PM23:06
受話器と受話器の間には、只管の静謐が横たわる。
互いに何も言わないまま、時が流れていた。
毛布に包まったままのグースが耳に当てた黒い受話器の向こうでは、英語の歌も終わっている。かわりにラジオのパーソナリティーが、はがきを読み上げていた。
先週の放送で流した曲に関して、特別な思い入れがあったというリスナーから送られてきたエピソードを、面白おかしく膨らませる声にスタジオの笑い声が合いの手を入れる。
それを聞き流しながらベッドに横になって。
カーテンの隙間から落ちてくる光の筋を、見ていた。
薄闇の中、視線を落とした先、ドラグノフの前。
カーテンの隙間から落ちた細い細い光の梯子。
今夜は、星も、月も、明るいようだ。
そう思って、目を瞬いた。
なぜ、通話を切らないでくれと言ったのだろうと、自問する。
電話線の向こうの相手にとって、知られたくない、知られてはならない事実を知ってしまった自覚はある。
だからひょっとして、追い詰められた相手が、夕方の自分のように通話を強引に拒むかもと、そう、思ったのは間違いない。
だが、では、どうして、なぜ、そこでそうして通話を切られてはならないと思ったのか。
この状況下で通話を切られて、死の恐怖と孤独に向き合う事が怖かったのか。
それとも。
ただの〝人間〟でありながら、足掻きに足掻いて、壊れる寸前まで〝英雄〟であろうとする人への憐憫だろうか。
自分も彼に、偶像を、依存を押し付けている側の人間のくせに。今だって、裏切られたような気持ちと、絶望感を抱えているくせに。
それなのに、かわいそう、などと思った、思い上がりの偽善からの言葉だったのか。
わからなかった。
予想する全ての理由が間違いかもしれなかったし、全ての理由が、正解の気もした。
グース本人が、その理由をわからないまま、けれど、通話を終えたくは、なかったのだ。
確かなのは、ただ一つ。
感謝する、と。ありがとう、と。
掠れた声が聞こえた時、ああ、これで良かったんだ、と、心から、思ったことだけ。
『グースハウザー』
ふいに、静謐の向こうから声がして、目を瞬いた。
「はい?」
『昼からずっとその部屋で、何も口にしていないと思うが、体調の変化などは?』
ついさっきのグースのような、絞り出したような話題。
そんな人間らしい唐突さに、行動に、なぜだか、ひどく、安堵した。
「悪い変化はありません。大丈夫です」
答えながら、無意識に、片手で腹部に触れていた。
「……あ、でも、さすがに、お腹は減ったな」
すると、ふっと、受話器の向こうで、笑い声が、漏れた。
『はは、なるほど、そうか、そうか』
「す、すみません!」
意図せず漏れた呟きに返った笑い声に、グースは慌てて身を起こした。
「あの、すみません、つい、敬語忘れて」
『構わない、構わない』
なにかツボに入ったのか、少し苦しげに笑いながら、サンダースは言って、そして穏やかに、頷いた。
『飲まず食わずで半日以上だしな。当然だろう』
「はい……」
なんとなく、腹部に当てた手を見下ろす。
こんな状況でも、人間は、空腹になるのだ。
そういえば、数時間前にも同じように思ったのだと、思い出す。
けれど、自嘲的に笑ったあの時と違って、今は、なにかが、ジン、と、全身に滲み込んだ。
そうか。
極限状態の、最悪の気分でも、人間は、空腹になるのだ。
この体は、生きて行く為の糧を、求めるのだ。
ならば、それは奇跡のような摂理だと、思う。
光の梯子に、再び視線を向けた。
星も月も、やはり明るい。
『グースハウザー』
サンダースの声が、軽い口調で、言った。
『全部、これが終わったら、高い料理でも食べに行くか』
「え?」
目を見開いて聞き返したグースに、軽くて何気ない様子の声は、けれど確かに返答する。
『一度、直接、君に会ってみたいと、思った』
さらりと、落とした言葉だった。
本当に何気ない、ただ、親愛を表しただけの声だ。
けれど、その何気ない瞬間が、グースの中で、意味を持つ。
「俺に……?」
掠れた声が漏れた。
それは、本当に、嘘のような、言葉だったから。
ずっと、ずっと、グースは隠れていた。
怖い怖い全てから。見つかってしまえば、きっと、痛くて怖くてつらいから。
軍隊から隠れて、家族から隠れて。
自分が犯した罪から隠れて。
見つからないように、見つからないように。
暗くて灰色の場所にいて、そこから見つめる世界には、ずっと、色がなかった。
けれど、たった一瞬に、その世界に、七色が満ちた。
電話の向こうの人は、きっと知っている。
グースが犯した罪を、身勝手を。
それなのに。
それでも。
会ってみたいと、言ったのだ。
ふと、なにか、どこかから、冷たいものが、融け落ちる。
本当は、もう、とっくに、隠れる事には疲れていた。
本当は、最初から、誰かに気付いて貰いたかった。
けれど、本当に、心から、見つかることが恐ろしかったのだ。
身勝手な自分が憎くて恐ろしくてたまらなくて。だから、そんな自分を晒すことが、そんな自分に気付かれることが、恐ろしくて。
気付かれたくて、けれど、醜悪な自分を嫌悪していたから、隠れたい。
両立するはずのない矛盾に潰されて、隠れたまま動けなくなって、出られなかった。
隠れていたいくせに、気付いて欲しかった。
気付いて欲しいくせに、見つかりたくなかった。
ではどうしろと言うのだと、自分だって、そんな答えを知らないくせに、ただ、どうにかして欲しいと、いつだって身勝手な救いを求めて蹲っていた。
ありえない、あまりに都合が良すぎる、そんな救いを、奇跡を、待っていた。
そう、ありえないと思っていた、奇跡に等しいと思っていた。
けれど、その奇跡は、実に素っ気なく、そこに落ちた。
どうして欲しかったかなんて、単純だった。
本当に、単純。
ただ、醜悪な面も含めて、ただ、そこにいるのだと、自分の存在を、認めて貰いたかっただけ。
ただひとこと、他の誰でもない自分に、会いたいと、言って欲しかったのだ。
そう気付いた時。
俯いて、受話器を握り絞めた。
ああ、この人は、と、芯の芯から、思った。
ああ、この人は、間違いない。
「俺にとって、貴方は英雄です」
英雄は奇跡を起こすものだから。
悪夢を払い、手を差し伸べてくれる存在だから。
ならば、彼は、唯一無二、本物の。
世界中がなんと言おうと、ただひとり、少年にとっての英雄だった。
「全部、全部、終わったら、ぜひ」
グースは、頷いて笑った。
ひどく確かなのに、ひどく緩やかに、ただ微笑む。
「高い店、連れて行って下さい、約束ですよ」
『ああ、約束しよう』
柔らかで、確かな返答を聞きながら、振り向いて見上げた先、壁に掲げられたもの。
光を描き続けた画家の絵は、色彩に溢れている。
風の音、草のそよぐ囁き、すべて、細い細い隙間からも、確かに差し込む月明りに照らされて、そこに。
そうして、微笑む夫人の奥には、幼い少年。
光降る世界に、彼女達は1人きりではないのだと、いとおしく、思った。




