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神には届かない  作者: 空野
神には届かない
35/93

PM22:01(3)


 受話器の向こうに沈黙が落ちた。


(どうして)


 グースは、空いている片手を口元に押し当てていた。そうしていないと、何か、叫んでしまいそうだった。


(サンダース・クレイガンが、どうして……)


 アスピリン・エイジ。

 1920年代アメリカ。かつて、社会不安に陥ったアメリカで、人々、特に若者が、ただの鎮痛剤であるはずのアスピリンに精神安定剤としての役目を求め、依存するように大量に摂取した時代があったのだ。

 安価で良く効く鎮痛剤であるアスピリン。アメリカでは、ちょっとした不調の時、飲めば精神的にも安心できる、ある種の万能薬としてよく使われる。


 そんなアスピリンに、精神的に縋っていたというのか。

 〝救国の英雄〟ともあろう人が。

 かつて社会不安に飲まれた群衆の中のただの〝人間〟のように。


 腕の痙攣はアスピリンの副作用ではないはずだ。

 ならば、それはストレス性のものか。


 〝英雄〟ともあろう者が、どうして、そんな脆弱さを持っている?


(あの人は、〝英雄〟なのに)


 グースは無意識に胸中で呟いていた。

 サンダース・クレイガンは、〝英雄〟でなくてはならないのだ、と。


(だって、全部、全部、終わらせてくれた)


 つらくて怖い日々、長い長い、悪夢の日の終焉は彼だ。

 そうして、これからも、ずっと、ずっと、悪夢の終焉であってくれるはずの人だ。

 その人がいれば、もう大丈夫なのだと、思わせてくれるはずの人だ。


(こわいものは、つらいことは、全部、あの人が、終わらせる)


 そうであると信じていた。信じたかった。


 だから、許さない、許せない。

 彼が、何かに縋るような脆弱な、ただの〝人間〟であるなんて。

 グースも、この国の誰も、許せない、許すわけには、いかないのだ。


 だって〝英雄〟がいなくなったなら、誰に、何に、悪夢の終わりを信じ込めばいいのだ?


 少し、呼吸が浅くなっている。

 永遠だと思っていた太陽が、実はいつか燃え尽きると知った小さな子供の時のような。

 もう怖いものはいないからと、出て行った先、実は怖いものはずっと、自分の背中に張り付いていたと、気づいたホラー映画の登場人物のような。

 治ったから退院だと思ったら、実はもう手の施しようがないから見捨てられたと知った余命僅かな人のような。

 自我や日々の生活の判断基準であったほど重要な認識が、実は根本から間違っていたという、漠然として、同時に広大過ぎる喪失感と危機感。そして、もう自分では修正しようのないその現実に対する、やり場のない怒り。


 心臓がゆっくり、けれど異様に強く動いて、過剰に送り出される血液が上った頭は、茹で上がったように熱を持ってぼんやりするのに。こめかみのあたりは、冷たいものを押し当てられているようにキンと痛かった。


 ゆるくゆるく、しかし確実に誰かに首を絞められているように、喉の辺りがぎゅうと収縮する。

 茫然と、ただ茫然と、していた。

 すると。



『それでも私は、〝英雄〟でなければならないんだ』



 不意に受話器から、そう、声が聞こえた。

 ゾッとするほど静かな、声が聞こえた。


『たとえ、薬で体を壊しても、私は、私という人格は、崩れてはならない。薬だろうとなんだろうと、あらゆる手段を、どんな手を使っても、私は立ち続けなければならない』


 淡々と、そう言い切った声からは、少しも、少しも、〝人間らしさ〟は、なかった。 



『私は〝英雄〟でなければならない』



 断定の後、再び沈黙が落ちて、グースは息を詰めたままで。


『サンダース……』


 掠れたラーグハルトの声が、上がった。


『サンダース……、もう、いい。もう、いいんだ』 


 見たこともない男の、うなだれて首を振る様子が目に浮かぶようだった。慟哭にも似た声で、彼は言う。


『もういい、もう、いいから、お前、もう、退役しろ』


 怒りでも悲しみでもなく、ただ、何とも言い難い感情を乗せた慟哭のような声で、ラーグハルトは唸っていた。


『薄々、気付いてはいた。……お前は、よく、頑張った、本当に、よく頑張ったよ。だから、もう、いい。もう、いいんだ。……そもそも、最初から、1人の人間が背負えるもんじゃなかったんだよ』


 掠れた吐息は、若々しいはずのその声を、ひどく疲れ切った老人のもののように感じさせる。


『あの日の事も。アイツの事も。……その上で、この国のことまで、背負いきれるわけ、なかったんだ』


 何かを追憶するように一瞬の間を空けて、ラーグハルトは声を押し出した。


『お前、このままじゃ、いつか殺されちまう。いつか、過去の記憶に、今の重圧に、殺されちまうよ』


 だからもうやめていいのだと、言い聞かせるように押し殺した声に。


『それで?』


 サンダースから漏れたのは、空っぽの小さな笑い声だった。


『それで?私のいなくなったこの国は、どうなるんだ?』


 こん、こん、と、数歩、歩き回るような足音。

 名探偵が推理でもするような態度で、ゾッとするほど静かで落ち着いた声で、サンダースは笑う。


『私の、〝英雄〟の消えた国。その時、これ幸いと、チャンスを伺う東西陣営は、どう動く?』


 感情の抜けた笑い声は、ぴたりと、止まった。


『朝鮮、ベトナム、ベルリン。二の舞だ』


 時は、東西冷戦の最中だった。

 いくらか緩和の兆しは見られるとしても、雪解けには、まだ遠い時代。

 そんな中で、この国から〝英雄〟が退場すればどうなるか。


 ……この国には、2つのトラウマがある。

 1つは、王権による独裁。

 そして、もう1つは、タインズ……軍事政権による独裁だ。

 

 王権による独裁以上に、タインズの軍事政権による独裁は、その後の内戦の記憶も含め、人々に深刻な心理的障害を残している。

 実のところこの国の人々の大半は、軍事勢力に対し、深い深い不信感を持っているのだ。

 事実、内戦終結直後には、第二次大戦後に東洋の国が選んだような、軍隊保持の否定すら叫ばれた。

 しかし一方で、今も国内には独裁軍の残党が潜み、議会は国軍を強化、整備しなければ国家安全を維持する事ができないという事実があったのである。

 この国は軍事勢力に対し強烈な反発とアレルギーを持ちながら、その実、軍事勢力にある程度の権限がなければ成り立たないという矛盾の上に立っている。


 その矛盾した心理と実情に、なんとか交差点を作っているのが、〝英雄〟だった。


 軍事政権を倒した〝英雄〟を国民は盲信する。

 だからこそ、その〝英雄〟が属しているからこそ、現在の軍事勢力は、人々の不信を免れている。

 〝英雄〟がいるうちだけは、この国の軍事勢力は、タインズのような〝悪の軍勢〟ではなく、正しい〝正義の軍隊〟として存続を許されるのだ。


 ならば今、〝英雄〟が消えたらどうなる。

 危うい均衡で保たれた、世論と国家安全のバランスは崩壊するだろう。


 そう思い至った時、茫然としていたグースの頭は、ようやく、思考を取り戻した。


(もしも、今、軍事力の廃止なんて話しが出たら)


 想像した未来に、微かに震えが走った。


(独裁軍はここぞとばかりに暴れ出す。そして、アメリカや、ソ連が、やって来る……)


 2大国の介入は必然だった。

 独裁軍によるテロからの国民保護を名目に、軍事機能の存続を巡り混乱するこの国に、米ソは必ず介入してくる。


(朝鮮、ベトナム、ベルリン……)


 二の舞、と、サンダースは言った。

 その通りだ。

 1965年、ベトナムでは、現在進行形で戦争が続いているような時代。

 米ソが同時に介入してくれば、最悪、この国はそれら3国のように二分される可能性すらある。ひょっとするならば、そのまま東西の代理戦場として、再び国土に銃声が響くかもしれなかった。


『私には、退場という選択肢は無いんだよ』


 サンダースの声が、受話器から、漏れて来る。


『自分が去れば何が起こるか分かっているのに、去って、何が残るんだ?』


 カラカラに乾いて、一片の感情もない声が、そう自問して、自答する。


『残るのは、結果だけさ。そう、結果だけ。役目を放棄して、国を見捨てる事になったという、結果だけだ。……傑作じゃないか、上々の結果過ぎて、想像しただけで、アスピリンどころかモルヒネでも欲しくなりそうだ』


『サンダース……頼む、頼むから……!』


 ラーグハルトの震えるような悲痛な声が、再び上がった。


『頼む、それなら、せめて、休め。そうだ、なぁ、バカンスなんていいだろう?』


『そうです!少し、長くお休みになっては……!』


 縋る様に、リンドマンも口を開いた。


『ご自身でも仰ったではありませんか!南仏、北欧、アフリカに、南米だって!ごゆっくりと……!』


『そうだな』


 頷いたサンダースが、おそらく椅子に座ったのだろう音がした。


『その内、行きたいな』


『サンダース、頼む、頼むから……!少し、休めよ……!』


 畳みかけるように一歩、足音を立てたラーグハルトに、ああ、と、サンダースは生返事を返す。


『ああ、そうさせてもらう。少し休むから、悪いが、出て行ってくれないか?』


『そういう意味ではありません!』


 とうとう、縋るような焦燥の声に、リンドマンが怒りを滲ませて荒い足音を立てるが。


『リンドマン』


 ラーグハルトが、静かに、制止を賭けた。


『フライム大佐?』


『……一度、外に出るぞ』


 ラーグハルトの言葉に、一瞬沈黙して、それからリンドマンは何か反論しようとしたらしかった。

 けれど、その反論が音になって、グースの耳に当てられた受話器に届く前に、ラーグハルトが再び声を上げる。


『無駄だ。……こいつは、一度、こういう状態になると、もう、絶対にダメなんだよ』


 悲痛な声で、けれど平静を取り戻そうとするように、深く息を吐いて。


『……少し、放っておいてやろう』


 そう呟くように言うラーグハルトの声は、遠ざかった。


『……行くぞ、リンドマン・パーラー中佐』


 動かないらしいリンドマンに、苦いものを噛みしめるような声が、けれど、固く、軍人らしい声で、促す。


『……サー・イエッサー、大佐』


 リンドマンの声は、どこか歯ぎしりの音に似ていた。


 受話器から、2人分の足音が遠ざかる。

 そして、ドアの開く音が、して。


『サンダース』


 遠くなった位置から、静かな、けれどふつふつと、内から漏れるような咆哮が、上がった。


『今は、1人にしてやる。だが、後で、みっちり、話し合うぞ』


 揺るぎのない、苦しげで、誠実な咆哮だった。


『独りになった気で、いるなよ』


 それに対して、寸の間、静寂があった。

 返事を期待せずに、再び、足音が上がり、遠のきかけて。


『ラーグ』


 ぽつりと、声が、聞こえた。


『……手の怪我は、ちゃんと処置しておけよ』


『……おう』


 短いやりとりだった。

 そして、今度こそ、受話器の向こうは、音を失った。


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