PM18:13(2)
『……ザ、グ……グースハウザー・ラインス!』
「はい!」
一瞬前まで眠っていた頭は、状況を殆ど把握できていなかったが、士官学校に馴染んだ体は勝手に飛び起きて受話器を掴んでいた。
「なにか、御用ですか?」
ピンと背筋を伸ばしたところで現状の記憶が追いつく。ハッと、飛び起きざまに叫んだ口を押えたが、幸いに寝起きの喉は掠れていて、大声は出ていなかった。
「す、すみません、失礼しました」
受話器の向こうの相手に謝りながら、辺りを見回す。夕焼けに包まれていた部屋には、すっかり、闇が落ちていた。
徐々に闇に慣れて来た目は、辛うじて室内の様子を捉える事ができるが、窓の前に据えられたドラグノフの厳粛な銃身や、部屋の四隅の特に暗い部分は、闇の中に融けている。
(俺は一体、どのくらい寝ていたんだ?)
先ほど電話口に自分を鋭く呼んだ声は、ラーグハルトではない。サンダースだ。
(会見は終わったのか)
もしや相当の時間、あの〝英雄〟の呼び掛けを無視して眠っていたのか。
一瞬のうちに、グースは青くなった。
けれど、その間に受話器からは穏やかな声が落ちてきている。
『いや、こちらこそ。いきなり大声で呼びつけてすまない』
優しく抑えた声に、強張った背中が少しほぐれる。
『眠っていたようだが?』
「す、すみません、こんな状況で……」
空いている手で頬を掻くと、いや、とサンダースは明るく笑って。
『いや、むしろ良いことだ。寝ていれば余計な物音は立てないから、隠れるには最適だろう」
「そう、でしょうか……?」
『ああ、かくれんぼなんて、大概、隠れ場所で寝た子供が見つからなくて騒ぎになるだろ。……ああ、まぁ、動き過ぎて物音立てるほどの寝相なら話は別だが』
冗談交じりに軽く話す声に、なんとなく、心地よい感覚で全身の力が抜けていった。
あらゆる怖いものが、遠ざけられていくような、気持ち。
(やっぱり、〝英雄〟だ)
思わず、目を閉じた。
ラーグハルトではだめなのだ。この、1人きりで、あの頃のように隠れている状況への恐怖を忘れるには。
強くて優しい〝英雄〟こそが、必要なのだ。
どっぷりと、無意識のうちに、無自覚のうちに、心は麻薬のような依存に沈んでいる。
再び目を開いて部屋を見る。
さっきよりも更に闇に馴染んだ視界は、ドラグノフの輪郭も朧ながらに完全に拾えるようになっていた。
受話器の向こうのサンダースがホッと息を吐く。
『うん、どうやら、大丈夫そうだな』
「はい?」
目を瞬いて、グースは聞き返した。
「大丈夫?」
『ああ、いや。極度の緊張状態だろうからな。すぐに助けてやることはできないが、もう少しだ、頑張れ』
その言葉に、浮かぶのは安堵。
もう少し、そうか、もう少しなのか、と。
「頑張ります」
精神的に余裕が出来て胸を撫で下ろすと、思い出した。
「ああ、そういえば、少将」
『ああ、なにかね?』
「あの、俺を呼んでいらっしゃいましたが、ご用件は……?」
つい今のような、穏やかで軽い声ではなく、強く鋭い声で呼びかけていた。だからこそ、眠っていたグースは起きたのである。
起きた瞬間の、心臓が捩じれたような嫌な気分を思い出して少しだけ視線を下げた。一瞬、吐き気を感じて、受話器を少し離し息を深く吐く。
それで嘔吐感は散って、グースは意識を無理やり電話に戻した。嫌な出来事の残滓は、見て見ぬふりを決め込むに限る。それしか、できない。
「食堂の様子について、何か御報告した方が良いでしょうか?」
呼びかけられる理由としてはそんなところか。そう予想して再び問えば、サンダースは何気ない調子でサラリと否定した。
『いや、特に用はないんだが、少し、魘されていたようだったのでね」
「え」
刹那、グースは凍り付いた。
「……うなされて、いましたか、俺は」
体中の血液が凍り付いた気がする。目覚めた時の不快感が、再び蘇る。
(あの頃の、夢)
魘される理由なんて決まっている。あの日から、グースが見る悪夢は、ただ1つだ。
「……もしかして、俺は、なにか譫言を言いましたか?」
受話器を持つ手が、微かに震える。声は、不自然に揺れていた。
魘される際に自分が細い悲鳴を上げると気付いたのは、寮の同室であるルイに指摘された時だった。
それ以来、グースは、誰かと夜を過ごす時、殆ど眠らない。
聞かれるわけにはいかない過去を、漏らす悲鳴から悟られぬように。
隠している過去、知られてはならないデキゴト。
その夢を見るのは、必ず闇の中で眠った時。だからグースは、誰かがいる時、明け方、日の光が地平に見える頃まで眠らない。
今までは、そうして、細心の注意を払ってきたはずだった。
しかし、今さっきは?
『いや、特に。苦しそうに唸ってはいたが、意味のある寝言は聞いていないな』
サンダースが返したのは、微塵の揺れもない、完璧な、何気ない様子の返答だった。
とても演技には見えない。他の誰が聞いても、本当に何も聞いてなんていなかっただろうと確信するような声だった。
けれど他ならない、他の誰でもない、グースだけは、違う。
(この人は、気付いた)
常に精神を蝕み続けている。ずっと怯えながら生き続けている。
だからこそ、そのデキゴトに関わる時、グースの感覚は、悪魔と契約したように、異常に、異様に、鋭くなる。
そのカンが、告げていた。
完璧過ぎて僅かの揺れも無い声の、けれど、本当に微かな、言葉を選ぶ刹那の呼吸の開きを、身じろぎの、間を。




