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そもそもで命の危険がないことを前提に、殴る蹴るされることなど、さほど何とも思わなかった。
(できれば避けてぇけどよ)
押さえつけられたまま、遠くにいた靴が近づいてくるのだけを低い位置にある視界で捉えて、ルイは思う。
(ここまでくると、これくらい別に、って気になってきたわ)
思い出すのは、ずっと以前。
内戦の、中期の事だった。
(ねぇちゃん、元気かな、今)
ふと思い出す。
思い出の中、微笑む姉は、けれど次の瞬間、ボロボロの姿で宙を呆然と見つめている。
ルイ・バーグは、独裁政権の中枢いた将校の、妾腹の息子だ。
父親に会うのは、年に数回だった。
姉の誕生日と、自分の誕生日。それから、父に時間の空きが出来た時。
来るたびに、高いおもちゃやら靴やら家具やらくれたから、たぶん、それなりに愛情ないし、愛着や父親意識は持ってくれていたのだと思う。
ただ、内戦の時、父がそういう人物であったが故に、母は死に、姉は狂った。
独裁政権に、家族や、その他、大切なものを奪われた人々は大勢いた。
だから内戦の中期、住んでいた街から独裁軍が撤退した時、あの家は独裁軍将校の妾の家だと、噂は憎悪と怨恨を多分に含んであっという間に街中に広がった。
そうして、善良な一般人達は、独裁政権の秘密機関と同じくらいに残酷な、裁判官になったのだ。
ある夜に、大勢の人間が家に詰め掛けて、罵倒しながら家中のものを壊していった。
そのまま母親と姉は引きずられて行って、それを止めようと手を伸ばした、その後のことを、ルイは殆ど覚えていない。
気付くと狭い部屋の中、あちこちが紫色に腫れ上がって、ぐちゃぐちゃの恰好で転がっていた。
ボロ雑巾のようになった姉は、部屋の隅で呆然と宙とを見詰めていた。
それっきり、母には会っていない。
たぶん、生きてはいないだろうなと、思う。
ただ、その日の夜に、老人がひとり、部屋のドアを開けてくれた。
お前の父親に息子夫婦を殺されたけれど、と。けれど、お前達には罪はないから、と。
夜の内に、気付かれないようにお逃げ、お母さんのことは忘れなさい、と。
それから、譫言を繰り返す姉の手を引いて歩き続けて、物乞いやスリで食いつないで、ようやく、辿り着いた遠くの街の孤児院で、ただの戦災孤児だと言った。
姉は、独裁軍の将校達に乱暴されて狂ってしまったと。
そこでは、みんな、かわいそうなただの姉弟に優しかった。
だからそれっきり、ルイは自分の出自を捨てた。
白状かもしれないけれど、年に数回会うだけだった父親の生死はどうでも良かった。
母のことだけ、時々思い出すけれど。
ただ、誰かに真実を知られる事だけを恐れていた。
姉を病院に入れておいてやることが出来なくなることが。
この平穏が崩れることだけが、恐ろしかった。
内戦は終わって、きっと士官学校やその他、戸籍を見れる機関からすれば、とっくに自分がどんな生まれなのかは分かっているはずで。
それでも、もう、公的な待遇の上では何も不利などなくなったと、わかっているけれど。
それでも、ルイは知っている。
本当に恐ろしいのは、公的な、社会とか法律とか、そういうものに記載された待遇や権利や義務ではないのだと。
それ以上に怖いのは、人だ。ただの人間。
一人一人の中にある恨みや怒りや正義こそが、きっと一番残酷で醜悪なのを知っている。
だから、誰かに知られることを恐れていた。
機関にではなく、個人に。
秘密を知られることは、とても怖かった。
けれど、そんな時にできた友人が、グースハウザーだ。
(なんだか知らないけど、あいつも、何か言いたくねぇことあるみてぇだし)
最初に同室になった夜、何か譫言を言っていたと指摘した時の、あの顔。
(こいつは同族だなぁ、って)
分かってしまって、なんだか嬉しかったのを覚えている。
その瞬間まで、仲間なんて欲しいとも思っていなかったけれど。
それでも、同じように何か絶対の秘密を抱えて、何とか上手く世の中に折り合いをつけて生きて行こうとしているのを見て。
たぶん、安堵したのだ。
いつからかずっと続いていた緊張が、たぶん、少しだけ緩んだ。
自分だけじゃない、と。
妙な共犯意識には、向こうもたぶん気付いている。
だから、たぶん。
あの自分を隠して隠して、他人を寄せ付けないようにしているグースも、ルイのことは、身内、と認識してくれたのだろう。
(だからキレるだろうなぁ)
殴られる事自体は、命に別状もない限り構わないけれど、とルイは少しだけ体に力を入れる。
(仕方ねぇな。ダメ元で抵抗はしてみるか)
よしやるぞ、と内心で呟いた時。
バン、と倉庫の扉が撓んだ。
内側から掛けた鍵が、吹っ飛んだのだ。
「銃撃?」
呆然と、一瞬、誰もが凍り付いて。
バーン、と、次には、扉が勢い良く開いた。
「な!?」
上級生達が怯む。
押さえつけられているルイには、上級生達の靴しか見えていない。何が起きているのかと、思わず聴覚に意識を集中して探る。
「ブラッディ・ギャスパー!?」
叫びと同時に、押さえつける力が少し緩んで、慌ててルイは視線をどうにか上げた。
「ギャスパー!?」
確かに、そこには金髪の狂暴な同期が仁王立ちしている。
「お、おい、何しに来たか知らねぇが、とっとと消えねぇと」
上級生の一人が、ようやく凄むように声を荒らげたけれど。
「何しに来ただぁ?決まってんだろが!」
近くにあった跳び箱を勢い良く蹴倒し、ギャスパーは、それはそれは楽しそうに指を鳴らす。
「喧嘩だよ、ケ、ン、カ」
ニンマリと楽しそうな顔に、ルイも若干凍り付いた。
(は?何で、どうしてコイツが?)
その間に、上級生はルイを示して叫ぶ。
「おい、こっちにはコイツが」
途端、その上級生の制服の袖が、吹き飛んだ。
「え?」
キョトンとする、その足元に、ガツンと、転がったのが、ゴム弾。
「先輩、これ、正当防衛なんで」
淡々として、静かに怒っている声だった。
「知ってます?ゴム弾ってプロボクサーの一撃くらいの威力らしいですよ。ギャスパーに殴られるのと同等ってことです」
「グースハウザー……」
ザワザワと、銃器装備で顔を出した狙撃の天才に、上級生達がさらに動揺。
「おい、まじかよ、それどっからパクッてきたの……?」
流石にポカンとするルイの頭上で、オロオロする上級生に、楽し気に、ギャスパーがまた指を鳴らした。
「ってぇわけだ。大人しく俺に殴られるか、グースハウザーにゴム弾で蜂の巣にされるか、選べるコースでご案内だ」
そうして、のしのしと入って来る長身に上がる悲鳴、軽くなる体。
(どういうわけか知らんけど、なんかギャスパーが味方っぽいな)
ルイは、ゆっくりと俯せから仰向けになった。
(ビビり切った先輩相手にギャスパーなら加勢いらなそうだし)
高みの見物といくかと溜息を吐いて。
ふと見た先、入口付近に立つグースと目が合った。
「……どうなってんだよ、これ?」
問い掛けると、グースは笑って首を傾げる。
「……面白そうだから、付き合うってさ」
なんだそれ、と、ルイは笑った。
笑って、平和だな、と。上級生の悲鳴を聞きながら、肩を竦めた。
今はもう、殴られる前に助けが来る時代のようだった。




