第4話:戦う男
カイザーに惨敗した翌日。
俺とリザベルさんは、並んで部屋の中央を見つめていた。
「あの……どんな人なんですか?」
恐る恐るたずねると、リザベルさんは柔らかな――以前よりも、いくぶん自然な笑顔を俺に向けた。
「大丈夫ですよ。今の多良木さんにぴったりの人を見つけてきましたから」
「じゃあ、名前とか、経歴とか――」
「山吹丈。ボクシング日本バンタム級チャンピオンだった男です」
ボクサーの山吹丈。どこかで聞いたことがあるような名前だが、気にしないでおこう。
「その……怖い人ですか?」
「確かに、厳しい面もあるようですが――」
そこまで言いかけて、リザベルさんは悪戯っぽい笑顔になった。
「多良木さん、もしかして怖いんですか?」
「そ、そりゃ怖いですよ! スポーツ自体が初めてなのに、いきなりボクシングなんて――」
言いかけた言葉を、俺は慌てて飲み込んだ。
そうだ。覚悟を決めろ。
ここまで、すべて自分の意志で決めたことじゃないか。
「……それでは、お呼びします」
リザベルさんの言葉に、無言でうなずく。
そんな俺を見て、リザベルさんはにこりと笑った。
「出でよ、山吹丈!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
カイザーのときと同じように、俺たちの視線の先、部屋の中央に光の柱が立ち、それが人の姿へと変わっていく。
現れたのは、四十代後半と思しきジャージ姿の男性だった。
想像していたよりも、ずっと小柄だ。
しかし、ポマードで固めたような黒髪に、猛禽類のような鋭い目つき。
それは、見る者を威圧する凄みに満ちている。
まさに、絵に描いたようなボクサーだ。
山吹さんは、ゆっくりと舐め回すように周囲を観察し、やがて俺たち二人に目を向けた。
「……おい。ずいぶん殺風景な場所だが、ここが地獄ってやつか?」
重く、深みのある声。
この男が生きてきた時間が、そのまま凝縮しているみたいだ。
「山吹丈さんですね。私は第七天使、リザベルといいます。あなたをお呼び立てしたのは――」
話し始めたリザベルさんを、俺は手で制して一歩前へと出た。
「初めまして! 俺は多良木伸彦といいます! 不躾で申し訳ないのですが、山吹丈さん! 俺に、ボクシングを教えてください!」
自分から先に、できるだけ大きな声で名乗った。
山吹さんは、そんな俺の全身を下から上へと眺め、やがて口を開いた。
「お前、何かスポーツの経験はあるのか?」
「い、いいえ! 何もありません!」
分かってる。
俺のヒョロガリ体型を見たら、誰だって理解する。
こいつは、スポーツとは無縁の人生を送ってきたのだと。
山吹さんは、そんな俺を見て、クックッと笑った。
「スポーツもやったことがねえ奴が、いきなりボクシングたぁ……ずいぶん舐めてくれるじゃねえか」
「す……すいません! けど俺、どうしても強くなりたくて――」
「いいぜ」
今度は山吹さんが足を踏み出し、俺の肩に手を回してきた。
身長は、俺のほうが十センチくらい高い。
それでも、筋肉質な体つきに、思わず圧倒されてしまう。
「けどよ。その代わり、みっちりしごいてやるからな。泣き言抜かすんじゃねえぞ?」
「はい! よろしくお願いします!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リザベルさんが消え、俺と山吹さんの二人だけになった。
山吹さんは腕を組んで、じっと俺を見つめている。
「それじゃ多良木よ。まずは構えてみな」
「構え?」
「何だ。知らねえのか」
そう言うと、山吹さんは俺の向かいに立ち、両手を顔の前に置いて、小さく腰を落とした。
「こうだよ」
「わ、分かりました!」
なるほど。ボクシングのファイティングポーズってやつか。
とりあえず、山吹さんの構えを見よう見まねで再現してみる。
……が、情けないくらい、同じ姿勢を取ることができない。
こんな単純なことでも緊張してしまうのは、きっと、小さい頃から運動音痴であることをからかわれ続けてきたせいだ。
まずい。こんな調子じゃ、山吹さんを失望させてしまう。
そんなことを考えていると、山吹さんが俺の肩に手を伸ばしてきた。
「力を入れ過ぎだ。そんなんじゃ動けねえぞ。もっと楽にしろ」
山吹さんの両手が、ぽんぽんと俺の肩を叩く。
「それから、脇を締めな。脇が開いてると、強いパンチは打てねえよ」
次に、上腕をぐいっと内側へ押し込まれた。
「あと、言い忘れてたけどな。俺のボクシングは防御が七割、攻撃は三割だ。つまり――俺からボクシングを習うってことは、防御の練習ばっかさせられるってことだ」
そう言って、山吹さんは悪戯っぽくニヤニヤと笑う。
「地味な練習になるけどよ――構わねえか?」
対する俺の返事は、もう決まっている。
「望むところです! お願いします!」
それから、練習開始。
山吹さんの言葉どおり、脚の運び方や重心の移し方――下半身中心のメニューばかりだ。
以前の俺なら、きっとこう思っていただろう。
いつになったらパンチの打ち方を教えてくれるんだ。
こんなことをやったって、強くなんかなれるわけがない、と。
けど、今はまったく気にならない。
山吹さんは、メニューの一つ一つに意味があることを、丁寧に説明してくれる。
口調こそぶっきらぼうだが、俺が練習に前向きになれるよう、彼なりに工夫しているんだ。
俺は確信した。
元日本バンタム級チャンピオン、山吹丈。この人に指導してもらえれば、絶対に強くなれる。
「お前、なかなか筋が良いぜ」
「ほ、ほんとですか? けど、運動は昔から苦手で――」
「馬鹿。才能があるって意味で言ったんじゃねえよ」
山吹さんは、目を細めて笑った。
「俺が褒めるのはな。地味でつまらねえ練習に、きちんと向き合える奴だ。本当に強い奴ってのは、絶対に基礎を怠らねえ」
「山吹さん……」
今度は、恥ずかしそうに鼻の頭をポリポリと掻いた。
「ボサっとすんな。続けろ」
「はい!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
どれくらい時間が経ったのか。
俺と山吹さんは練習を中断し、互いの身の上話をしていた。
現役時代の山吹さんは、日本きっての技巧派ボクサーとして知られ、世界に二度挑戦したが、いずれも敗れてしまったという。
その話をしたとき、山吹さんの顔に、ほんの少しだけ暗い色が射したように見えた。
「ところで、あの外人の姉ちゃんだが」
「外人? それって、リザベルさんのことですか?」
「ああ。あの髪色に、その名前。日本人じゃねえんだろ?」
うーん。
確かリザベルさんは、最初に天使だと自己紹介したはずだが……聞いてなかったんだろう。
「ちょっと冷たい感じはするけどよ。ありゃあ、滅多にお目に掛かれねえほどの別嬪だぜ」
「ま、まあ、そうですね」
「お前さんの恋人か?」
「へ?」
山吹さんが、ニヤニヤしながら俺の顔をのぞきこんできた。
「恋人なんだな?」
「ち、違いますよ! 俺とリザベルさんは、まだ出会って十日くらいしか――」
俺が弁明すると、山吹さんはゲラゲラと腹を抱えて笑い出した。
「時間なんか関係ねえさ。俺が現役のときなんか、出会ったその日のうちに口説いてたもんよ」
「そ……そうなんですか」
「ああ。戦う男ってのはモテるんだぜ」
戦う男……俺も、そうなんだろうか。
「お前にだけ、とっておきの口説き文句ってやつを教えてやる」
「え……?」
何だろう。
元日本チャンピオンの口説き文句……すごく気になる。
「それはな――」
そう言った直後、山吹さんの姿はふっと消え、代わりにリザベルさんが現れた。
リザベルさんによると、俺以外の人間は、この部屋にいられる時間に制限があるらしい。
地球でいうところの二時間くらいらしいのだが、本当に、そんなに経ったのだろうか。
「それで、どうでした? 山吹さんのボクシング講座は」
山吹さんが去り際にあんなことを言ったからか、どうしてもリザベルさんを意識してしまう。
「その……凄く丁寧に、凄く分かりやすく指導してもらえました」
「ふふふ。やはり、私の見立てに間違いはありませんでしたね」
そう言ってくすくすと笑うリザベルさんを見て、改めて思った。
確かに、すごい美人だ。
いや。美人だということは、初めて会ったときから気付いていた。
今の彼女は、以前とはちょっと違うように――なんだか、可愛らしく感じられる。
っと、まずいまずい。
俺は邪念を追い払うように、自分の頬をピシャリと叩いた。




