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第5話:決戦前夜

不安が、なくならない。

どれだけ動いても。どれだけ鍛えても。どれだけ練習しても。


「多良木さん。今日はもう、ここまでにしましょう」


腕立て伏せを中断して顔を上げると、目の前にリザベルさんが立っていた。

どうやら、来ていることに気付かないくらい、夢中になっていたらしい。


「ずっと見ていました。今日の多良木さんの動きは、精彩を欠いています」

「い、いや! 俺はまだ――」

「確かに、この部屋では疲労が蓄積することはありません。ただし、それは肉体に限った話です。精神は通常どおり摩耗します」


リザベルさんはそう言いながら、俺の前をゆっくりと通り過ぎ、普段俺が寝ているベッドに腰掛けた。


「こっちに来て、お話しませんか?」


何だろう。こんなことは初めてだ。

立ち上がり、ベッドへ歩み寄ると、リザベルさんは隣に座るよう、手で示してきた。

言われたとおりに腰を下ろすと、リザベルさんが俺に、柔らかな笑顔を向けてくる。


「多良木さんがここに来てから、明日で一年になりますね」

「はい」


「どうです? 長いと感じましたか?」

「いえ。何というか、あっという間でした」


俺のセリフを予想していたのか、リザベルさんがくすくすと笑う。


「いよいよ明日……ですね」

「え、ええ」


「駄目ですよ。本番の前は、きちんと休息しないと」

「そのことなんですけど……聞いてもらえますか?」


俺がそう言うと、リザベルさんの顔から笑みが消え、代わりに真剣な――それでいて優しい眼差しを向けられた。


「はい。聞かせてください」

「実は……不安なんです」


「不安? あんなに練習してきたのに?」

「何か大きなヘマをするんじゃないかって」


「大丈夫――」

「いつもそうなんですよ」


俺は首を横に振り、大きくため息をついた。

そして、これまでの人生――大事な場面で、ことごとく失敗してきたことを話し始めた。


運動会のリレー。バトンを受け取った瞬間に転倒し、チームを最下位に転落させた。

高校受験。試験中に頭が真っ白になって、ほとんど何も書けなかった。

初めて参加した合コン。緊張で腹を壊してしまい、トイレにこもりっぱなしになった。


ずっと、真面目に生きてきた。

努力も練習も、人並みにはやってきたと思う。

それでも、うまくできない。本番では、力が出せない。

まるで、あらかじめ負けることが決まっていたかのように。


「あ。けど、そういえば――」

「何でしょう?」

「リザベルさん、俺のことは全部知ってるんですよね」


自虐気味に笑うと、リザベルさんが、じいっと俺の目を見つめてきた。


「いいえ。今の多良木さんの話に、私が知っていることは一つもありませんでした」

「へ?」


今度は、リザベルさんが自虐っぽく笑う。


「私が知っていたのは、多良木さんに起こった出来事――そこに貼られた、ラベルだけです」

「ラベル……」

「多良木さんの悲しみ、苦しみ、痛み……話してくれて、やっと分かりました」


俺は下を向き、唇を噛んだ。

そうしないと、また泣いてしまいそうだったからだ。


「多良木さん。あなたは……自分自身が、信じられないのですね」


当然だ。

こんなに駄目な男を、信じられるわけがない。

俺が、この世で一番嫌いな奴。

それはカイザーではなく、多良木伸彦なんだ。


必死になって涙をこらえていると、リザベルさんの柔らかな両手が、俺の右手を包み込んだ。


「では、私があなたを信じます」


女性に手を握られるのも、こんなに優しい言葉をかけられるのも、初めてだ。


「多良木さんが頑張っている姿を……ずっと見てきましたから」


胸を押しつぶしそうだった不安が、消えていく。

代わりに、あたたかさでいっぱいになる。


「リザベルさん、俺――」


俺はゆっくり、顔を上げた。

泣き顔を見られても、構わない。

この人になら。


けど、どうせなら――


「負け続きの人生を、明日で終わらせます!」


この人には、最高の笑顔を見てもらいたい!



◇   ◇   ◇   ◇   ◇



この部屋に光源らしきものはないが、壁そのものが光っているかのように、常に明るい光で満たされている。

けど、不思議なことに、俺が眠ろうと思って目を瞑ると、周囲の光は一切感じられなくなる。


リザベルさんがいなくなって、一人になった。

言われた通り、ベッドに横になって、目を閉じる。

そして――カイザーに殴られ、生徒たちの前で失禁した日のことを思い出した。


人生最大の屈辱を味わい、布団の中で泣きながら。

俺は、こんなことを考えていた。


世の中は不公平だ。

子供に暴力をふるわれても、大人は耐えなくてはならない。

そういう、大人に不利なルールがなければ。

大人は、子供なんかに負けたりはしない。

力関係というものを、腕力で分からせることができるんだ。


けど、そうではなかった。

待望の、ルールがない世界。

その世界で、俺は負けた。


俺が、自分を慰めるために用意した言葉に、真実は一欠片もなかった。

今なら分かる。負けた理由を、自分以外の何かのせいにしたかっただけだ。


こんな奴が、異世界で愛を見つけられるわけがない。

自分のことを愛していない、俺みたいな男が。


だから明日、俺は――俺のために戦う。


俺が、胸を張って生きていけるように。

そして――多良木伸彦という男を、愛せるようになるために。

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