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神には届かない  作者: 空野
神には届かない
34/93

PM22:01(2)


 どこかから聞こえた声に、ビクリと飛び上がった。

 跳ねた体は、けれど次には丸まったまま硬直していたけれど、視線だけは反射で音の出所を探して。

 シーツに押し当てていた受話器が、いつの間にか頭のすぐ横で転がっているのに気付く。音は、そこから漏れていたらしい。


『おい!』


 不穏な声が聞こえてきていた。この怒声の為に、グースは眠りから引き上げられたらしいと気付く。


「なにが……?」


 おそらくグースに呼び掛けているわけではないのは、怒声が遠く聞こえることや、雰囲気で、なんとなくわかった。


 電話の向こうで、何か、起きている。


 そろそろと起き上がって、こわごわ、受話器を耳に当ててみた。


『サンダース!どういう事だか説明しろ!』


 怒声は、どうやら、ラーグハルトのものらしかった。


『サンダース!』


『あまり大きな声を出すなよ。民家がないとはいえ、夜なんだぞ。部隊には休んでいる者もいるだろう』


『大声出させてるのは、テメェだろうが……!』


 ラーグハルトの重いバリトンの鋭い声に、知らず知らず、グースは肩を強張らせ、受話器を少し遠ざけた。

 けれど、正面から直接怒鳴られているであろうサンダース当人は、どこまでも平坦で、妙に落ち着いた声で答えている。


『落ち着けよ、ラーグ』


『落ち着けじゃねぇよ……!お前、今、自分が何をしようとしたか、わかってんのか!』


『少し薬を飲もうとしただけだろ』


『ふざけんじゃねぇ!』

 

 どごっ、キン、と、固い物が倒されるような濁った破裂音と、硝子の割れるような澄んだ音が重なって、今度こそ、グースは肩を跳ね上げた。


『ラーグ、机なんぞ殴っても、自分が痛い目を見るだけだぞ。カップまで割れてしまった』


『フライム大佐、手から血が……!』


『構うか!下がってろ、リンドマン!』


 相変わらず淡々としたサンダースの声と、狼狽えたような、けれど綺麗な発音の知らない声と。

 それを一掃するような、怒り狂った肉食獣の咆哮に似た怒声だった。

 リンドマンと呼ばれた声が、息を飲むのが受話器越しにも伝わって来る。

 再び、ドン、と、おそらく机を殴るような音がして、カサリ、と紙の散らばるような微かな音。どうやら、会話を拾っている受話器は机に転がっているらしい。


『ラーグハルト、物に当たるな』


『なら、お前を直接殴れってか?できるわけねぇだろううが!』


 ガッ、と、荒っぽい一歩分の足音の跡、胸倉を引っ掴むような衣擦れの乱暴な音に、リンドマンの慌てた制止の声が上がるが。

 しかし、当事者らしきサンダースは平然としているようだった。


『まぁ殴れんだろうな。上官を殴れば流石にただでは済まんだろうし』


『そういう問題じゃねぇだろ……!』


 ラーグハルトの声は、抑えのない咆哮から、低く押し殺した唸りに変わる。


『サンダース……、そういう問題じゃ、ない。ただじゃ済まないのは、お前の体の方だ……』


 一歩、離れる足音と共に、チリン、と、何か瓶でも弾くような音がした。


『お前、今さっき、何錠、飲もうとした……?』


『ただのアスピリンだ。法に触れる薬でもない、どこにでもある頭痛薬だろ。……寝惚けただけだ』


 ラーグハルトの声に答えたサンダースは、軽く笑った。


『それより、ラーグだけならともかく、リンドマンまでノックなしで急にドアを開けるなよ。上官にもプラーベートがあるぞ』


『誤魔化すな』


 軽く話をするサンダースに、また一歩、ラーグハルトの足音が進んだ。

 怒声ではなくなっていたが、その押えた唸り声が、かえって怒りの深さを伝えている。


『ただのアスピリン?ああ、ただのアスピリンだ。だがな、お前、アスピリンの副作用は知ってるよな?』


『胃に悪いんだったか?』


『……胃に負担が掛かる他に、出血が止まりにくくなると言われています。怪我のリスクが高い職業、軍隊勤めなどにとっては、致命的です』


 悠然と問い返したサンダースに答えたのは、ラーグハルトではなく、リンドマンだった。

 固いその声に、だが、と、サンダースは飄々と返す。


『だが、鎮痛剤として一般的だろ。つまり、副作用はあるが、一般使用程度の少量なら何の問題も無いということだ』


『お前の、あの飲み方は少量じゃねえ……!』


 再び、ラーグハルトの声が強く揺れ始めた。


『こんなに、瓶に大量に持ち歩いてる時点で異常だ。しかも、あれは明らかに飲みなれてる仕草だ』


 チリン、チリン、と、瓶が弾かれて音を立てる。

 ラーグハルトの唸りは、徐々に徐々に、悲痛さを増す。


『確かに、医者の処方箋がなくてもそこらの薬局で買える一般薬だ。でも、お前、別に、どこも具合なんて悪くねぇんだろ、頭痛がするわけでもないのに、あんなに、たくさん、アスピリン飲むなんてのは、そんなのは……』


 震えの入った声は、そこで、少し止まって。

 それから、いよいよ縋るように、茫然と、呟いた。


『……サンダース、お前……その右手の痙攣、いつからなんだ……?』


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