PM20:22
受話器の向こうには、1時間以上、変わらず無音だけが広がっていた。
「私は、なにをやっているんだ……」
ポツリと呟いて、サンダースは手にしていた書類と受話器を机に置いた。
裸電球に照らされた狭く薄暗い丸太小屋の中、光の補充の為に設置されたスタンドライトが、机の上で場違いに明るく存在を主張している。
場違いで強力な光源に照らされているのは、士官学校の竣工図ならびにキープラン、いわば見取り図だ。その他、採集、計算された様々な数値の並んだ書類や、作戦会議の議事録。物によっては重要機密の塊。
それらを元に固まった作戦を頭の中で反芻してみるけれど、そもそも作戦を練る側の人間であるサンダースは、今更確認するまでもなくその内容を理解し把握している。
何度反芻しようが突っかかりもなく、あるいは改良点が浮かぶでもない作戦に、不意に嫌気が差して目を閉じた。
ギシリと、寄り掛かったパイプ椅子の背が軋むが、その音はどこか遠い。
近く、耳に蘇るのは、少年の悲痛な呻きだ。
いたいと、訴えていた。
いたい、と、何度も、何度も、何度も。
悲痛な声で、噛み殺し損ねて喉の奥から漏れる悲鳴だった。
あるいは、ちがうと、訴えていた。
ちがう、と、幾度も、幾度も、幾度も。
出してくれと、潰れそうに掠れた声で落ちる悲鳴だった。
兄さん、父さん、と。
そう小さな声で、けれど確かに叫ぶ悲痛な声に、ただ胸が痛いだけならば、どんなに良かっただろう。
いつになれば終わるのだと問い掛けた時、悲鳴は枯れ果てたのだ。
魘されて悲痛なだけの声に混ざった、乾ききって、何かを擦り減らしてしまった響き。
ああ、どうしてと、サンダースは思う。
どうして、そこで、起こしてやらなかったのだ、と。
どうして、その先を。
『撃てば終わるから』
零れ落ちた、枯れ果てた悲鳴の結末を、聞いてしまったのだ、と。
目を開けて、部屋の中、場違いな卓上の灯りも届かない暗がりを見た。
それから、机につまれた書類に視線を移す。
重要機密を含む膨大な情報の集まった薄っぺらい紙の束の一番上、少年のパーソナルデータが置かれている。
生い立ちの欄に視線を向けて、無意識に首を左右に振った。
(……母親は自殺、父と兄は、何者かにより射殺された)
内戦中の事だ。毎日毎日、当たり前のように人が死んでいく、殆ど無政府状態の中で、まともな捜査なんて行われていない。
ただ実質、何者かと書かれていても、8割方その街に陣取っていた独裁軍による凶行だと、きっと当時も今も状況を見れば殆どの人間が判断するだろう。
それなのに。
「……なぜ、聞いてしまった」
暗がりに視線を向けたまま、机に突っ伏して、サンダースは呻いた。
(聞かなければ気付かなかった。聞かなければ、悟らずに、いてやれたのに)
手元の資料か、悲鳴か、どちらかが欠けてさえいれば。
あるいは、サンダースがもっとずっと、想像力のない男だったなら。
分岐点は無数にあった。ここに至る可能性は、おそらく無数の分岐の中でも確率的に低いはずだったのに。
なぜ、ものごとは、嫌な方向の低い低い確率ばかり、現実になるのだろう。
裁くつもりなど、ありはしない。
苦しんで苦しんで、散々苦しんだ末に、枯れ果てた声が、その結末にしか辿り着けなくて。
辿り着いてしまった結末の先で、辿り着いてしまったからこそ、なお苦しんでいる少年を、いったい、どうして、だれが、裁けるというのだ。
少なくとも、その結末しか用意できなかった大人達に、裁く資格はない。
少なくとも、その結末以外があったと叫ぶような子供達に、裁く資格はないのだ。
けれど、だからこそ。
裁くつもりなどないからこそ。
気付いては、ならなかったのに。
裁かれることよりも、ただ、気付かれることを恐れているだろう少年の為に、気付くべきでは、なかったのだ。
聞くべきではなかった。
もう少しはやく、悪夢が結末を迎える前に、起こしてやれば良かった。
それが出来なかったのは、サンダースの弱さ故だ。
(私は、なにをしているんだ……)
机に突っ伏したまま再び目を閉じた。
真っ暗闇の中、耳殻に反響する少年の慟哭に、右手は今も痙攣している。
今も、受話器越しにそれを聞いていた時も、サンダースの体は金縛りにでもあったように怖気づいて動けなかった。
(これが、私の、〝英雄〟の、背負っているものか)
頬に感じる机の感触はどこまでも無機質で硬い。そのくせ、体温を真似して白々しく生ぬるくなろうとする。
ああ、せいぜい、これから冷たくなる死体の温度だった。
ゾッと、サンダースは身を震わせた。
グースが、この国の人々が、見続けている悪夢の深さに。
サンダースが、〝英雄〟が覚ますと期待されている、悪夢の深さに。
ガタガタと、身が震えた。
期待され、託されている。
グースのように悪夢を見続けているこの国の、何千、何万という人々から。その途方もなく深い悪夢の終わりであることを、〝英雄〟であることを、託されているのだ。
改めて自覚した重圧に、サンダースは動けなかった。
あまりの重圧に、息すら出来ずに受話器を握り、茫然と、聞くべきではないことを、聞いてしまった。
「そうだ、私は、ほんとうは……」
その程度の、〝人間〟なのだ。
たった1人の少年の譫言に、悪夢に、怯んで怖気づいて、動けなくなる、そんな、〝人間〟だ。
完全無欠の〝英雄〟なんかじゃ、ないのだ。
けれど、それは許されないことなのだとも、分かっている。
サンダース・クレイガンは、〝英雄〟でなくてはならない。
そして〝英雄〟は、自らが〝英雄〟ではないなどとと、怖気てはならないのだ。
不敵に無敵に、恐れを知らず、卑屈を知らず、そういう〝英雄〟でなくてはならない。
(私は、〝英雄〟でなければ、ならない)
暗闇の中で震えながら押し出される言葉は、狂気にも近い自責。
しかし、それ故に、サンダースは狂気に落ちることもできないのだ。
なぜなら、完全な〝英雄〟は、狂いなどしないのだから。
その重責に押し潰されそうで息もできない。
けれど、それ故に、窒息して死ぬことは許されないのである。
なぜなら、息を止めている原因が、重責が、その背にあるから。
果たすべき責務を投げ出して死ぬ事は、許されないのだ。
そう、狂気に近い自責によって、正気に縛られている。
殺されそうな重責でもって、生かされ続けている。
なにもかも、ガタガタだ。
とっくに破綻寸前なのだ、すべて、すべて、すべて。
けれど。
なにもかも、ガタガタになるほどの重荷だからこそ。
いつまでも破綻することは、決して、決して、決して、ないのだ。
本当は〝英雄〟になどなりきれない、弱い弱い、ただの自分は、だからこそ〝英雄〟を自負し、演じ続けなければならない。
閉じた目の奥はガンガンと傷んで熱を持っていた。
少年のあまりに悲しい過去に。
この国に起きたあまりに悲しい出来事に。
この国では、慟哭は、いつだって、すぐそばにある。
けれど、涙は一滴も出ない。
零してはならないと心に刻み付けた。
零すだけ無駄なのだと、体は順応した。
あの日から、サンダースの涙腺は、壊れたままだ。
雁字搦めの指先1ミリですら動かせない世界で、彼は生きている。
目を閉じる時、瞼の裏にはいつだってあの日の光景が浮かんでいた。
気付けば、救いのない憂鬱な眠気が忍び寄って来ていた。
身動きのできない現実から、眠ったって逃げられるはずもないのに。力なく、サンダースは、首を左右に振った。




