう言ったことに意味があると理解している。
「……そう」
やがて、柊木は小さく呟いた。
「松平は、あんたに会ったんだ」
「知ってるのか?」
「知ってる」
「松平は、この学校の人間なのか?」
柊木はすぐには答えなかった。
視線を合格者一覧へ向ける。
そこには、斎藤誠の名前がある。
その視線が、誠の名前の少し下で止まった。
そこには、合格者の中でも一人だけ、赤い印のついた名前があった。
赤い印は、名前の横に小さく押されているだけだった。
だが、周囲の合格者には同じものがない。
誠が目を向けると、柊木はすでに視線を外していた。
「今は違う」
「今は?」
「入学式の日に教えてあげる」
誠は眉をひそめた。
「今じゃなくて?」
「今じゃない」
「どうして?」
「今日聞いたら、あんた寝ないで調べ回るでしょ」
「否定できないな」
「だから今は言わない」
柊木は当然のように言った。
誠は少し笑った。
読まれている。
そして、おそらく正しい。
もし今、松平について重要な情報を聞けば、誠は今夜中に動くだろう。
学校の中へ忍び込むか、関係者を探すか、街で噂を集めるか。
どちらにせよ、休む選択肢は消える。
それを柊木は止めようとしている。
なぜか。
親切心か。
警戒か。
それとも、誠に今動かれると困る理由があるのか。
判断はできない。
だが、少なくとも柊木は松平の件について何か知っている。
「入学式の日、本当に教えてくれるんだな?」
「少しだけ」
「少しだけか」
「全部知るには、あんたはまだ弱い」
誠は、その言葉に笑った。
馬鹿にされたとは思わなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
弱い。
そう言われるということは、この先に自分より強いものがあるということだ。
「いいな」
「何が?」
「まだ上があるってことだろ」
柊木は、わずかに目を細めた。
「変な人」
「よく言われる」
「たぶん、褒めてない」
「わかってる」
その時、教師の声が響いた。
「合格者は、明日の説明会に必ず出席するように! 正式な入学手続きはその後だ!」
周囲の受験者たちが動き始める。
合格者は喜びながら帰り、不合格者は肩を落として門へ向かっていく。
柊木も背を向けた。
その瞬間、校舎の奥から短い金属音が響いた。
誰かが扉を閉めた音に似ていた。
だが、音は一度ではなかった。
かちり、と小さく鳴ったあと、続けてもう一度、硬い音が返ってくる。
鍵を掛けたようにも聞こえた。
周囲の誰も反応しない。
柊木だけが、ほんの一瞬、足を止めた。
その視線が、校舎の奥へ向く。
赤い印のついた名簿。
閉ざされた扉。
金属の音。
それらを結びつけるように、柊木の指がわずかに動いた。
だが、彼女は何事もなかったように歩き出す。
「じゃあ、また」
「柊木」
誠が呼ぶと、彼女は足を止めた。
「君は敵か?」
我ながら直球すぎる質問だと思った。
だが、聞いておきたかった。
ゲームの柊木暦は、最後の敵だった。
何百回も殺された。
何百回も挑んだ。
そして最後に、十年かけて倒した。
この世界の柊木暦が同じとは限らない。
だが、無関係とも思えない。
柊木は、少しだけ振り返った。
「今は違う」
「今は、か」
「うん」
「じゃあ、いつか敵になる?」
柊木は答えなかった。
ただ、しばらく誠を見ていた。
その視線は誠の顔ではなく、胸元へ落ちていた。
まるで、そこに何か見えない印があるか確かめるように。
やがて、柊木は静かに言った。
「それは、あんた次第」
その言葉を残し、柊木暦は歩いていった。
黒い髪が夕方の光に揺れる。
誠はその背中を見送った。
松平義久。
柊木暦。
闘獣階。
白舟剣術学校。
入学前から、謎ばかりが増えていく。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が熱い。
わからないことがある。
強い相手がいる。
隠されたルールがある。
それは、誠にとって恐怖ではない。
攻略対象だ。
「入学式の日、か」
誠は合格者一覧に貼られた自分の名前をもう一度見た。
まずは合格。
第一段階は終わった。
だが、本当の攻略はこれからだ。
この学校に入れば、松平の謎に近づく。
闘獣階に近づく。
そして、柊木暦という終盤ボスだった少女の正体にも近づく。
誠は小さく笑った。
「やっぱり、この世界は最高だな」
夕暮れの白舟剣術学校。
その校舎の窓の一つから、誰かが誠を見下ろしていた。
窓辺には、誰も触れていないはずの白い紙が一枚置かれていた。
そこには合格者名簿の写しがあり、斎藤誠の名前だけが黒く塗りつぶされている。
紙の端には、赤い印が一つ押されていた。
誠は気づかない。
その視線は、合格者一覧ではなく、誠だけを追っていた。
やがて、校舎の奥で紙をめくる音がした。
白い紙の上に、細い筆先が触れる。
斎藤誠の名前の横に、赤い印がもう一つ加えられた。
その直後、閉ざされた扉の向こうで、金属音が響く。
かちり。
今度は、はっきりと鍵が掛かった音だった。
誰かが、誠の名前の横に小さく印をつける。
そして、誰にも聞こえない声で呟く。
「……二人目、か」
その言葉は、風に溶けて消えた。
ただ、白い紙に残った二つの赤い印だけが、夕闇の中で不自然に浮かんでいた。




