10
談話室にいたのは、何だかんだと二時間ほどだった。
『起きてるか?』
小声を掛けながら覗き込んだ二段ベッドの上階。
頭まで被っていた布団は肩まで下がっていたけれど、サンダースは変わらず眠っていた。
こちらに背を向けて寝る横顔は、少しだけ、顔色が良くなっている気もする。
ただ、表情は寝苦しそうだった。
ぼんやり、その顔を眺めた。
この国では珍しい黒髪。代々、兵器貿易商の家系でもあるから、先祖には色々な国籍の国際結婚があったらしい。
今は閉じて見えない鮮やかなブルーアイは、確か祖父からの隔世遺伝だと言っていた。
おそらく、同期達の誰よりもラーグハルトは知っている。
彼の家族の事。
好きなこと、嫌いなこと。
癖や趣味嗜好。
ひとりで、背負ってしまう、愚直な人柄。
ひょっとすれば、その点では家族より知っているかもしれなかった。
そして、その愚直さを、その誠実さを。
友人として慕わしいと思っていて。
その人柄になら、戦場で命を預けられると。
軍人として、思っている。
そこにあるのは、ただ純然たる友情だ。
信頼と親愛と、敬意。
ただただ、純然たる友情であると胸を張って言うことができる。
けれど。
遠くに聞こえる同期達の賑やかな声を聞き流して、深夜、眠る友人にふと込み上げるものは何であろう。
完璧を目指して努力する背中。
撫でてくれる手を知らないと言った声。
孤独ではない。
愛されていないわけでもない。
幸か不幸かならば、幸福な環境。
けれど、どうして。
いつも、さいごは、ひとりで立向かうのだ。
その愚直な誠実さを。
その称賛すべき危うい強さを。
何もかも持っているのに、何にも縋れない手を。
ただ、抱き締めてやりたいと思う。
それは、友情の好意とは違う気がした。
友情としての心は、抱き締めるのではなく、支えるのだと、そう叫んでいるから。
友として軍人としてのラーグハルト・フライムは、彼を支える事、彼の右腕であることを、既に決めていた。
けれど、一方で。
ふとした時に抱き締めたいと思う部分は、彼の盾でありたいと思うのだ。
背中を預かるのではなく、その全てを守ってやりたいと、そう思うのだ。
その感情の名前は、既に知っている。
故郷に置いて逃げてきた感情だ。
可愛らしい幼馴染みの少女に抱いた時には、フワフワと心地よくて、世界中で一番幸せだと思えた感情で。
無邪気な年下の少年に抱いた時には、世界に押し潰されそうに感じた、重い感情だ。
不思議と、少年に感じた時ほどの絶望感はなかった。
けれど、幼馴染みに感じた時のように、フワフワと幸福に跳ねる何かもない。
ただ。
この静かな年跨ぎの夜半の空気のように、胸が痛いほど清澄で穏やかな気分だった。
遠く、遠く。
外の通りを、車が駆け抜けていく音がした。
時計の秒針が、カチ、カチ、と少しずつ進む。
少し、寒いなと思って。
ぼーん、ぼーん、と、鐘が鳴る。
年が、明けた。
談話室の方から、歓声が聞こえてくる。
さざ波のように。
それは言葉として明瞭に聞き取れるわけではないけれど。
おめでとう、おめでとう、と。
新しい〝今〟を喜び合う声だと分かる。
それに気を取られていた時。
すぅ、と、視界の端で毛布が動いて、我に返った。
『あ、わり。起こしたか?』
サンダースが、鳴り響いた歓声の為にか、眠そうに目を開けていた。
『……とし、あけたのか?』
掠れた声で、視線をさ迷わせて時計を探すので、ああ、と、頷いて応じる。
『明けたよ。おめでとう』
『おめでとう』
幾ばくか眠気の覚めたような表情でサンダースは答えて、首を傾げた。
『談話室、行かなかったのか?』
『行ったけど、飽きたから戻って来たとこ』
肩を竦めて、ラーグハルトは両手いっぱいの見舞品をベッドに手放す。
『皆さんから、ヒーローへの新年の供物だぜ』
何か食えそうか、と訊くと、サンダースはコーラを指さした。
『喉は乾いた』
『じゃ、コーラで年明けの乾杯でもするか』
栓抜きを手に取って、ベッドの木枠に寄り掛かる。
『座ったらどうだ?』
サンダースはフラフラと起き上がると、熱っぽい顔で、自分の隣をポンポンと叩いた。
『多少狭いが。座れるぞ』
『狭いし、お前が楽なようにしてろ』
気にするな、と笑って手を振って。
コーラの瓶を開け、手渡してやる。
『わるい、ありがとう』
『どういたしまして』
渡しながら、はたして病人にコーラは良いのだろうかと思いつつ、それでも、飲めるならいいかと納得した。
『固形物は何か食えそう?』
自分も適当にサイダーの缶を開けて問うと、やめておく、とサンダースは答えた。
『固形物を入れたら吐く』
『そりゃ切実だな』
苦笑いして、開けたばかりの缶を緩く掲げる。
二段ベッドの上階に座るサンダースと、梯子の二段目に足を乗せて、最上段に片腕で寄り掛かるラーグハルトと。
少しだけ、目線はラーグハルトの方が低かった。
『新年おめでとさん』
『おめでとう、ラーグ』
2人きりの、新年の挨拶。
遠くに聞こえる喧騒をBGMにして、ぼんやりと、去年の事を話し続けた。
楽しかったこと、大変だったこと。
腹が立ったこと、嬉しかったこと。
すると、やがて。
『そうそう。それで、そん時に教官が……、おい、サンダース?』
返事が途切れたのに気付いて、ふと視線を上げると、壁に凭れて相手は船を漕いでいた。
『おい、こぼすなよ』
苦笑いして、不安定に緩く握られていたコーラの瓶を取り上げ、寝ろ、とベッドを叩いてやる。
『わるい……』
もぞもぞと大人しく布団に潜り込む姿に、ふぅ、と思わず息の抜けるような笑いが漏れた。
『……おやすみ、サンダース』
壁の方を向いた横顔。
ポンポン、と軽く額の少し上を平手で抑えると、ああ、と夢うつつに返事をする。
『おやすみ、ラーグハルト』
そのまま、すぐに寝息が始まった。
規則正しい布団の上下は、今度こそ本物。
顔色は良くなっていた。
寝苦しそうな様子もない。
すぅすぅと、眠る顔を見下ろした。
辺りは静かだ。
遠く、談話室のざわめきは、遠く。
開けたばかりの新年の、ひんやりと心地よくて、澄んだ空気。
ああ、まったく。
心の中で、そう言った。
声に出さないまま、ひっそりと。
やっぱり、俺は君が好きなようだ。




