PM22:36(3)
『英語?』
ビクリ、と、反射的に机から身を起こした。
小さな声の出所は、瞬時に思いつく。視線をやった先、伏せていたはずの受話器は、いつの間にか上向きになっていた。
さぁっと、血の気が引いて眩暈がする。
(どこから、聞かれていた……?)
サンダースは、受話器を見詰めたまま硬直していた。
ラーグハルトやリンドマンとの会話は、おそらく、受話器から向こうへ筒抜けていただろう。
聞かれては、ならなかったのに。
サンダースを、〝英雄〟と信じる人には、聞かれてはならない、事だったのに。
(どうすればいい?)
血が回らずに頭はくらくらと働かない。それでもサンダースは殆ど無意識にノロノロと受話器に手を伸ばしていた。
裏切者、嘘つき、と、そういう罵声が飛んでくるか。それとも、どうして、何に縋れば良いのだと、悪夢に魘される人の悲鳴が聞こえてくるか。
受話器の向こうの少年の声が、たとえようもないほど、恐ろしくて、たまらない。
握った受話器を、サンダースは数秒、見詰めた。
頭の中は真っ白で、ただ、自分がおそらく決して踏み外してはならないはずの何かを踏み外したのだと、理解している。
グニャグニャと視界が歪んでいる気がした。あるいは本当に、血の気が引き過ぎてふらついているのかもしれない。
一度、軽く首を左右に振った。
歪んだ世界が更に揺れて軽い吐き気がしたけれど、それも振り払うように、もう一度、首を振って。
「……グースハウザー?」
静かに、受話器を耳に当てた。
罵声、悲鳴、聞こえてくるかもしれないそれらの予感に、視界は揺れている。
けれど、それでも、それはサンダースが、〝英雄〟の出来損ないが受けねばならない弾劾だった。ニセモノで、出来損ないだからこそ、せめて少しでもホンモノに近いニセモノであるために、張らねばならぬ虚勢だったから。
歪む世界で、それでも、受話器の向こうに、声を掛けて。
永遠より長い数秒、沈黙があった。
それから。
『……英語は、苦手なんです、俺』
唐突に、その言葉は、落ちてきた。
「……にがて?」
想定していた糾弾も悲鳴もなく。ただ戸惑いがちに、なんとか話題を振り絞り出すような、声に。
「語学の成績も悪くないと、資料にはあったが」
絞り出された話題に、サンダースも、覚束ない言葉で、返答する。
奇妙な気分だった。
数時間前に、最後に会話をした時には、聞いてはならない相手の譫言を聞いて、気付いてはならない事に気付いてしまって。そして、そのまま、気まずく会話を絶ってしまっていたのに。
そして今は、サンダースの、あってはならない醜聞の露呈を挟んで、こうして、再び会話しているのに。
『語学の成績は、その、実力じゃなくて……。ヤマ勘には、自信があるというか……』
「ヤマ勘にしても、ヤマを張った部分は、ちゃんと勉強するから点数になるのでは?それなら、実力と言っても良いと思うが」
覚束ないながらに、絞り出された話題を繋げて、こんな、何でもない事を、話している。
何事も、なかったように。
奇妙な、気分だった。
奇妙な気分の端の方、ラジオから溢れて肌の表面を撫でていく歌は、いよいよラストにさしかかっている。
《長い間 独り囚われている》
《時の流れは遥か遅い》
《そして、時はあらゆるものを変えてしまえるから》
《君は、まだ、そこにいてくれるでしょうか》
誰に、誰が歌っているのだろう。囚われの身にとっては長すぎて遅すぎる時の流れが、誰を変えてしまうことを、誰が、いなくなってしまうことを、おそれているのだろう。
ぼんやり、頭の裏側の方で言葉の渦を追いながら、そっと頬杖を突くと。
『クレイガン少将』
異国の言葉の中に、少年の声が、割り込んで。
唐突に、なにげない調子を崩したように。僅かに揺れたその声は、戸惑いがちで、けれど必死で。
『通話、切らないで下さい』
細く、確かに、そう、言った。
沈黙した歌声の余韻の中、部屋の外、きっと闇に沈んだ金色の林の木々の中を、風が吹き抜ける音が、遠く、聞こえた。
「……ああ、切らない」
頬杖を突いたまま、サンダースは、細く、答えた。
「……きっと、切らない、きっと」
少年の望んでいた、必要としていた〝英雄〟は、いなかったのだ。
今、少年と電話線越しに向き合っているのは、〝英雄〟になりきれないニセモノの、出来そこないの、ただの〝人間〟だ。
それなのに。
それでも。
落ちたのは弾劾でも悲鳴でもなくて、ただの言葉だった。
切らないで下さい、という、ただの言葉だった。
細い細い電話線の繋がりが続くことを、望んだ言葉だった。
それは単に、極限の緊張状態の中で1人きりになるよりは、誰でも良いから話し相手がいた方が良いという事だったのかもしれない。
〝英雄〟でなくとも、無いよりマシだと、その程度の事。
でも。 それでも。 それは。
〝サンダース〟でも、良いということ。
また、風が吹き抜ける。
その瞬間、息ができた。
たったの一呼吸。たったの、一度だけれど。
長い間、身動きひとつできなくて、深く吸い込むことさえなかった空気が、そっと、満杯に、やっと、肺に届いた瞬間だった。
青い空の記憶。肌を照らす光の記憶。乾いた土の記憶。
遠い少年の日に、どこまでも抜けるような青空の下を駆け抜けた、そんな時に感じていた眩しさを、ふと、思い出す。
ああ、そういば、あの日には。
なんでもできた、なにもかも、どこまでも、すべて。
世界は、ひろくて、うつくしく、遥か彼方までも、自由だった。
いとおしい寂寥と安堵が、酸素と一緒に、肺に柔らかに融ける。
それは、ひどく幸福な、刹那の開放だった。
「……感謝する、グースハウザー」
息を吐くように、言葉は穏やかに落ちた。
「ありがとう」
ただ、そう零れた声に、受話器の向こうは一瞬の間を置いて。
『……はい』
少年の声が、頷いた。
確かに、細い細い電話線越しに向き合って、その声は、他のなにでも、だれでもない、彼の言葉に、頷き返した。
深海のような青い闇の中。
相変わらず、サンダースの世界は、指先1ミリ動かせない。
けれど、たったの一呼吸の合間に蘇った美しい世界の残像は、きっと、いつまでも、瞳の裏に焼き付いた。




