AM10:05
「起きてるか?」
聞きなれた声で、グースハウザー・ラインスは目を覚ました。
重い目蓋を抉じ開けると、一瞬、窓から注ぐ太陽の澄んだ光に、目が眩む。ここはベッドではないし、おまけに夜でもないんだな、とぼんやり気付く。
眩んだ目を庇うように再び閉じて、暫し、霧が掛かってぼやけた頭が、現実に追いつくを待つ。
そうして数秒、伏せた机がすっかり自分の体温で温くなっているのを自覚する程度には、経ってから。ようやく、視線を上げて斜め前を見ると、ガランとした座学室の中、悪友だけがニヤニヤと笑って立っていた。
茶髪の癖っ毛にブラウンの垂れ目。パッと見て、人の良さそうな顔立ちだが、ニターッと上げた口角こそ、本性。
「オ、キ、タ、カ?」
「……おきた、おこされた、誰かさんに」
呻くように答えて、やっと完全に開いた目蓋を擦っていると、悪友ルイ・バーグはケラケラと笑った。
「起こして貰って、いい御挨拶だこって。あぁ?狙撃の記録会終わって腑抜けたか、天才グースハウザー?」
喧嘩を売っているのかと思うセリフは通常運転。3年も友人付き合いをして、寮の相部屋歴も2年目に突入していれば、悪意はないのだ、こういう奴なんだと、もはや慣れてしまって何も感じない。
「別に、腑抜けたわけじゃないけど」
グースは肩をすくめた。ついでに辺りを見回せば、第三士官学校の西棟、208号座学室には、やはり、ルイの他に人影なし。さっきまでの講義どころか休憩も終わってしまい、皆、各々次の講義へ向かってしまったらしい。
同じ机と同じ椅子。神経質な画家が描いたように綺麗にリピテーションする風景の先を、そこだけずぼらに、チョークの跡が残った黒板が断絶している。
寝ている間に取り残されたのだと、妙に、その閑散とした景色に実感した。
「腑抜けたわけじゃないけど。記録会で、新記録出したからさ。昨日の夜、奨励金とかの受け取り関連で書類書かないとならなくて……」
流石に熟睡しすぎたな、と。教官の持つ名簿に良からぬチェックが増えていないか、少し憂鬱になりながら背中を伸ばしていると、ルイは再びケラケラと笑う。
「おーおー、相変わらず頑張るねぇ。奨励金っていっても、小遣い程度だろうに」
「それは、そうだけど」
セウェス議会国内、各地区士官学校の代表士官候補生による狙撃記録会。そこで新記録を出した報酬が、はたして睡眠時間を削る程の額面かと聞かれれば、そうでもないのは、ここ2年連続で受け取っているグースが一番理解している。
「奨励金出るなんて本当に好成績出した時だけなんだから、そこに喰い込まないようにわざと銃弾、外せばいいだろ、適当なとこでさ」
ルイの指摘するような事は、いつだって考えている。けれど結局、いつだって考えるだけ。
「俺より下手な奴しかいないのに、わざと負けるのは、絶対にイヤダ」
嫌味でもなんでもなく、ただ素直に、グースはポツリとそう言った。
「お前、たまーに悪気なく、俺より喧嘩売ってんのか、って発言するよな。天才の天然のイヤミっつーか」
それが普段は誰とも当たり障りなく生きている淡泊な親友の、唯一の拘りなのだと知っているルイは、苦笑いして近くの机に座った。
「まぁ、お前のそーゆー、一芸にだけくっそプライド高いところ、良いトコだとも思うけど」
「なにそれ、褒めてんの?気色悪い、ルイに褒められるとか」
思わず呟くと、おい、と、ルイは頬を膨らませた。
「お前、さすがにひでぇわ、それは。俺の心からの賞賛に」
「ルイが賞賛するって、明日は槍か爆弾でも降るのかよ」
大袈裟に嫌そうな顔をしてみせるグースに、ルイは今度は笑って片手をヒラヒラと振って見せた。
「そう釣れないこと言うなよ。爆弾降り注ぐ内戦、死にっぱぐれて、こんなトコにブチ込まれた同士じゃねぇか」
その言葉と同時に、開いていた窓からトンビの鳴き声がした。反射で見上げた秋の空は青く青く高く澄んでいて、脳裏を過った赤黒い記憶と同じ世界の空には、思えない。
この国は、4年前まで、泥沼の内戦まっただ中だった。
1961年に内戦が終結してから、既に4年。セウェス議会国は、目覚ましい復興を遂げている。もう空襲に怯える必要はないし、建物に残っていた弾痕は修復され、かつて恐怖の象徴だった独裁者の像も撤去された。
この国で目に映る全ては、もはや、あの頃と同じではない。
その栄光の景色の下、本当は、でこぼこに穿たれたままのなにかを、塗り潰して。
幸福な絵の、その奥の奥。痛みきって、悼み果てた、でこぼこに穿たれたキャンバスは、もうとっくに絵具の下。確かにそこにあるのに、誰も、もう、直せない。今になって修理の為に表面を剥がすのは、あまりに代償が大きすぎる。
悪気があったわけでも、放置しようとしたわけでもなく、ただ必死に必死に、どうにか綺麗に絵を描こうと塗り重ねて塗り重ねて。
そのうちに、気付けば上っ面だけ修復できてしまっただけのことだ。
「士官候補生なんて、嫌な身分だぜ」
皮肉気に笑う悪友の声を聞きながら。
窓から目を戻した講義室。この講義室に満杯に仕官候補達を詰めた時、その6割以上には、親が無い。内戦により、親、親戚、兄弟を失った子供達の数は膨大で、その子供達を受け入れる孤児院も里親も、終戦直後、弱っていたこの国には決定的に不足していた。
結果、子供が溢れて経営の立ち行かない孤児院の多くは、健康な男子の殆どを軍隊へ押し出すという選択をしたのだった。
時は東西冷戦の最中。そんな時代に、激しい戦いで軍人の人口が激減していたこの国だ。新政府としても国軍兵力の立て直しと戦災孤児の処遇問題を解決するこの流れを、あえて止めはしなかった。
そうして、子供達は能力により篩に掛けられ、将来的に将校と成り得るだけの者は4年間の士官学校、それ以外は、1年から2年の軍属勤務兼訓練期間を経て平卒へと進路を決定されて。
グースとルイは、篩の上に残った孤児だった。
「……ほんと、嫌な場所にブチ込まれた」
グースは呟いて、ほんの少し、視線を床に落とした。
ただの兵卒として問答無用に量産型兵士に仕立て上げられた者達に比べれば、幸福な事だったとは思う。少なくとも士官学校を出れば少尉の地位が約束され、努力次第では上り詰めて行ける資格が手に入るのだから。
けれど、それは果てしなく狭い未来で、そして、自分で選んだ未来ではない。
相対的には幸福でも、絶対的には、果たして一体、与えられた未来にどれだけ幸せな部分があるだろう。
少なくとも士官学校にいる彼等は、篩の上に残って栄達のチャンスを掴んだ少年達だった。そのくらい、優秀だったのだ。だからこそ、本来なら未来は広かったはずで。医者になっていたかもしれない、料理人になっていたかもしれない、俳優に、教師に、企業家に……。
無数にあったはずの選択肢が、内戦によって奪われたことを、ここにいる少年達は痛烈に感じ続けている。
殺すのも殺されるのも、もう、戦争はたくさんだ。
それでも、彼等は軍隊にいる、いるしかない。
流れて来たトンビの高い鳴き声に、不意に空しさを感じて、グースは机につっぷした。
「俺、もう一回、寝るから」
受けるはずの講義は、既に始まってしまっている時間。出席ノルマには余裕がある。今から遅刻で教室に行って教官から怒鳴られるくらいなら、何食わぬ顔でサボって欠席一回、それに順じた成績を引かれる方が良い。
ところが、脱力したグースが目を閉じようとすると、おい、とルイが肩を揺らす。
「待て待て、待てよ、寝るくらいなら、街へ行こうぜ!」
「はぁ?」
とても眠れる調子ではない揺れに、仕方なくグースは起き上った。
「街?行ってどうするんだよ、今、ガムもハンバーガーも気分じゃない」
「映画!ハリウッドの超大作、一昨日から公開してるの、見たいんだよ!」
けだるく言ったグースの言葉に反応せず、ルイは楽しげに両手を広げた。
「こんなに天気も良いんだぜ?どうせサボるのに、室内で昼寝なんて勿体ないだろ?」
その手が指し示す窓の外、再び、トンビの鳴き声の聞こえる方を見つめる。やはり、どこまでも透き通るような、青い青い色をした空だ。
吹き抜ける秋の風がサワサワと銀杏の葉を揺らす音は、不思議なくらい、心地良い。浮足立つ、という気持ちが近いかもしれない。確かに、なんとなく、外に行きたくなるような天気だった。
(いい天気だ……)
穏やかで静かなのに、眠気がスゥッと醒めるような感覚に、目を瞬いた。行ってもいいかな、という気持ちが、落ちて来る秋の陽光にとろけて、胸に入り込んできたらしい。
映画か、と、少しトーンを上げて呟いて。
けれどすぐに、大事な事に気付いた。
「でも、外出許可、取ってないし、取れるわけないと思うんだけど」
士官学校は、高いコンクリートの壁に囲まれている。有事には軍事拠点として利用する事を想定して作られた為で、その外見は学校というより要塞、あるいは刑務所に近い。出入り口は東西南北に門が1つずつで、そこには常に守衛がいた。士官候補生達は、教官からの外出許可状がない限り、その門を潜って外に出る事はできない。
そして、今は本来なら講義があるはずの時間帯。映画を見に行くから許可状をくれと言って、おいそれとくれる教官がいるはずもなかった。
(……なんだよ、やっぱり、昼寝しかないじゃん)
再び、机に懐こうとするグースを、しかし、ルイは妙に自信ありげな表情で見下ろして、フフン、と鼻で笑って見せた。
「許可状なんていらねぇさ」
そう言って、少し屈んで顔を寄せて来る。
「抜け道が、あるんだ」
「え?」
耳元に声を小さくして囁かれた言葉に、思わずガバリと振り向いた。
「え、それ、本当に?」
「マジだぜ、事前に確認してある」
頷いたルイは得意げに腕を組んで、ほら、と、続けた。
「マーク。マーク・スタローン、あのデブっちょ」
「マーク?」
その名前の脳内検索に掛かった時間は、瞬き2回程度。
「食い意地のスタローン?」
同期の士官候補生だ。いわゆる、動けるデブっちょ、という言葉がピッタリの、小太り気味な仕官候補で、その体型の通り食べることが大好きだった。寮の厨房からたびたび何か食べ物を失敬しては、教官に大目玉を食らう事で、ちょっと有名人でもある。
「そう、それ、そのマーク・スタローン、我等がマーク!」
ルイはコクリと頷いて、再び屈んで顔を寄せ、声を落とした。他の部屋では講義の始まっている時間帯、当然に回りには誰もいないのだけれど、自然、ルイの仕草に釣られたグースも、顔を寄せて動作がコソコソする。
「なに、マークが、どう関係あるのさ?」
「抜け道、マークが見つけたんだよ。ほら、アイツ、先月も厨房のハム盗んで教官に怒鳴り散らされてただろ?その罰としてさ、西棟裏の薮の、草むしりさせられたらしくて」
その時に、偶然、抜け道を見つけたのだと言う。
「あの薮のとこさ、壁が内戦の時に壊れて、元々、小さい穴が空いてたらしいんだけど。そこを補修してた鉄条網も、綻んでたんだと。うまく潜れば、十分に、出られるって」
「へぇええ」
思わず目を丸くする。大発見だなと思って、けれど、また大事な事に気付いて目を眇めた。
「え、でも、それ、なんでルイが知ってるのさ?」
抜け道があるなんて情報は、士官候補生達にとって驚くほど需要のある情報だ。だからこそ、そんな噂が立てば、あっと言う間に士官学校中に広がって、やがては教官達の耳にも届いてしまう。そして教官達の耳に届けば、貴重な抜け道は迅速に塞がれてしまうに違いないのだ。
だから、もし抜け道を発見したとしても、マークはそれを自分だけの特権として秘匿するだろう。あるいは、よほど親しい友達になら教えるかもしれないけれど、ルイがマークにとってそれくらい親しい友達に該当するとは思えなかった。
怪訝な顔のグースに、ルイはニヤリと口角を吊り上げる。
「そりゃぁ、俺の人望よ……と、言いたいとこだけど」
一瞬だけ、尊大で真面目くさった顔をしたルイは、けれどすぐにニヤリとしたいつもの表情に戻る。
「ギャスパーだよ。ギャスパー・ラッセル」
「ギャスパー?」
その名前も、すぐに思い当たった。やはり、同期の士官候補生の中では有名な人物だったから。
「ブラッディ・ギャスパー?」
ギャスパー・ラッセル、渾名は、ブラッディ・ギャスパー。180cmを超す長身に、筋肉質な体躯、そして、逆立てた金髪と吊り上った目から漏れだす威圧感。やはり孤児から士官候補生になった経歴の持ち主だが、彼の場合は、心から従軍を受け入れている。
『人が合法的に殴れるなら願ったり叶ったりだろ?』
そう公言して憚らない暴力的な思考の持ち主であり、しかも内乱以前は、国内のジュニア大会で敵なしのキックボクサーだった実力者だから手に負えない。
近接戦闘訓練の際に病院送り寸前までボコボコにされた同期は数えきれなかった。
「マークのヤツ、この前の格闘実技でギャスパーとペアになってさ。俺に代わってくれって泣き付いて来たわけ」
ケラケラと笑うルイは、ギャスパーに比べれば随分見た目は華奢だけれど、唯一、そのギャスパーと無傷で格闘できる人物だった。
戦闘スタイルの方向性は違うけれど、両者の戦闘センスは同期内で唯一拮抗している。だからギャスパーと訓練でペアになった同期が、交代してくれとルイに泣き付くのは珍しいことでもなくて、その際に見返りとして何らかの賄賂を贈るのも恒例行事だった。
「納得」
マークからの賄賂は抜け道の情報だったのかと、グースは理解した。
「んじゃ、納得したところで、気持ちよく出かけようぜ?」
ルイはソワソワと廊下を指す。
「映画と言えば、ポップコーンとコーラだよな!」
嬉々として歩き出すルイの気持ちは既に街の中にあるようで。
「俺はジンジャーエールのが好きかなぁ……」
グースも笑って、立ち上がった。
腰を上げてしまえば、もう眠気は世界の反対側。さっきまでは興味の欠片もなかったガムやバーガーだって、今は魅力的。
知らず浮足立って教室を出る寸前。
ふっと、一瞬だけ振り向いた窓の外では、相変わらず透けるように青い空を、トンビが1匹、悠々と弧を描いて飛んでいた。




