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いつの間にか意識が浮上していて、ふと身じろぎした。
「お、わり、起こしたか?」
肩から上着が落ちるのと一緒に、ラーグハルトの声が聞こえた。サンダースの肩に上着を掛けた体勢から少し驚いて身を引く姿を横目に、サンダースは目を瞬いて、どうやら机に突っ伏して寝ていたらしいと理解する。
「……いや、平気だ」
ぼんやり机に伏せたまま、椅子の背に掛かって留まった上着を引き上げ、首を左右に振った。
机の上、頭の近くにある受話器からは、何も聞こえない。どうやら、グースも寝ているらしい。
「起きたなら、ついでにちゃんとベッド行って休んだらどうだ?」
ラーグハルトはそう言って、部屋の隅の古ぼけたベッドを片手で示した。
「作戦開始は朝だ。夜番担当は他にいるんだから、お前は仮眠しといていいんだぜ?」
そう言いながら、背後から机の横に回って来たラーグハルトに、片手を振ってノーを表明。
「……ここで、いい。どうせ寝ても早朝に起きるんだ」
「節々、痛くなっても知らねぇかんな」
溜息を吐いて、ラーグハルトは机の端に座り込んだ。そして点いたままのラジオに手を伸ばす。
チューナーが動いて、ザザ、と砂嵐が数秒。やがて不意に、再び電波を拾った機械から、明瞭な音楽が滑り落ちて耳を打つ。
《Amazing grace how sweet the sound...》
静かな曲。
机に伏せたまま、サンダースは無言。
ラーグハルトも、ただ黙って、そこにいる。
流れてくる音楽。掠れた、圧し殺したような、低い男の声だ。なんとなく、歌っているのは壮年の、髪を短く刈り込んだ、黒人男性だと思った。
あるいは、昔どこかで、そんな光景を見たことがあるのかもしれない。
真っ暗なステージ、背後から差す一条のスポットライトの中で、真っ黒な、美しい肌をした人が、歌う光景を。
目を閉じて思った。
そういえば、この曲は、若き日に奴隷船の商人であったという神父が作ったものだった。
かつて大航海時代、奴隷の売買をしていた男は、ある時、大嵐に見舞われる。そうして死を意識して、けれど、その危機から生還することが叶い。
その時、男は、それを奇跡と信じた。
多くの黒人奴隷を売買し、その人生を踏み躙った自分さえもが、神に恩寵を、許しを与えられたのであると。
そうして、悔い改めた男の作った曲だった。
けれど、と、ふと、サンダースは思った。
けれど、しかし、本当に、男は許されたのだろうか、と。
いや、そもそも、男は何か罪を犯したのだろうか?
故郷から奴隷として連れ去られて行く人々の多くは、その時代、きっと、男が信じたのと同じ神を信じる信徒ではなかったのではないか。ならば、そうだ、どんなに男が憎くとも、奴隷達は、はたして男が信じたのと同じ神に、男の罪を訴えただろうか。
もしも男の信じた神に対して奴隷達が訴えていないなら、男が信じたその神は、はたして、なにを男の罪とするのだろう。
訴える者のない罪は、もはや罪とは言わぬのではないか。
少なくとも、男の信じた、その神にとっては、男は無実で、最初から罪など無かったのではないか?
(……いや、違うな)
ぼんやり考えて、唐突に結論に行き着いた。
(罪は、確かに存在する。神に、罪を訴える者は、ちゃんと、いた)
そうだ、他ならない、男自身がいた。
男の罪を訴えたのは、有罪を言い渡したのは、男自身だったのかもしれない。
全部、心底に、真剣で真摯な、ひとり芝居だったのかもしれない。
ならば、と思う。
ならば、この世界に、そんなひとり芝居は、どれほど溢れているだろうと。
(ひとが、ひとを殺すことは、どんな時でも、罪だろうか)
心が砕け散る寸前の日々から逃れる為に肉親を殺したこと。
祖国の為に、大切な戦友達を殺したこと。
世界中で起きている、あらゆる戦争。名前も知らない相手に、時には互いに顔も見えないまま、殺し、殺されて。
そんなふうに。
遥か遠く、死んでしまった者達は、何も言わない。
その時、何があったのか、殺された当人達が訴えることは、ないのだ。
真実は葬られ、その殺人を真に知り、訴えるものはない。
神ですらも、訴えの無い罪を裁きはしないだろう。
けれど、それでも、世界から、罪が消える日は来ないのだ。
他ならない、その人自身が、罪だと叫ぶ限り。
誰に責められずとも、ただひとり、その本人だけが、その瞬間の記憶に悩まされ、怯え続けている限り。
だからサンダースも、〝英雄〟を演じているのだ。
誰に責められずとも、自分自身が、自分を責めているから。
それだけが唯一の贖罪だと信じて、ほかの全てを投げ捨ててでも、〝英雄〟であろうとしている。
きっと、そんなふうに、自ら罪を被っている罪人で、世界は溢れている。
きっとそれが、人間だと思った。きっとそれが、人間の世界なのだ。
その愚直で不器用で後ろ向きで、卑屈な。
いとおしい思考こそが、人間のこころなのだと、思う。
(神は人を裁かない)
ぽつりと、そう、思う。
(人を裁くのは、いつだって、人自身だ)
だから、きっと、人を許すのも、人だけだ。
贖罪の奇跡を、恩寵を与えるのは、いつだって、人自身に他ならない。
どこまでもひとり芝居で、誠実な罪の終わりは、ひとり芝居で終わらせねばならないのだ。
目を開けて、そろそろと、サンダースは右手に視線を向けた。
指先を、弱くまげて、握り込む。
この手は、本当は、とっくに自由に動くのかもしれない。
この肺は、本当は、とっくに大きく息を吸い込めるのかもしれない。
あの日から、〝英雄〟であることが唯一の贖罪だと思ってきた。だから〝英雄〟になろうとし続けてきた。
でも、そのゴールはいつだったのだろう?
何をもって、なにを成したなら、〝英雄〟になれたと、贖罪を完了したと、そう思えたのだろう。
もう誰も、もう彼等は、許すと、言ってくれたりしないのに。
(……許すことを決める時が、許される時だったんだ)
ゴールは、許すか、許さないかは、自分自身で決められることだったのだ。
決めねばならない事だったのだ。
ふと耳殻に蘇るのは、受話器の向こうの少年の声。
『俺にとって、貴方は英雄です』
顔を上げて、部屋の隅を見つめた。
青い闇の中。深海のように、そこは静かで、穏やかだった。
「……ラーグ」
「ん?」
散らばってしまった資料を整えながら、ラーグハルトは凪いだ声で頷いた。
「おう、どした?」
「……なぁ、私は」
ぽつ、ぽつ、と。深海に、小さな泡を浮かべるように。
「もしも、この事件が終わったら」
小さな声で、呟いた。
「ちゃんと……ちゃんと、たとえ、1人にとってでも」
英雄で、あれたなら。
「……俺は、許されても、いいか……?」
きっと、なにより、怖い言葉だった。
どんなことより困難で、途方もなく勇気のいる、言葉だった。
こころも、たましいも、削り出して、ようやく呟いた、言葉だった。
「いいんじゃねーの?」
軽い口調で、ラーグハルトは応じた。机に座った行儀の悪い姿勢のまま、そうして振り向いて、口角を上げて。
「もうとっくに。お前は肩の力抜いてよかったんだよ」
あの運命の日には、別の戦地にいて。
けれど、〝英雄〟が出来上がった日から、ずっと、ずっと。
重石を失って、息が出来なくなるほど、上へ、上へと駆け上がる背中に、必死に食らいついてきてくれた。
かけがえのない、変わらない、もう1人の親友は、素っ気なく、笑った。
「気張らずいろよ。お前で足りない分は、優秀な右腕様がフォローしてやんよ」
視界が揺れるほど、わしわしと頭を掻きまわす手は、あの日、右手を取った彼の手と同じように強くて、そして、頼もしい。
「……やめろ、俺は、ガキじゃない」
笑って軽く手を払い除けて、もう一度、机に突っ伏した。
深海は更に深く深く、穏やかな闇の世界になって。
《 I once was lost but now am found 》
《 Was blind but now I see 》
ラジオは奇跡を歌い上げ、涙腺は、数年振りに、正常に動いているらしかった。




