第6話:大人としての務め
「それでは――」
リザベルさんは短く言うと、俺の意志を確認するように、正面からじっと見つめてきた。
対する俺は、言葉は発さない。
代わりに、首を小さく縦に振った。
リザベルさんが深呼吸するように大きく息を吐き、奴の名を叫ぶ。
「出でよ、田中カイザー!」
いつも通り、部屋の中央に光の柱が立つ。
俺は目を閉じ、静かに、その瞬間を待った。
「なんだぁ? またここかよ?」
やがて、耳をざわつかせる下卑た声が聞こえてきた。
カイザーの目が、俺とリザベルさんの姿を交互に映し出す。
そして――今回は、俺を無視すると決めたようだ。
黄色い歯を剥き出しにして、リザベルさんの方へと向かっていく。
「待て」
かなり大きな声で言った。聞こえていないはずはない。
「こっちを向け。顔面お絵描き野郎」
反応し、振り返る。
カイザーの目――爬虫類を彷彿とさせる不気味な目が、爛々と輝く。
「タラ坊。てめえ、そんなにイジメられてえのかよ?」
どうやら、俺を痛めつける方が楽しそうだと判断したらしい。
「自分より強い奴を、どうやってイジメるつもりだ?」
俺が言い返すと、カイザーはゲラゲラと、腹を抱えて笑い出した。
「決めたぜ。てめえは、半殺しじゃ済まさねえ」
カイザーが、ゆっくりと接近してくる。
そして、射程に入ると同時に。
俺の顔目掛けて、大振りの右を繰り出す。
恐怖心は、ある。
それは前回と同じ。
違うのは――それでも、体が動くということだ。
ヘッドスリップ。
カイザーの右を、最小の動作でかわした。
山吹さんに教わった技術。
何千回、何万回と繰り返した動き。
それが、体に染み付いている。
避けようと考える前に、避けられる。
まるで、生まれたときから備わっていた本能のように。
「オラッ!」
左、右、左、右……
ボクサーの動きと比較すれば、欠伸が出そうなほど退屈。
ケンカ仕込みの技術では、数を増やしても無意味だ。
「こ、この……お漏らし野郎が!」
タイミングをずらしても、腕を振る角度を変えても。
知恵の結集、理論的に組み立てられた防御技術は、貫けない。
「てめえ……」
カイザーの手が、止まった。
呼吸が荒い。肩が上下に大きく揺れている。
「何だ? もう疲れたのか?」
「ク……クソが! うぜえんだよ!」
カイザーが、上着のポケットに手を突っ込む。
同時に、リザベルさんが悲鳴のような声を上げる。
「多良木さん!」
「大丈夫! 分かってます!」
ポケットから出てきたカイザーの手に、握られているもの。
それは、あの日に見たバタフライナイフだ。
心の奥底から、恐怖心が膨らんでいく。
けど、股間は熱くならない。
その理由は、なんとなく理解できた。
この勝負に、ルールはない。
武器を使うことは、卑怯じゃない。
カイザーの選択は、ごくごく自然なものだ。
それどころか、賢いやり方だと言ってもいい。
それでも、俺は使わない。
鍛え上げた肉体。
磨き上げた技術。
それだけを武器に、戦う。
その覚悟が!
矜持が!
恐怖に抗う、勇気をくれる!
「刺してみろ」
俺は一歩、前に歩み出た。
「俺が……刺せねえとでも思ってんのか?」
さらに一歩、足を進める。
「刺せるだろうさ。お前は知性も理性も品性もない、正真正銘のクズ野郎だからな」
さらに一歩。
「けどな。お前の腕じゃ、そのナイフを俺の体に突き立てる、なんて芸当は――」
カイザーの右手が動く。
狙いは首。頸動脈めがけて、刃が走る――
「できないんだよ」
その手首を、左手で掴んだ。
「こ、この!」
掴まれていない左腕で、反撃を試みるカイザー。
しかし、その拳が、俺の顔に到達することはない。
「ぎいぃやああああああっ!」
左手に力を込めると、カイザーの手首が不自然な方向に曲がった。
バタフライナイフが床に落ち、ちゃりんと軽い音を立てる。
「は、離せ!」
「駄目だ」
爬虫類じみたカイザーの目に、初めて恐怖の色が浮かび上がった。
「ゆ……許してくれ! 謝る!」
「殺そうとしといて、そりゃ通じねえよ」
手首を、さらに強く締め上げる。
激痛のせいか、カイザーの口から声が消えた。
「田中。教師として……いや。大人としての務めを果たそう」
涙と鼻水と涎。
カイザーの顔から、ありとあらゆる液体が滴り落ちる。
「大人ってのはな」
そのとき、ふと思った。
「ガキが悪さしたら」
この部屋の中だと、こいつを失禁させることができない。
「こうやって」
それができてりゃ、百点満点のリベンジだったのにな。
「躾けなきゃならねえんだよ」
踏み込み、腰の回転、体重移動。
すべての動作が、イメージ通りに出てきた。
最速、最強、最高の右ストレート。
刺青だらけの顔面の、ど真ん中に入った。
交通事故のように派手な音を残して。
カイザーの体は、床とほぼ水平に飛んでいき。
背中から壁に激突すると、そのままうつ伏せに倒れた。
俺は、しばらく呆然と、自分の右手を見つめた。
生まれて初めて、人を殴るために使った右手。
なんだか、自分の体の一部ではないような気もする。
目を閉じ、呼吸を整える。
次の瞬間――感情が爆発した!
「あああああああああっ!」
声は出る。
けど、言葉は出ない。
理解した。人間、本当に嬉しいときは、こうなるのだと。
そうだ。リザベルさん。
彼女に、最高の笑顔を見せないと。
俺が振り返ると、リザベルさんは思ったよりも近くに来ていた。
「リ……リザベルさん! 俺、やりま――」
「多良木さん! 先にこっちを!」
両手を広げた俺に、彼女は何やら直方体の形をしたものを差し出してきた。
これは……ボックスティッシュか。久しぶりに見た。
こんなの、いったいどうやって用意したんだろう。
いや。そんなことより――
「もしかして俺、泣いてます?」
「涙の量でいえば、今までで一番出てますよ」
うぐっ。
最高の笑顔を見せるつもりが、まさかそっちの記録を更新してしまうとは。
ボックスティッシュを受け取り、涙やら鼻水やらを拭いていると、リザベルさんはくすくすと笑った。
「多良木さん、おめでとうございます。会心の勝利でしたね」
「ありがとうございます。けど、実は一点だけ、心残りがあって――」
「心残り? あんなに完璧に決まったのに?」
「あ、いや。それは……秘密ってことで」
と、危ない危ない。
お漏らし部分だけリベンジできなかった、なんてことは、さすがに声に出したくない。
「分かりました。では、追究しないことにしましょう」
「ははは……助かります」
「私も、多良木さんに秘密にしていたことがありますしね」
「へ?」
予想外のタイミングで、予想外の告白。
俺の間抜けな声を聞いたリザベルさんは、妙に満足げな表情を浮かべた。
そのままくるりと振り返って、俺に背を向ける。
「実は……多良木さんが勝つことは、ずっと前から分かっていたのです」




