PM16:01(3)
鋭い警備員の叫びに、考えるより先に体が反応する。上着で隠したホルスターの拳銃に手をかけ、咄嗟に、議長の盾になる位置で振り向いた。
視線の先では、1人の男が、サンダースや議長のいる壇上によじ登って来たところだった。
(丸腰、身なりも良い)
報道陣ではないが、危険な人物にも見えない。まだカメラがいくつも回っている状況で、銃を抜くか、否か。
稲光ほどの一瞬で、そこまで考えた。
すると。
「クレイガン少将!〝英雄〟殿!」
叫んだ男の声に、今まさに銃を抜こうとしていた手を止める。
自分を〝英雄〟と呼ぶのなら、少なくとも独裁軍の残党ではない。独裁軍からすれば、自分は絶対的な支配者……タインズを撃ち落とした、叛逆者なのだ。
十分警戒して銃に手を掛けたまま、サンダースは男の出方を伺う。
焦げ茶色の髭を生やしている、ごく普通の男だ。壇上に上がるときに落とした帽子も、糊の効いた黒い背広も、高級ではないがキチンとしている。
ただ、その声と表情だけは、およそ、なにげない日常とは遠い。
「クレイガン少将!我らが〝英雄〟殿!」
鬼気迫る声と表情。地獄の底に落ちそうな人間が、必死で細い何かに縋り付いているような。ギリシャ悲劇の彫刻のような深い深い底なしの悲痛と苦痛を湛えた顔でいて、そのくせギラギラと獣のように眼光だけが尖っている。
いっそ狂気すら感じるその気迫に、飛び出し掛けていた警備員達ですら動きを止めた。
そんな顔を、この国の住民なら、みんな知っている。
それはこの国の殆どの人間にとって、内戦の頃の自分の顔だった。死にかけて、殺されかけて、なにもかも、なくす寸前の、人として死ぬ寸前の人間の顔だ。
煮え過ぎてドロドロに融けた鍋のような、濁ってごちゃまぜの記憶が脳裏を掠める。悪夢の日々の光景が、眼球の裏で弾けて。
誰もが凍り付いた中で、男は声を張り上げる。
「私は、人質にされている士官候補生の父です」
その言葉に、サンダースは、どろどろに濁った記憶から今に帰る。
「士官候補生の?」
小さく呟いた声を、果たして聴いたのか否か。男は唸るように、慟哭のように、咆哮のように、叫ぶ。
「終戦後の貧しい時に自分から士官学校に行った、できた息子です。たった1人の……たった1人、あの内戦で生き残った身内なのです!」
泣き声なのか、怒声なのか。その声に、打たれようにサンダースは動けなくなる。
「どうか、助けて下さい!約束して下さい!息子を、テロリストなどに殺させないと!」
空気が揺れた気がした。
その先の言葉を、聞きたくないと、思う。
「他ならない貴方が、約束してください!生きて助けると!」
辺りは静まり返っていた。
誰もがサンダースと男のやり取りを、息を殺して見守っていた。
銃を握ったまま上着の下に隠れている右手が、痙攣している。
(無理に決まっている)
時が止まったような錯覚を覚えて、ひそりと、胸の内で叫んだ。
(無理に決まっている、約束なんて、できるわけがない)
人質は200人以上。相手は、元正規軍人の集団。その中で顔も知らない特定の少年1人を、絶対に生かして救うなんて、到底気安く頷ける話ではない。
それに、もしも、ここで頷いてしまえば。特定の1人を、絶対に生かすと約束してしまえば。
それはイコールで、全ての人質を生かすと約束すること。
特定の誰かを特別視するなんて許されないから。ここで約束するならば、その見知らぬ少年を含めた人質の全てを、生かして救うと、言わねばならない。
そんな事、無理に決まっている。
もちろん、それを最善の最大目標とするのは確かだけれど。
古今東西の犯罪事件の顛末を見れば、ここまで大規模な人質立て籠もりに、なんの根拠もなく、皆助ける、なんて頷く無責任さは明らかだろう。現実的に考えて、そんな迂闊な約束は立場上も出来るわけがない。せいぜい、努力すると濁す程度が妥当なライン。
けれど、きっと約束せねばならなかった。
努力するなどと曖昧に濁す程度で許される場所では、なかった。
ドクドクと、勝手に上がる脈拍のために、眩暈を起こしかけながら。
息を殺す会場中の人間を見れば、答えは見えている。
ここにいる全員、サンダースが頷くことを、求めていた。
頷くこと以外、考えてはいない。
この国は、〝指導者〟や〝英雄〟が、西から昇ると言えば太陽も西から昇る。
彼等なら昇らせることができると、人々は盲信することで平穏を信じている。
王が神の代理人であったような時代、地球ではなく太陽が回っているのだと信じていた時代から、この国の根本は、変わっていないのだ。
だからこそ〝英雄〟ならば頷くに決まっていると、人々は信じきっている。
全員生還なんて、低い低い確率を、神の所業のような奇跡を、約束すると当然のように信じている。だって、既に一度、この〝英雄〟は奇跡を起こしている、この国を救ったのだから。
〝英雄〟にとっては、奇跡を起こすなんて容易いことなのだ。
男の狂気すれすれの顔が、そう言っていた。
男を止めようとせずに、サンダースの答えを待つ警備員達が、そう表していた。
当然のように期待を込めて沈黙する報道陣も、そのカメラの向こうの国民の誰もが、そう信じ込んでいる。
約束することは容易い。
約束しようと音にして、首を縦に動かすだけの動作なんて、数秒で完了する。
けれど、もしも、ここでそうやって約束して、その約束を果たせなかったら。
これだけ盲目的に狂信的に信じ込んで期待している依存の対象が、〝英雄〟が、約束を破ったら。
〝英雄〟が、奇跡なんて起こせない、ただの人間になってしまったら。
きっと、全てが壊れてしまう。
吐き気と、頭痛が、込み上げていた。
右手の痙攣を隠すのに必死で、少しでも気を抜けば、表情を歪めてしまう。
不可能な約束を拒めば、今この瞬間に、何かが壊れる。
けれど約束するならば、絶対にその約束は守らなければならない。不可能を可能にしなければならない。そうしなければ、結局、壊れるのだから。
どちらにしても、もう逃げ道などないのだと、サンダースは知っていた。
知っていたから、詰みだった。
雁字搦めになったまま、もう選択は決まりきっている。
ゆっくりと、気力を振り絞って、わらうのだ。
ぺったりと、ぺったりと、ぺったりと、表情を、張り付けるのだ。
「確かに、約束する、全員、生きて返す」
遠い、遠い、どこか別の世界で、誰かが言って。
その瞬間、遠い遠い世界で、安堵したように人々が笑う。
(いいや、違う、これが、私の〝現実〟だ)
瓦解させるわけにはいかない、壊すわけにはいかない〝祖国〟なのだ。
だから、不可能でも可能にしなければ。
〝英雄〟で、あり続ける選択を、演じ続けなければ。
吐き気を噛み殺して笑いながら、それでも、遠い世界に立ち続けるしかない。




