七
視界の端に、着飾った娘たちの青ざめた顔が見えた。
那津の身代わりをかって出なければ、こんな思いはしなくてすんだだろうか。
いや、それは違う、と美和は心の中で否定した。
結果次第では、自分は一生後悔していた。
美和に与えられたものは、他人に比べれば少ないかもしれない。それでも、日々努力し、懸命に暮らしてきたその生き方に、恥はない。
そして、美和に与えられた数少ないものの一つが、親友の那津なのだ。彼女の存在は村との繋がりであり、彼女は何でも話せる大切な相手だ。
親友を救える好機に、手を差し伸べなくて何が親友。
「おい、何を考えておる」
一瞬、目を閉じた美和を、領主が強く押した。衝撃に、少女は板張りの床に倒れ込む。
「埒が明かん。住処はどこだ」
領主の冷えた声に、美和ははっとなった。
小屋には子供たちがいる。大切に、大切に守ってきた、美和の家族だ。
それに、竜神。風変わりで優しいあの男を、受け入れて面倒を見てやれるのは自分くらいだ。
「……いい加減に、しなさい……」
酒臭い息を吐く領主が床に膝をつき、美和の顔をわざとらしく覗き込んだ。
「ん? 何か言うたか」
「いい加減にしなさいって言ってるんです、この外道!」
美和はかすれた声を振り絞り、立ち上がった。そして、自分を見上げる領主を、真正面から睨みつける。
「何が気に入らないのか知りませんけど、弱い立場の者をいたぶって楽しむなんて、悪趣味です。統率者なんて、統べる相手がいなければただの人だって、竜神様も言ってたんですから!」
言い放ち、乾いた涙の痕を乱暴に拭った。よろけた拍子に床に落ちた真珠が足に当たり、ころころと転がっていく。綺麗に結われていた髪も、整えられていた着物も、見る影もない。
領主が低く唸りながら、立ち上がった。
しんとした空間に、虫の声がやけに響く。
狂気の宿る領主の目に、怖気が走った。しかし、謝ろうとは思わない。体を震わせながらもまっすぐに、美和は領主の視線を受け止めた。
大事な家族が。『ただいま』『おかえり』と言い合える家族がいるのだ。ここで負けるわけには行かない。
領主がゆらりと立ち上がった。
不気味なほど静かに、手が伸びてくる。誰かが息をのむ音がした。
その時だった。
「美和が宴を拒んでいた理由がわかったぞ。なるほど、実に不快だな」
突然、廊下から声が聞こえた。
「何者だ」
振り返った領主が、声の主を睨みつける。動きは緩慢だが、その視線は鋭い。
それにはかまわず、足音も荒く室内に入ってきた竜神は、一直線に美和の傍に立った。そして、上から下まで美和を眺めると、
「酒宴とはいいものと言っていた同胞の気がしれんな」
不機嫌そうに言い、美和の背にそっと手を添えた。
彼の触ったところから、穏やかな力が流れ込んでくるようだ。美和の苦しかった呼吸が不思議と楽になる。同時に、自分の格好を思い出した。
「竜神様……なぜ、ここに」
美和は乱れた髪を撫でつけ、襟を整えると、竜神を見上げた。
こんな非日常の場にいても、竜神は竜神だった。堂々とした体躯の美丈夫。簡素な衣服を身に付けた彼の身から香るのは、先日、共に行った森の中の匂い。
「希旺に連れてきてもらった。人の小さな屋敷など、いちいち探すのは面倒だからな」
竜神はふん、と鼻を鳴らす。
そのいつも通りの様子に、美和の目にさっきとは別の涙がにじんだ。
「わしの問いに答えろ! 貴様、何者だ!」
足を踏み鳴らした領主が、竜神に手を伸ばし、強引に振り向かせようとした。しかし、その手が竜神に触れようとした途端、ばちっと激しい音を立てて光が走った。
「我に触るでない、下種が」
背の高い竜神が、領主を見下ろす。だたそれだけなのに、領主は後ずさった。
さっきまでの領主も恐ろしかったが、竜神の纏う雰囲気に比べれば、子供じみていたような気さえする。
竜神は床に転がっている真珠にわずかに目を見開いた後、すぐに事情を察したのか、領主を睨みつけた。
「美和を泣かせたな」
低い声が空気を震わせる。篝火が一斉に同方向へ激しく揺れた。
風もないのに黒い長髪が揺れている。瞳は縦に細く、白目の部分がない。美和を抱き寄せるその手の爪は長く、蒼い色をしていた。黒い髪からのぞく耳は鋭く尖ち、明らかに人ではない何者かがそこにいた。
「な……あ、あなたは、いったい」
震えながらも声を出せたのは、領主のみ。
集められた娘たちも、屋敷の者たちも、度肝を抜かれて床にへばりついている。
竜神は吠えた。
「貴様、許さぬぞ。我が美和を苦しめたこと、その身で報いてもらう!」
長い指が領主を指差す。領主はひっと尻餅をついた。
その時。
「待って!」
不意に、子供のがした。
腰を抜かした領主の前に、滑り込む小さな人影がある。
「ごめんなさい、父上を許してくださいっ!」
子供は両手を床につけ、竜神をふり仰いだ。
「ゆ、雄大!」
我に返った領主が叫び、子供に駆け寄ると、その小さな体を折れんばかりに抱きしめた。
「雄大、雄大、本物か? 夢ではないのか?」
「父上、落ち着いてください。私はちゃんと、ここにいます」
きりりと引き締まった顔の少年は、生真面目な顔で領主の手を取った。領主は「おお……」と呟いたきり、重なった手を見て固まってしまった。その頬を、幾筋もの涙が流れる。
竜神と美和は顔を見合わせた。
「その子は、貴様の子供なのか?」
雄大はきまり悪げに一つ頷き、その父親は何度も何度も頷いた。
「一年と少し前の話だ。屋敷の者がわしの地位簒奪を企て、この子を人買いに売り渡した。そこまでは調べがついたが、それ以降、ようとして行方知れずになっておったのだ」
領主は、何度も子供の頭と背中を撫でる。雄大はそれを嫌がるように体をそらせた。照れくさい気持ちがあるのだろう。
「今まで、どこにおったのだ。なぜ帰ってこなかった。わしがどれほど心配したか」
酔いから冷めた領主の深刻な声に、雄大はためらいがちに言葉を紡いだ。
「森の中で人買いから逃げて、美和ねえちゃんのところで世話になっておりました。父上の傍には六坊様がいたから、帰っても危険だと思い、帰れずにいました。一度手紙を出したのですが、約束の場所に来たのは六坊様の仲間で……ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
口調がいつものやんちゃ坊主ではなく、武家の若君のそれになっている。確かにしっかりと床を踏みしめている雄大には、この屋敷が似合う。
領主は何度も頷きながら、
「六坊か。あやつなら、わしがこらしめてやったぞ。もう大丈夫。ここは安全だ」
「まことですか? まことに、私は戻ってきてもよろしいのですか?」
「もちろんだとも」
一年と少しぶりに再会した親子は、顔を見合わせると、力強く抱きしめあった。ほう、と誰かが息をつく。
「我らも、帰ってよさそうだな」
竜神がやれやれとため息をついて、美和を見下ろした。いつの間にか、いつもの見慣れた竜神の姿に戻っている。
肩を抱き寄せられ、竜神の懐の温かさにうっとりしていた美和は、慌てて背筋を伸ばす。
「竜神様、先ほどの姿は……」
「うむ、人の皮がもう少しで破れそうだった。いかんな、この体で神通力など使っては。危うく屋敷を潰すところであった」
竜神は何でもないことのようにそう言う。ふわふわしていた心地からあっという間に現実に引き戻された美和は、呆然と呟いた。
「もしかして竜神様って本当に……」
「お二方」
美和の声を遮ったのは、領主だった。
一方的な暴力を、すぐにはなかったことにできない。恐る恐る振り返ると、真剣な顔の領主がそこにいた。
領主は片腕を雄大の背中に回し、深々と頭を下げた。
「雄大に聞いた。今まで、あなたが事情も聴かずに面倒をみてくれていたのだと。先ほどまでの意味のない暴力、平に、平にご容赦願いたい。わしは命の恩人になんということをしてしまったのか」
「そんな……大げさです」
美和は小さな声で言う。その手は、ぎゅっと竜神の着物の袖を握りしめていた。
領主は顔を歪めて、首を振った。
「大げさではない。この子がいなくなったとき、わしの心は共に死んだと思った。この一年、わしは本当にろくでもない男に成り下がっていた。だから」
「父上、私は美和ねえちゃんの家にいる間に、物の売り買いの基礎や畑仕事の重要性を学びましたぞ。父上はその間、何をなされていたのですか」
延々と続く父の自虐に、情けない、と雄大が割って入る。
領主の眉がハの字に下がった。
「だからこうして謝っておるだろうが!」
思いがけず、強い口調の領主に、美和はびくりと身をすくめた。気づいた竜神が、そっとその背を撫でる。途端に、心は平静を取り戻す。
不思議な感覚だった。
美和が竜神を見上げると、口角を上げた男は、
「我らはここらでお暇する。親子の再会とあっては、他のことなど目に入らぬであろう」
それを聞き、領主は手を叩いて屋敷の者を呼んだ。
「娘御たちを丁重にもてなした後、帰ってもらうように。今夜はどれだけ飲み食いしてもいい。宴じゃ」
娘たちがわっと歓声を上げた。従者が問う。
「新しい嫁御はいかがいたします」
「いらぬ。雄大が戻ってきたからには」
微笑む領主の目には、理性の光が宿っていた。
雄大はちらりと美和を見た。真面目な顔を保とうとしているが、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「元気でね」
声に出さずに呟くと、大きな声で返された。
「またすぐ会いに行くから。砂仁と翔宇にも、よろしく言っておいて」
美和は笑って「うん」と頷く。
領主がふと、顔を上げた。
「そういえば、あなたはいったい……」
今更ながらの質問だが、竜神はすでに美和を伴って背を向けていた。