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自分の予想が大きく間違ってはいなかったこと、しかし、実際にはそれ以上にもっと深刻であったこと。
ラーグハルトがそれを知ったのは、ある夜だった。
窓から見える空は、よく晴れていたけれど、月の無い新月の晩だった。
『おい、サンダース!お前、いい加減にしろよ!』
その頃のサンダースは、殆ど中毒のようにアルコールを摂っていた。
かわりに食事の量は減り、いつ訪ねても、床の酒瓶だけが増えていく状況に、とうとう、その日、ラーグハルトは声を荒げたのだ。
『もうやめろ!お前、本当に体壊すぞ!』
ソファーに座っていたサンダースの前、机に置かれていた酒瓶とグラスを叩き落として唸る。
見ていられなかった。
こんなに追い詰められて、死んだ仲間の影をボンヤリと追い続けている姿は。
『サンダース、お前はよくやったよ』
床に膝をついて、肩を掴み、静かに言い聞かせるように言った。
『よくやった。お前は、よくやったんだ』
何も間違っていないのだと。もうこれ以上、追い詰められる必要はないのだと。
『サンダース、俺は……俺にとっては、お前だけでも、生きていてくれただけで良いんだ』
心から本心だった。心の底から、本心だった。
『そんなに、それ以上は、自分を追い詰めるなよ』
絞り出すようなラーグハルトの声に、サンダースは、しばし答えなかった。
静寂が部屋を包んでいた。
窓の外、風の音すら聞こえない夜。
そして唐突に、サンダースは笑い出した。
『違うんだ』
そう、笑いながら言った。
『違うんだ、ラーグハルト。私は、よくやってなんかいない』
肩を震わせて笑いながら、酒で掠れた声で。
『私は、生きて帰って来たんだじゃない』
掴んだままの肩の小刻みな震えを、ラーグハルトは何故か呆然としたまま手の平に感じていた。
何か、決定的なことが起きるような予感が、ある。
『私は、生かされたんだ』
少しだけ、笑いは弱まっていた。
『ラーグ、ラーグ……ラーグハルト』
伸ばされた腕が、自分の肩を掴むラーグハルトの手に触れて、それを外した。
微かに、その指先は、震えていた。
『ラーグ、わたしは』
落ち着いて、よく響くはずの指揮官の声音は揺れる。
『ラーグ、俺は』
聞きなれた、少年の頃からの声音で。
見上げた青い目は、泣いていた。
生還以来、初めての涙だった。以降4年、流れることのない涙だった。
『俺が殺したんだ』
そうして堰を切たように零れ落ちた真実の数々。国家のために葬られた、本当の終わりの物語。
完全に酔いが回っていたのだろう。サンダースは、いつもの様子からは想像もつかないような纏まらない話し方で、全てを吐露した。
時間軸や事実や感情が、子供の話しのようにゴチャゴチャになった声を、繋ぎ合わせて整理して、理解して。
『俺が死ねと命令したんだ』
掠れた声で、らしくなく喚くサンダースに、ラーグハルトは掛けるべき言葉を失った。
これから先、誰にも告げられずにサンダースが背負わねばならないものの重さに、目の前がクラリと揺れる。
ああ、なんてことをしてくれたのだと、心中で吼えた。
ああ、なんてことをしてくれたのだ。
どうして、こんなに危ういくらい誠実で責任感の強い奴に、そんな役目を任せて逝ったのだ。
二度と口を利かない墓石の下の男へ、その時、憎しみすら抱いたことを認めよう。
けれど同時に。
それはラーグハルト自身の罪でもあるとわかっていた。
あの懐かしい少年の日々。
あの頃から、気付いていたではないか。
ショウが、サンダースの危うさを知らぬこと。
ショウにとって、サンダースがヒーローであったこと。
気付いていながら、それが二人の友情の形だと、そう思って放置してきたのは誰だ。
もしもあの頃に、それは違うと叫んでいたら。
サンダースはヒーローなどではないと。
もしも、あの時に、叫んでいたら。
もしかしたら、結末は、違っていたのだろうか。
『……ごめんな』
視線が落ちた。
俯いて床を見下ろすラーグハルトに、サンダースは何も言わない。
『ごめんな、サンダース』
ゆっくりと視線を上げて、もう一度、その肩に手を置いた。
『お前は、何も悪くないよ』
悪だとすれば、それはラーグハルトの方だった。
かつて、それは違うと、ヒーローを否定する言葉を叫べなかったのは、怖かったからなのだ。
どちらがより大切か、そこに優劣はなかったとしても。
それでも、ショウと自分に向ける友情が、違う方向であったこと。
それはラーグハルトにとって、心地よかった。
自分に向けるのと同じ形の友情は、ショウにですら向いていない。
そこに優劣はなくとも、それでも、そのことが、彼のオンリーワンであることが、心地よかったのだ。
だから、叫ばなかった。
だから、それが二人の友情の形だと、事実を盾に言い逃れたのだ。
そして、なお悪いことに。
今、それを悔いていない自分すらいる。
叫ばなくてよかった。
ショウにとってサンダースを、ヒーローのままにしておいて、本当に、良かった。
そうしておいたからこそ。
サンダースは、サンダースだけは、生きて、帰って来た。
『お前は何も悪くない』
ただ純粋に、ショウの死を、戦友達の死を、自分が命じたのだと己を責めるサンダースよりも。
よほど、苦しむべきは。罰せられるべきは。
自分のような、身勝手な人間なのに。
音にならない叫びを、心中だけで繰り返す。
『かわってやれなくて、ごめんな……』
肩に額を当てて、背中を軽く叩きながらそう言った。
比べようもなく大切で、他のものなんてどんなにか簡単に切り捨ててしまえるのに。
そんなに、愛しているのに。
結局、ただ生きて帰ってくれた事を喜んで、こうして、お前は悪くないのだと繰り返すことしかできない。
『ごめんな』
引き寄せた背中は、短い間に以前より細くなってしまっていた。
物音ひとつしない夜。
いつかの日々のことが次々に浮かんでは消えた。
クリスマスに見た背中。橙色の卓上ランプ。
課題をこなす微かな筆の音。
寒空の下で濡れていた黒髪。
笑っていた青い目。
新しい年の乾杯。
シュワシュワと弾ける炭酸水の微かな囁き。
いとおしい、たのしかった、ながいながい、月日。
全てが込み上げて、少しだけ身を放し、自然と口は開いていた。
『俺は』
永劫に言わないつもりだった言葉は、その時、とうとう零れ出そうとして。
ハッと、我に返った。
完治していない骨折を示す包帯。
頬に薄っすらと残った裂傷の後。
首に残る火傷。
ああ、今、言ってはいけないと思った。
こんなにボロボロの相手に。
きっと生涯でただ一度だけ。今だけならば、告げて叶う気がした。
きっと今、愛していると囁いて逃げられないように囲い込めば。
追い詰められてボロボロで、何もかも投げ出す寸前の相手を、きっと、閉じ込めてしまうことが出来る。
俺はお前を理解しているよ、と。
全部知った上でも、俺はお前を愛している、と。
それは心底本心で、だからこそ、たぶん、弱って追い詰められた目の前の親友にとって、麻薬にも等しい言葉だった。
サンダースにとっては愛でも恋でもなく、それでも、それらを見返りとして求められるなら、差し出してでも縋り付いてしまいたくなるくらいに、救いに聞こえるだろうと、分かった。
だからこそ、言葉は今にも零れそうなほどにそこにあって。
だからこそ。
『俺は、お前を支えるよ』
絶対に、言ってはいけないと、飲み込んだのだ。
『俺はお前を支えるよ。あの日、何があったとしても。これから、何があるとしても』
かわりに、微笑んで、そう言った。
『背中は任せろ、相棒。そこには、絶対に、俺がいてやるから』
青い目は、しばらくラーグハルトを見下ろした。
それから、やがてクシャリと笑った。
『……そうか』
短い一言だった。
そうして、笑って。
『……たのむ、相棒』
掠れた声だった。
けれど、もう震えていなかった。
『〝英雄〟を、支えてくれ』
窓の外からは、いつの間にか風の渡る音と、自動車の走る低い音が響いていた。
世界に二人だけのような、きっと生涯に一度きりだった、静かな夜は、終わっていた。




