AM11:03(5)
部屋の上等さからも想像はついていたが、バスルームにも高級感が漂っていた。広さは十分にあって、浴室とトイレはガラス戸で仕切られ、洗面台もそれらとは離れて造られている。
記者とカメラマンに軽く詫びて席を離れたサンダースは、パタンと、彼等と自分の間を隔てる固いドアを閉じる。
白で統一された空間に閉じこもると、一時、立ち竦んで息を止めた。
背中を付けたドアの向こうからは、微かに記者とカメラマンの会話が聞こえて来ている。
「ああ、本当に感激!見た?本物の、サンダース・クレイガン!」
はしゃいだ声の記者は、楽しげだ。
「テレビや写真で見るより、更にハンサム!私、記者になってよかった!」
「確かに、マジで俳優みたいな顔立ちしててびっくりしたよ」
寡黙そうだったカメラマンも、存外に明るい声で応じているらしかった。
「百年後の歴史の教科書に、きっと太字で名前が載る人だろ?俺の撮った写真、教科書とかに使われないかな?」
「ふふ、上手く撮れれば、ありえるかもね。がんばって!」
明るい2人の会話を、どこか別の世界の出来事のように感じてから、フラリと、その別世界すら彼方に放り投げるように、洗面台に近付いた。
コツン、と、白い洗面台の縁に、縋るように右手をついて凭れかかって。込み上げる頭痛と吐き気に、思わず左手を口元に当て、背中を丸めた。
右手は先ほど挙げかけた時のまま、小刻みに痙攣している。
「……またか」
掠れた悪態が漏れた。
のろのろと、口元から引きはがした左手を軍服の内ポケットに突っこんで、目当ての物を探る。
こつりと、すぐにそれは爪の先に当たって見つかった。
ガラスの瓶。
そこに満杯に詰まった錠剤をボンヤリ眺めてから、痙攣する右手に何とか力を込めて、蓋を開きにかかった。子供の握力でも開くはずなのに、震える手は、何度も空回る。それが途方もなく不愉快で不快で、苛々と脳の表層は荒れるのに。
その頭の奥の奥、永遠に冷え切った部分は、今度からはスライド式のケースにしよう、なんて場違いに冷静な事を考えていた。
数度失敗して、やっと蓋が開いて。けれど手元が狂って、錠剤はざらざらと手の平一杯に流れ出てしまった。
それを一瞬だけ見つめて、機械的にそのまま全て口に放り込んだ。
噛み砕くと粉っぽさが喉に付くけれど、その感覚にも、とっくに慣れてしまった。粉っぽさに咳き込むこともなく、ただ、目の前の蛇口を捻り、備えつけのグラスに水を汲む。
その水で、粉と一緒にやり場のない虚無感も、どこか奥深く、腹の底に流し込んでしまえればいいと心底思うのに。やがて喉から消えるのは薬の感触だけだった。
あるいは、少し遅れるように頭痛が引いていくのだけは、幸いかもしれなかったけれど。
痛みが引いた事で吐き気の方も少し和らいで、丸めていた背中を、そろそろと伸ばす。
上げた視線の先、鏡がある。
それを見て、乾いた笑いが無意識に漏れた。
「……それではだめだ」
いまだに震える右手を鏡に当てて、自分でも殆ど聞き取れない声で、呻いた。
「お前は、そんな顔では、いけない」
暗く暗く憎悪に満ちて、今にも人を殺しそうな、何もかもに絶望したような顔。
鏡に映った男に、小さく、小さく、言い聞かせる。
「お前は〝英雄〟でなくてはならない。この国に必要なのは、〝英雄〟だ」
その声が、悲鳴なのか怒声なのかも、わからない。あるいは祈りに似ているのかもしれない。けれど、これは祈りなんかじゃないと、自分が一番知っている。
睨み合うこと、数秒。
鏡の中の男は、不意に微笑んだ。不敵でいて穏やかな、頼もしげで冷静そうで、けれど優しい微笑で。
そう〝英雄〟は、いつだって、そういう風に笑っている。
「……それで、いい」
ふっと、脱力して、息を吐く。
だいじょうぶ、まだ、まだ、まだ、だいじょうぶでなければ。
無意識に頭の中で何度か繰り返しながら。
ゆっくり、ゆっくり、気だるげに、停止したがっているのではないかと笑えるほど怠惰に脈打つ心臓を、左手で抑える。
右手の痙攣が、やがて、止まるまで。
数分の、無音、沈黙。
一点の曇りもなく磨き込まれた洗面台に視線を落とし、もう一度、大きく息を吐き出す。数秒、閉じた瞼の奥を睨んでから、サンダースは、もう震えのない右手を引いて、洗面台に背を向けた。
(さて、話の続きは、どうしようか)
〝英雄〟は、ぎこちなく、人々が求める表情を作ってみる。




