PM22:36
チリン、と、戯れに指先で弾いた瓶は、コロコロと机の上を転がった。そうして落ちるギリギリのところ、危うい位置で、踏みとどまる。
ああ、まるで自分の深層心理が現れたようだと、サンダースは自嘲する。
ラーグハルトとリンドマンが出て行った部屋。
灯りは消えたまま。窓は曇っていて、小屋の外にある部隊のテントの光や、ジープのライトも、ここには殆ど届かない。深い水底のような、ぼんやりと暗い部屋だった。
無意識に、手探りで、机上にあったラジオを点けた。
机に伏せて適当にチューナーを動かしていると、ジジ、という砂嵐の中から、やがて人の声がピタリと拾い出される。
『……て話。リスナーの皆さんも、そう思うかなぁ?』
昼は立て籠もり事件で持ち切りだったメディアも、会見の後は通常の枠に戻ったのか。サンダースの心情と対成すように、四角い機械の丸いスピーカーから、明るい声が、弾けた。
『てわけで、さっきの曲は、Beatlesの〝Help!〟でした。いや、ホント、彼等の人気は凄いよね、最近のチャートは彼等の……」
オレンジ色の光が、ラジオの回りにだけ、ポッと灯ったようだった。暗い部屋に一か所だけ、小さな明かりが灯ったような錯覚。
ただ、灯りの回りの闇は、より濃くなるものなのだけれど。
オレンジ色の声で軽快に語るパーソナリティーの声を聞き流して、サンダースは、目を閉じた。
真っ暗闇は、一瞬。
瞼の裏に広がるのは、ずっとあの日から、片時も忘れることのない、鮮やかで、それでいて朧げな赤だ。
もう記憶の奥底にしかない爆音と、誰かの叫びの幻聴と共にあるのは、この国の歴史を変えた炎で、そして、サンダースの人生を変えた炎。
蘇るのは。
炎の中、燃え尽きる独裁者の旗。
炎の外、佇んだ自分の影法師。
そして、二度と戻らない、戦友達の背中。
『『『『サンダース、我等の、英雄殿』』』』
十色の声が囁く。
記憶に焼き付いた彼等の満足そうな笑みの1つ1つには、やはり、1つ1つ、二度と、だれにも、なにものも、うめることも真似ることもできない、ただ1つだけ、1つだけの幸福そうな言葉が、声が揃っている。
永劫に、永遠に、永久に、いつまでだって。
世界が、全てが、なくなってしまったって、これを忘れるものか。
忘れるものか、なくすものか。
懐かしく遠く優しい記憶の全部全部に、何度だって、応え続けるのだ。
何度だって、何度だって、何度だって。
彼等の声に、誓うのだ、誓わねばならないのだ。
「私は、〝英雄〟でなければならない」
〝英雄〟であろうと誓ったのだ。
〝英雄〟になってみせると、誓ったのだ。
〝英雄〟でなければ、ならないのだ。
なにがあったって、それだけは、果たさねばならない約束なのだ。
無敵で不敵で完全無欠の。
何も恐れはしない、不屈の〝英雄〟でなければらない。
そうでなければ、この胸の奥に、頭の底に、自分が持っている全部全部に刻み込まれた、懐かしくて遠くて優しいなにもかもに、応えられない。
それなのに、今、こうしている自分は。
「私は、何を、やっているんだ……!」
握り絞めた右腕は震え続けている。
頭はグラグラと煮えたって痛み続けて、吐き気に息が詰まっている。
そして、それをアスピリンで誤魔化して、なんとか化けの皮を被っているだけのニセモノ。
部下にあんな顔をさせて、こうして、自己嫌悪で死にかけている、ただのニセモノなのだ。
消してしまいたいと思う、こんなニセモノの〝英雄〟にしかなれない自分を。
けれど消すわけにはいかないのだ。たとえニセモノでも、〝英雄〟でなければならないから。
自己嫌悪で死ねるのなら、とっくの昔に死んでいる。
自己嫌悪が武器になるなら、どんな爆弾も、自分の自己嫌悪の半分の威力にすらならないだろうとすら思う。
けれど〝英雄〟は、死んではならない。〝英雄〟は、自己嫌悪などしてはならないのだ。
だって、〝英雄〟は、完璧なのだから。
息もできない。
なにもかも、サンダースには、なにもかも、できないのだ。
雁字搦めで、もう、いつからか、息もできないくらい、動けないのに。
なにもできないから、窒息して死ぬことも、できないのだ。
身動きひとつできない世界で、ただ〝英雄〟であるために生きている。
生かされている。
あの日、生きた。
歯を食いしばって、ただ机に伏せたまま沈黙に落ちる。
キンと、耳の奥が、痛かった。
『もうすっかり夜も更けてきましたね。うん、秋の夜って長いからかな、なんだか、切ない気分になるね』
沈黙の底で、ラジオのパーソナリティーの声が、ボロボロと落ちて跳ねた。
『てことで、ここで、ちょっとシットリ系の恋のナンバー、いってみようか』
オレンジ色の明るい声は、不意に、ブラウンを帯びた静かな音に変わる。
『The Righteous Brothers,"Unchained Melody". Enjoy!』




