第3話:惨敗
――四月。俺が、2年B組の担任となった初日だ。
出席番号順に、一人ずつ名前を読み上げていく。教室には二十人ほどの生徒がいるが、自分の名前が呼ばれても、誰一人として返事をしない。これが、俺が勤務していた県内最悪の不良高校、私立十六夜学園における当たり前の光景だった。
「十三番、田中皇帝」
十三人目の生徒の名前を口にした瞬間、ざわざわと騒がしかった教室が、急に静まり返る。
「なあ、タラ坊。今……なんつったよ?」
一人の生徒が、ゆっくりと立ち上がり、俺の方へ歩み寄ってきた。短く刈り込んだ金髪に、数えきれないほどのピアスをつけた男。耳の奥で、自分の心臓の音だけが、うるさく警報を鳴らしている。
慌てて生徒名簿に目を落とすと、『皇帝』という文字の上に、小さくルビが振ってあった。
「こ……これ、カイザーって読むのか。すまない。知らな――あがっ!」
弁明の言葉を言い終える前に、カイザーの右拳が、俺の顔面にめり込んだ。
頭の真ん中で火花がはじけ飛ぶ。鼻血が吹き出し、その場にもんどり打って倒れる。
「おいおい。タラ坊、大丈夫かよ? 鼻血が出てんぜ?」
カイザーは愉快そうにケラケラと笑いながら、倒れた俺へとゆっくり近付き、腰を下ろした。
「こういうときってよぉ、鼻の穴が一つだったら良かったなって……思わねぇか?」
カイザーは尻のポケットから、バタフライナイフを取り出した。
「や……やめろ……」
震える声で懇願すると、爬虫類のような目が、ぎらりと光を増す。
「なに命令してんだよ。『やめてください』だろうが!」
髪をつかまれ、無理やり立たされる。
その瞬間、股間のあたりが、じわりと熱を帯びて――
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「多良木さん。それでは、カイザーくんでいいですか?」
「え?」
気がつくと、リザベルさんが呆れたような顔で、こちらを見ていた。
「この部屋に呼び出す地球人ですよ」
「あ、ああ。そうでしたね。すみません」
不良だらけの十六夜学園で、上級生からも一目置かれる、正真正銘のワル。
俺が知る限り、カイザーはこの世で最も危険な高校生だ。
しかし、リザベルさんは死んだ人間しか呼び出せない。
そして俺は、憎しみを抱く相手としか戦えない。
「分かりました。カイザーで……お願いします」
いや……考え方を変えろ。
カイザーしか選べないんじゃない。
カイザーを選べるんだ。
俺にトラウマを植え付けた男、田中皇帝。
弱っている相手をいたぶることを、この上ない喜びとする、残虐な男。
こいつとの戦いは、避けられない宿命だ。
こいつを倒さなければ、俺は前に進むことができない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
リザベルさんが、虚空に向かって呟いている。
何を言っているのかは分からない。だが、最後の一言だけははっきりと聞き取れた。
「出でよ、田中カイザー!」
その名を聞いた瞬間、俺の心に火が点いた。
いよいよだ。いよいよ始まる……!
そして、部屋の中央に光の柱が立ち。
やがて、一人の男の姿へと変わった。
「なんだぁ?」
それが、カイザーの第一声だった。
制服ではなく、夥しい量の刺繍が入った白い上着に、鳶職のようなズボン。
これが、暴走族が着る特攻服というやつか。
にわかに、あの感覚――股間が熱くなる感覚が蘇る。
そして――
「た……田中! その顔……」
久しぶりに見るその顔には、びっしりと刺青が入っていた。
名前を呼ばれたカイザーが、ぎろりとこちらに視線を投げかける。
「てめえ、タラ坊か?」
「お前……そんな顔で、就職はどうするつもりだ? 親は何も――」
「うるせえよ。タコ」
カイザーは一瞬で、俺への興味を失った。
その視線が、リザベルさんへと移る。
「女がいるじゃねえか」
ヤニで真っ黄色になった歯を剥き出しにし、カイザーがリザベルさんに歩み寄っていく。
「なあ。とりあえず、乳出せや」
「……申し訳ありませんが、私という個体に授乳機能は実装されていません。それに、あなたは現在、栄養不良状態ではなく――」
「ああ? 難しい言葉は分かんねえよ。いいから――」
「待て!」
俺の声に反応し、カイザーが振り返る。
「なんだよ」
「貴様! 初対面の女性に対して、なんて口の利き方を……」
俺の言葉を聞いて、カイザーは大声でゲラゲラと笑い出す。
「もしかしてコイツ、てめえの女か?」
「お前には関係ない!」
拳を握り締め、カイザーへと走り寄る。
その瞬間、脚が、思っていた以上に軽く前へ出た。
気付く。俺の筋力は、明らかに強くなっている。
ここに来てから続けていた筋トレの成果が、確かに出ているんだ。
これなら――いける!
顔面めがけて、渾身の右ストレートを放つ。
だがカイザーは、それを難なくかわし、カウンターの左を叩き込んできた。
避けられない。
拳が、腹のど真ん中にめり込む。
「がはっ!」
体をくの字に折り曲げ、その場に膝を突いた。
呼吸ができない。
そして、カイザーが憤怒の表情になり――
「てめえ、自分が何やったか分かってんのか?」
苦痛で動けない俺の顔面めがけて、今度は右ストレートが飛んできた。
頬骨が折れたような鈍い音が、頭の中に響く。
そのまま後方へ吹き飛ばされ、大の字になって倒れる。
体を、起こせない。
これが、脳が揺れる――ってやつか。
理解した。
カイザーはケンカに慣れている。
筋トレだけでは、絶対に勝てない。
もう、勝負はついている。
それでも、残忍なカイザーは攻撃の手を緩めない。
横たわる俺の顔面に、強烈な踏みつけが入った。
「お漏らし野郎はなぁ! オムツはいて、頭下げてりゃいいんだよ!」
カイザーの足の下で、その言葉を聞く。
同時に、涙が出てきた。
こいつに泣かされるのは、これで二回目だ。
「てめえ、もしかして泣いてんのか?」
止まらない。
いや。止められない。
後から後から、涙があふれてくる。
そんな俺を見て気分が良くなったのか、カイザーは再び大声で笑った。
「許して欲しけりゃよぅ、裸になって、ケツに――」
言葉を言い切る前に、顔に乗っていたカイザーの足が、ふっと消えた。
「多良木さん! 大丈夫ですか?」
リザベルさんが、俺の方へ走り寄ってくる。
そうか。カイザーを消してくれたんだ。
俺の顔は、涙と鼻水でめちゃくちゃになっている。
あわてて体を丸め、隠れるように、床に額をこすりつけた。
「安心してください。この部屋の中では、怪我をすることはありませんから」
そんな俺の心を、リザベルさんの優しい言葉が鋭く抉る。
「き……聞いてました?」
「何を……ですか?」
「あいつが言ったこと……」
分かってる。それだけじゃ、伝わらない。
「お、お漏らし野郎……です……」
少しの沈黙が落ちる。
やがて、リザベルさんは小さく、穏やかな口調で言った。
「あなたが経験してきたことは、すべて知っています」
また、涙が出てきた。
それだけじゃない。今度は、嗚咽もこみ上げてくる。
それからしばらく――俺は、小さな子供みたいに、大声で泣き続けた。
その間、リザベルさんは何も言わず、ただ俺の隣にいてくれた。
「リザベルさん……俺……」
呼びかけても、リザベルさんから言葉は返ってこない。
けど、聞いてくれていることは分かる。
あえて、何も言わないでいてくれているんだ。
「強く……なりたいです!」
腹の底から、絞り出すように声を出した。
「多良木さん。あなたがカイザーくんに勝つには、戦闘技術を教える人――師匠が必要です」
俺は体を丸めたまま、ただ小さく、首を縦に振った。
「……今度は、もっとひどくやられるかもしれない。それでも、もう一度カイザーくんと戦いますか?」
迷いはない。
俺はもう一度、首を縦に振った。




