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神には届かない  作者: 空野
ウェルロッドの憂鬱
84/93

18

 

 自分の予想が大きく間違ってはいなかったこと、しかし、実際にはそれ以上にもっと深刻であったこと。


 ラーグハルトがそれを知ったのは、ある夜だった。


 窓から見える空は、よく晴れていたけれど、月の無い新月の晩だった。


『おい、サンダース!お前、いい加減にしろよ!』


 その頃のサンダースは、殆ど中毒のようにアルコールを摂っていた。

 かわりに食事の量は減り、いつ訪ねても、床の酒瓶だけが増えていく状況に、とうとう、その日、ラーグハルトは声を荒げたのだ。


『もうやめろ!お前、本当に体壊すぞ!』


 ソファーに座っていたサンダースの前、机に置かれていた酒瓶とグラスを叩き落として唸る。


 見ていられなかった。

 こんなに追い詰められて、死んだ仲間の影をボンヤリと追い続けている姿は。


『サンダース、お前はよくやったよ』


 床に膝をついて、肩を掴み、静かに言い聞かせるように言った。


『よくやった。お前は、よくやったんだ』


 何も間違っていないのだと。もうこれ以上、追い詰められる必要はないのだと。


『サンダース、俺は……俺にとっては、お前だけでも、生きていてくれただけで良いんだ』


 心から本心だった。心の底から、本心だった。


『そんなに、それ以上は、自分を追い詰めるなよ』


 絞り出すようなラーグハルトの声に、サンダースは、しばし答えなかった。


 静寂が部屋を包んでいた。

 窓の外、風の音すら聞こえない夜。


 そして唐突に、サンダースは笑い出した。


『違うんだ』


 そう、笑いながら言った。


『違うんだ、ラーグハルト。私は、よくやってなんかいない』


 肩を震わせて笑いながら、酒で掠れた声で。


『私は、生きて帰って来たんだじゃない』


 掴んだままの肩の小刻みな震えを、ラーグハルトは何故か呆然としたまま手の平に感じていた。


 何か、決定的なことが起きるような予感が、ある。


『私は、生かされたんだ』


 少しだけ、笑いは弱まっていた。


『ラーグ、ラーグ……ラーグハルト』


 伸ばされた腕が、自分の肩を掴むラーグハルトの手に触れて、それを外した。

 微かに、その指先は、震えていた。


『ラーグ、わたしは』


 落ち着いて、よく響くはずの指揮官の声音は揺れる。


『ラーグ、俺は』


 聞きなれた、少年の頃からの声音で。


 見上げた青い目は、泣いていた。

 生還以来、初めての涙だった。以降4年、流れることのない涙だった。



『俺が殺したんだ』



 そうして堰を切たように零れ落ちた真実の数々。国家のために葬られた、本当の終わりの物語。


 完全に酔いが回っていたのだろう。サンダースは、いつもの様子からは想像もつかないような纏まらない話し方で、全てを吐露した。


 時間軸や事実や感情が、子供の話しのようにゴチャゴチャになった声を、繋ぎ合わせて整理して、理解して。


『俺が死ねと命令したんだ』


 掠れた声で、らしくなく喚くサンダースに、ラーグハルトは掛けるべき言葉を失った。


 これから先、誰にも告げられずにサンダースが背負わねばならないものの重さに、目の前がクラリと揺れる。


 ああ、なんてことをしてくれたのだと、心中で吼えた。


 ああ、なんてことをしてくれたのだ。

 どうして、こんなに危ういくらい誠実で責任感の強い奴に、そんな役目を任せて逝ったのだ。


 二度と口を利かない墓石の下の男へ、その時、憎しみすら抱いたことを認めよう。


 けれど同時に。

 それはラーグハルト自身の罪でもあるとわかっていた。


 あの懐かしい少年の日々。

 あの頃から、気付いていたではないか。


 ショウが、サンダースの危うさを知らぬこと。

 ショウにとって、サンダースがヒーローであったこと。


 気付いていながら、それが二人の友情の形だと、そう思って放置してきたのは誰だ。


 もしもあの頃に、それは違うと叫んでいたら。

 サンダースはヒーローなどではないと。

 もしも、あの時に、叫んでいたら。


 もしかしたら、結末は、違っていたのだろうか。


『……ごめんな』


 視線が落ちた。

 俯いて床を見下ろすラーグハルトに、サンダースは何も言わない。


『ごめんな、サンダース』


 ゆっくりと視線を上げて、もう一度、その肩に手を置いた。


『お前は、何も悪くないよ』


 悪だとすれば、それはラーグハルトの方だった。


 かつて、それは違うと、ヒーローを否定する言葉を叫べなかったのは、怖かったからなのだ。


 どちらがより大切か、そこに優劣はなかったとしても。

 それでも、ショウと自分に向ける友情が、違う方向であったこと。

 それはラーグハルトにとって、心地よかった。


 自分に向けるのと同じ形の友情は、ショウにですら向いていない。


 そこに優劣はなくとも、それでも、そのことが、彼のオンリーワンであることが、心地よかったのだ。


 だから、叫ばなかった。

 だから、それが二人の友情の形だと、事実を盾に言い逃れたのだ。


 そして、なお悪いことに。

 今、それを悔いていない自分すらいる。


 叫ばなくてよかった。

 ショウにとってサンダースを、ヒーローのままにしておいて、本当に、良かった。


 そうしておいたからこそ。

 サンダースは、サンダースだけは、生きて、帰って来た。


『お前は何も悪くない』


 ただ純粋に、ショウの死を、戦友達の死を、自分が命じたのだと己を責めるサンダースよりも。

 よほど、苦しむべきは。罰せられるべきは。

 自分のような、身勝手な人間なのに。


 音にならない叫びを、心中だけで繰り返す。


『かわってやれなくて、ごめんな……』


 肩に額を当てて、背中を軽く叩きながらそう言った。


 比べようもなく大切で、他のものなんてどんなにか簡単に切り捨ててしまえるのに。



 そんなに、愛しているのに。



 結局、ただ生きて帰ってくれた事を喜んで、こうして、お前は悪くないのだと繰り返すことしかできない。


『ごめんな』


 引き寄せた背中は、短い間に以前より細くなってしまっていた。


 物音ひとつしない夜。

 いつかの日々のことが次々に浮かんでは消えた。


 クリスマスに見た背中。橙色の卓上ランプ。

 課題をこなす微かな筆の音。


 寒空の下で濡れていた黒髪。

 笑っていた青い目。


 新しい年の乾杯。

 シュワシュワと弾ける炭酸水の微かな囁き。


 いとおしい、たのしかった、ながいながい、月日。


 全てが込み上げて、少しだけ身を放し、自然と口は開いていた。


『俺は』


 永劫に言わないつもりだった言葉は、その時、とうとう零れ出そうとして。


 ハッと、我に返った。


 完治していない骨折を示す包帯。

 頬に薄っすらと残った裂傷の後。

 首に残る火傷。


 ああ、今、言ってはいけないと思った。

 こんなにボロボロの相手に。


 きっと生涯でただ一度だけ。今だけならば、告げて叶う気がした。

 きっと今、愛していると囁いて逃げられないように囲い込めば。

 追い詰められてボロボロで、何もかも投げ出す寸前の相手を、きっと、閉じ込めてしまうことが出来る。


 俺はお前を理解しているよ、と。

 全部知った上でも、俺はお前を愛している、と。


 それは心底本心で、だからこそ、たぶん、弱って追い詰められた目の前の親友にとって、麻薬にも等しい言葉だった。

 サンダースにとっては愛でも恋でもなく、それでも、それらを見返りとして求められるなら、差し出してでも縋り付いてしまいたくなるくらいに、救いに聞こえるだろうと、分かった。


 だからこそ、言葉は今にも零れそうなほどにそこにあって。

 だからこそ。



『俺は、お前を支えるよ』



 絶対に、言ってはいけないと、飲み込んだのだ。



『俺はお前を支えるよ。あの日、何があったとしても。これから、何があるとしても』



 かわりに、微笑んで、そう言った。



『背中は任せろ、相棒。そこには、絶対に、俺がいてやるから』



 青い目は、しばらくラーグハルトを見下ろした。


 それから、やがてクシャリと笑った。


『……そうか』


 短い一言だった。

 そうして、笑って。



『……たのむ、相棒』



 掠れた声だった。

 けれど、もう震えていなかった。



『〝英雄〟を、支えてくれ』



 窓の外からは、いつの間にか風の渡る音と、自動車の走る低い音が響いていた。

 世界に二人だけのような、きっと生涯に一度きりだった、静かな夜は、終わっていた。


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