PM22:01(2)
どこかから聞こえた声に、ビクリと飛び上がった。
跳ねた体は、けれど次には丸まったまま硬直していたけれど、視線だけは反射で音の出所を探して。
シーツに押し当てていた受話器が、いつの間にか頭のすぐ横で転がっているのに気付く。音は、そこから漏れていたらしい。
『おい!』
不穏な声が聞こえてきていた。この怒声の為に、グースは眠りから引き上げられたらしいと気付く。
「なにが……?」
おそらくグースに呼び掛けているわけではないのは、怒声が遠く聞こえることや、雰囲気で、なんとなくわかった。
電話の向こうで、何か、起きている。
そろそろと起き上がって、こわごわ、受話器を耳に当ててみた。
『サンダース!どういう事だか説明しろ!』
怒声は、どうやら、ラーグハルトのものらしかった。
『サンダース!』
『あまり大きな声を出すなよ。民家がないとはいえ、夜なんだぞ。部隊には休んでいる者もいるだろう』
『大声出させてるのは、テメェだろうが……!』
ラーグハルトの重いバリトンの鋭い声に、知らず知らず、グースは肩を強張らせ、受話器を少し遠ざけた。
けれど、正面から直接怒鳴られているであろうサンダース当人は、どこまでも平坦で、妙に落ち着いた声で答えている。
『落ち着けよ、ラーグ』
『落ち着けじゃねぇよ……!お前、今、自分が何をしようとしたか、わかってんのか!』
『少し薬を飲もうとしただけだろ』
『ふざけんじゃねぇ!』
どごっ、キン、と、固い物が倒されるような濁った破裂音と、硝子の割れるような澄んだ音が重なって、今度こそ、グースは肩を跳ね上げた。
『ラーグ、机なんぞ殴っても、自分が痛い目を見るだけだぞ。カップまで割れてしまった』
『フライム大佐、手から血が……!』
『構うか!下がってろ、リンドマン!』
相変わらず淡々としたサンダースの声と、狼狽えたような、けれど綺麗な発音の知らない声と。
それを一掃するような、怒り狂った肉食獣の咆哮に似た怒声だった。
リンドマンと呼ばれた声が、息を飲むのが受話器越しにも伝わって来る。
再び、ドン、と、おそらく机を殴るような音がして、カサリ、と紙の散らばるような微かな音。どうやら、会話を拾っている受話器は机に転がっているらしい。
『ラーグハルト、物に当たるな』
『なら、お前を直接殴れってか?できるわけねぇだろううが!』
ガッ、と、荒っぽい一歩分の足音の跡、胸倉を引っ掴むような衣擦れの乱暴な音に、リンドマンの慌てた制止の声が上がるが。
しかし、当事者らしきサンダースは平然としているようだった。
『まぁ殴れんだろうな。上官を殴れば流石にただでは済まんだろうし』
『そういう問題じゃねぇだろ……!』
ラーグハルトの声は、抑えのない咆哮から、低く押し殺した唸りに変わる。
『サンダース……、そういう問題じゃ、ない。ただじゃ済まないのは、お前の体の方だ……』
一歩、離れる足音と共に、チリン、と、何か瓶でも弾くような音がした。
『お前、今さっき、何錠、飲もうとした……?』
『ただのアスピリンだ。法に触れる薬でもない、どこにでもある頭痛薬だろ。……寝惚けただけだ』
ラーグハルトの声に答えたサンダースは、軽く笑った。
『それより、ラーグだけならともかく、リンドマンまでノックなしで急にドアを開けるなよ。上官にもプラーベートがあるぞ』
『誤魔化すな』
軽く話をするサンダースに、また一歩、ラーグハルトの足音が進んだ。
怒声ではなくなっていたが、その押えた唸り声が、かえって怒りの深さを伝えている。
『ただのアスピリン?ああ、ただのアスピリンだ。だがな、お前、アスピリンの副作用は知ってるよな?』
『胃に悪いんだったか?』
『……胃に負担が掛かる他に、出血が止まりにくくなると言われています。怪我のリスクが高い職業、軍隊勤めなどにとっては、致命的です』
悠然と問い返したサンダースに答えたのは、ラーグハルトではなく、リンドマンだった。
固いその声に、だが、と、サンダースは飄々と返す。
『だが、鎮痛剤として一般的だろ。つまり、副作用はあるが、一般使用程度の少量なら何の問題も無いということだ』
『お前の、あの飲み方は少量じゃねえ……!』
再び、ラーグハルトの声が強く揺れ始めた。
『こんなに、瓶に大量に持ち歩いてる時点で異常だ。しかも、あれは明らかに飲みなれてる仕草だ』
チリン、チリン、と、瓶が弾かれて音を立てる。
ラーグハルトの唸りは、徐々に徐々に、悲痛さを増す。
『確かに、医者の処方箋がなくてもそこらの薬局で買える一般薬だ。でも、お前、別に、どこも具合なんて悪くねぇんだろ、頭痛がするわけでもないのに、あんなに、たくさん、アスピリン飲むなんてのは、そんなのは……』
震えの入った声は、そこで、少し止まって。
それから、いよいよ縋るように、茫然と、呟いた。
『……サンダース、お前……その右手の痙攣、いつからなんだ……?』




