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神には届かない  作者: 空野
神には届かない
32/93

PM20:22


 受話器の向こうには、1時間以上、変わらず無音だけが広がっていた。


「私は、なにをやっているんだ……」


 ポツリと呟いて、サンダースは手にしていた書類と受話器を机に置いた。

 裸電球に照らされた狭く薄暗い丸太小屋の中、光の補充の為に設置されたスタンドライトが、机の上で場違いに明るく存在を主張している。

 場違いで強力な光源に照らされているのは、士官学校の竣工図ならびにキープラン、いわば見取り図だ。その他、採集、計算された様々な数値の並んだ書類や、作戦会議の議事録。物によっては重要機密の塊。

 それらを元に固まった作戦を頭の中で反芻してみるけれど、そもそも作戦を練る側の人間であるサンダースは、今更確認するまでもなくその内容を理解し把握している。


 何度反芻しようが突っかかりもなく、あるいは改良点が浮かぶでもない作戦に、不意に嫌気が差して目を閉じた。


 ギシリと、寄り掛かったパイプ椅子の背が軋むが、その音はどこか遠い。

 近く、耳に蘇るのは、少年の悲痛な呻きだ。


 いたいと、訴えていた。


 いたい、と、何度も、何度も、何度も。

 悲痛な声で、噛み殺し損ねて喉の奥から漏れる悲鳴だった。


 あるいは、ちがうと、訴えていた。


 ちがう、と、幾度も、幾度も、幾度も。

 出してくれと、潰れそうに掠れた声で落ちる悲鳴だった。


 兄さん、父さん、と。

 そう小さな声で、けれど確かに叫ぶ悲痛な声に、ただ胸が痛いだけならば、どんなに良かっただろう。


 いつになれば終わるのだと問い掛けた時、悲鳴は枯れ果てたのだ。

 魘されて悲痛なだけの声に混ざった、乾ききって、何かを擦り減らしてしまった響き。

 ああ、どうしてと、サンダースは思う。

 どうして、そこで、起こしてやらなかったのだ、と。

 どうして、その先を。



『撃てば終わるから』



 零れ落ちた、枯れ果てた悲鳴の結末を、聞いてしまったのだ、と。



 目を開けて、部屋の中、場違いな卓上の灯りも届かない暗がりを見た。

 それから、机につまれた書類に視線を移す。

 重要機密を含む膨大な情報の集まった薄っぺらい紙の束の一番上、少年のパーソナルデータが置かれている。

 生い立ちの欄に視線を向けて、無意識に首を左右に振った。


(……母親は自殺、父と兄は、何者かにより射殺された)


 内戦中の事だ。毎日毎日、当たり前のように人が死んでいく、殆ど無政府状態の中で、まともな捜査なんて行われていない。

 ただ実質、何者かと書かれていても、8割方その街に陣取っていた独裁軍による凶行だと、きっと当時も今も状況を見れば殆どの人間が判断するだろう。

 それなのに。


「……なぜ、聞いてしまった」


 暗がりに視線を向けたまま、机に突っ伏して、サンダースは呻いた。


(聞かなければ気付かなかった。聞かなければ、悟らずに、いてやれたのに)


 手元の資料か、悲鳴か、どちらかが欠けてさえいれば。

 あるいは、サンダースがもっとずっと、想像力のない男だったなら。

 分岐点は無数にあった。ここに至る可能性は、おそらく無数の分岐の中でも確率的に低いはずだったのに。

 なぜ、ものごとは、嫌な方向の低い低い確率ばかり、現実になるのだろう。


 裁くつもりなど、ありはしない。


 苦しんで苦しんで、散々苦しんだ末に、枯れ果てた声が、その結末にしか辿り着けなくて。

 辿り着いてしまった結末の先で、辿り着いてしまったからこそ、なお苦しんでいる少年を、いったい、どうして、だれが、裁けるというのだ。


 少なくとも、その結末しか用意できなかった大人達に、裁く資格はない。

 少なくとも、その結末以外があったと叫ぶような子供達に、裁く資格はないのだ。


 けれど、だからこそ。

 裁くつもりなどないからこそ。

 気付いては、ならなかったのに。


 裁かれることよりも、ただ、気付かれることを恐れているだろう少年の為に、気付くべきでは、なかったのだ。


 聞くべきではなかった。

 もう少しはやく、悪夢が結末を迎える前に、起こしてやれば良かった。

 それが出来なかったのは、サンダースの弱さ故だ。


(私は、なにをしているんだ……)


 机に突っ伏したまま再び目を閉じた。

 真っ暗闇の中、耳殻に反響する少年の慟哭に、右手は今も痙攣している。

 今も、受話器越しにそれを聞いていた時も、サンダースの体は金縛りにでもあったように怖気づいて動けなかった。


(これが、私の、〝英雄〟の、背負っているものか)


 頬に感じる机の感触はどこまでも無機質で硬い。そのくせ、体温を真似して白々しく生ぬるくなろうとする。

 ああ、せいぜい、これから冷たくなる死体の温度だった。


 ゾッと、サンダースは身を震わせた。


 グースが、この国の人々が、見続けている悪夢の深さに。

 サンダースが、〝英雄〟が覚ますと期待されている、悪夢の深さに。


 ガタガタと、身が震えた。


 期待され、託されている。

 グースのように悪夢を見続けているこの国の、何千、何万という人々から。その途方もなく深い悪夢の終わりであることを、〝英雄〟であることを、託されているのだ。

 改めて自覚した重圧に、サンダースは動けなかった。

 あまりの重圧に、息すら出来ずに受話器を握り、茫然と、聞くべきではないことを、聞いてしまった。


「そうだ、私は、ほんとうは……」


 その程度の、〝人間〟なのだ。


 たった1人の少年の譫言に、悪夢に、怯んで怖気づいて、動けなくなる、そんな、〝人間〟だ。

 完全無欠の〝英雄〟なんかじゃ、ないのだ。


 けれど、それは許されないことなのだとも、分かっている。


 サンダース・クレイガンは、〝英雄〟でなくてはならない。

 そして〝英雄〟は、自らが〝英雄〟ではないなどとと、怖気てはならないのだ。

 不敵に無敵に、恐れを知らず、卑屈を知らず、そういう〝英雄〟でなくてはならない。


(私は、〝英雄〟でなければ、ならない)


 暗闇の中で震えながら押し出される言葉は、狂気にも近い自責。

 しかし、それ故に、サンダースは狂気に落ちることもできないのだ。


 なぜなら、完全な〝英雄〟は、狂いなどしないのだから。


 その重責に押し潰されそうで息もできない。

 けれど、それ故に、窒息して死ぬことは許されないのである。

 なぜなら、息を止めている原因が、重責が、その背にあるから。

 果たすべき責務を投げ出して死ぬ事は、許されないのだ。

 そう、狂気に近い自責によって、正気に縛られている。

 殺されそうな重責でもって、生かされ続けている。


 なにもかも、ガタガタだ。

 とっくに破綻寸前なのだ、すべて、すべて、すべて。

 けれど。

 なにもかも、ガタガタになるほどの重荷だからこそ。

 いつまでも破綻することは、決して、決して、決して、ないのだ。


 本当は〝英雄〟になどなりきれない、弱い弱い、ただの自分は、だからこそ〝英雄〟を自負し、演じ続けなければならない。


 閉じた目の奥はガンガンと傷んで熱を持っていた。

 少年のあまりに悲しい過去に。

 この国に起きたあまりに悲しい出来事に。

 この国では、慟哭は、いつだって、すぐそばにある。

 けれど、涙は一滴も出ない。

 零してはならないと心に刻み付けた。

 零すだけ無駄なのだと、体は順応した。


 あの日から、サンダースの涙腺は、壊れたままだ。


 雁字搦めの指先1ミリですら動かせない世界で、彼は生きている。


 目を閉じる時、瞼の裏にはいつだってあの日の光景が浮かんでいた。


 気付けば、救いのない憂鬱な眠気が忍び寄って来ていた。

 身動きのできない現実から、眠ったって逃げられるはずもないのに。力なく、サンダースは、首を左右に振った。


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