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神には届かない  作者: 空野
神には届かない
37/93

PM22:36


 チリン、と、戯れに指先で弾いた瓶は、コロコロと机の上を転がった。そうして落ちるギリギリのところ、危うい位置で、踏みとどまる。

 ああ、まるで自分の深層心理が現れたようだと、サンダースは自嘲する。

 ラーグハルトとリンドマンが出て行った部屋。

 灯りは消えたまま。窓は曇っていて、小屋の外にある部隊のテントの光や、ジープのライトも、ここには殆ど届かない。深い水底のような、ぼんやりと暗い部屋だった。

 無意識に、手探りで、机上にあったラジオを点けた。

 机に伏せて適当にチューナーを動かしていると、ジジ、という砂嵐の中から、やがて人の声がピタリと拾い出される。


『……て話。リスナーの皆さんも、そう思うかなぁ?』


 昼は立て籠もり事件で持ち切りだったメディアも、会見の後は通常の枠に戻ったのか。サンダースの心情と対成すように、四角い機械の丸いスピーカーから、明るい声が、弾けた。


『てわけで、さっきの曲は、Beatlesの〝Help!〟でした。いや、ホント、彼等の人気は凄いよね、最近のチャートは彼等の……」


 オレンジ色の光が、ラジオの回りにだけ、ポッと灯ったようだった。暗い部屋に一か所だけ、小さな明かりが灯ったような錯覚。

 ただ、灯りの回りの闇は、より濃くなるものなのだけれど。


 オレンジ色の声で軽快に語るパーソナリティーの声を聞き流して、サンダースは、目を閉じた。

 真っ暗闇は、一瞬。

 瞼の裏に広がるのは、ずっとあの日から、片時も忘れることのない、鮮やかで、それでいて朧げな赤だ。

 もう記憶の奥底にしかない爆音と、誰かの叫びの幻聴と共にあるのは、この国の歴史を変えた炎で、そして、サンダースの人生を変えた炎。

 

 蘇るのは。

 炎の中、燃え尽きる独裁者の旗。

 炎の外、佇んだ自分の影法師。

 そして、二度と戻らない、戦友達の背中。


『『『『サンダース、我等の、英雄殿』』』』


 十色の声が囁く。

 記憶に焼き付いた彼等の満足そうな笑みの1つ1つには、やはり、1つ1つ、二度と、だれにも、なにものも、うめることも真似ることもできない、ただ1つだけ、1つだけの幸福そうな言葉が、声が揃っている。


 永劫に、永遠に、永久に、いつまでだって。

 世界が、全てが、なくなってしまったって、これを忘れるものか。

 忘れるものか、なくすものか。


 懐かしく遠く優しい記憶の全部全部に、何度だって、応え続けるのだ。

 何度だって、何度だって、何度だって。

 彼等の声に、誓うのだ、誓わねばならないのだ。


「私は、〝英雄〟でなければならない」


 〝英雄〟であろうと誓ったのだ。

 〝英雄〟になってみせると、誓ったのだ。

 〝英雄〟でなければ、ならないのだ。


 なにがあったって、それだけは、果たさねばならない約束なのだ。


 無敵で不敵で完全無欠の。

 何も恐れはしない、不屈の〝英雄〟でなければらない。

 そうでなければ、この胸の奥に、頭の底に、自分が持っている全部全部に刻み込まれた、懐かしくて遠くて優しいなにもかもに、応えられない。


 それなのに、今、こうしている自分は。


「私は、何を、やっているんだ……!」


 握り絞めた右腕は震え続けている。

 頭はグラグラと煮えたって痛み続けて、吐き気に息が詰まっている。

 そして、それをアスピリンで誤魔化して、なんとか化けの皮を被っているだけのニセモノ。

 部下にあんな顔をさせて、こうして、自己嫌悪で死にかけている、ただのニセモノなのだ。

 消してしまいたいと思う、こんなニセモノの〝英雄〟にしかなれない自分を。

 けれど消すわけにはいかないのだ。たとえニセモノでも、〝英雄〟でなければならないから。


 自己嫌悪で死ねるのなら、とっくの昔に死んでいる。

 自己嫌悪が武器になるなら、どんな爆弾も、自分の自己嫌悪の半分の威力にすらならないだろうとすら思う。

 けれど〝英雄〟は、死んではならない。〝英雄〟は、自己嫌悪などしてはならないのだ。

 だって、〝英雄〟は、完璧なのだから。


 息もできない。

 なにもかも、サンダースには、なにもかも、できないのだ。

 雁字搦めで、もう、いつからか、息もできないくらい、動けないのに。

 なにもできないから、窒息して死ぬことも、できないのだ。


 身動きひとつできない世界で、ただ〝英雄〟であるために生きている。

 生かされている。

 あの日、生きた。


 歯を食いしばって、ただ机に伏せたまま沈黙に落ちる。

 キンと、耳の奥が、痛かった。 


『もうすっかり夜も更けてきましたね。うん、秋の夜って長いからかな、なんだか、切ない気分になるね』


 沈黙の底で、ラジオのパーソナリティーの声が、ボロボロと落ちて跳ねた。


『てことで、ここで、ちょっとシットリ系の恋のナンバー、いってみようか』


 オレンジ色の明るい声は、不意に、ブラウンを帯びた静かな音に変わる。



『The Righteous Brothers,"Unchained Melody". Enjoy!』


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