遥か世界のラタトスク 二話中編
やがて、夜の帳が下り、太陽が役目を終えて水平線の彼方へと姿を消す頃、海上都市という世界から切り離されたような島の頭上に広がる空には、想像を絶する旅路を歩んできた光によって、数多の星々の姿が映し出される。とはいえ、海のど真ん中という立地に対して、星空は目映いばかりではないことが、観光に訪れた者をがっかりさせる一つではあるようだが。
宇宙は広い。例えば、乙女座の星、スピカ。春の夜空に輝くこの一等星と地球との距離は、約二百五十光年。つまり、物理世界の制限速度である秒速約三十万キロメートル、一秒間に地球を七周余りという速度で動く光子であっても、片道で二百五十年も掛かる距離にある。仮に、宇宙船が造られたとしても、行くだけで数十万年は要するだろう。人類史よりも長い時だ。
従って、地球上にいる人類の目に届くスピカの光は、二百五十年前に星から発された光の瞬きに過ぎない。現在の姿を二百五十光年越しに確認することは、今の技術では不可能であり、もし、その姿を目視することが叶えば、それは未来予知とさえ呼べるだろう。
世界の広さは、ロマンだ。人類はずっと空を見上げ、その向こうに無限の可能性を見てきた。ただ首を傾げるということが、古くから、そして、未来へ繋がる、根元的な原動力なのである。
「おい、どうした学生? 日も沈んだ夜中に黄昏れて。考え事か?」
「『明けない夜はない』とか『止まない雨はない』とかって、綺麗事に聞こえるだけのただの確証バイアスだなと思いまして」
「いや、そりゃそうかも知れないけどさ。お前、感性たまにぶっ飛ぶの怖えよ」
夜空を車窓越しに眺めていれば、不意に運転席から聞こえた女の声で、意識は引き戻された。視線をフロントガラスへと戻し、ペットボトルに入った甘ったるい紅茶を喉へと流し込む。
馬鹿でかいこの人工島には、ハイウェイすら設けられており、二区から四区へと、島を半周するように続いている。夜間は運送トラックもほとんど通らず、貸し切りのような夜景が続く。
「つうか、少しは美人とのドライブを楽しんだらどうだ」
「楽しめば、どうせまた面倒を押し付けられて、楽しくないと言えば、あとで殴られる。どうすればいいのやら」
「そりゃあ同情するね。で、どっちだ?」
鬼畜か。
「それはそうと、どこに向かっているんですか?」
「露骨に話を逸らしやがったから、あとで一発ぶん殴らせろ」
悪鬼羅刹の如く。
「向かってるのは三区だ。目的地は某宗教団体の支部。そこの支部長が反魔術思想でな。その調査に向かう」
三区は、言うなれば、繁華街。商業が盛んな区画である。港のある二区と隣接し、商業施設に限らず、企業オフィスや娯楽施設まで建ち並ぶ、この島で最も観光客が押し寄せる区画。千万島での観光とは、一般的には、この三区、及び、レジャー施設が揃う四区を訪れることを指している。
従って、島の中では最も民間企業が集中する区画で、色街や、やや治安の悪い一画もある。千万島の土地は国の所有だが、軒を連ねるビルの所有者や、その貸借関係までは管理されていないので、どうしたって、がらの悪い者が溜まる場所は現れるのだ。
とはいえ、当然ながら、そうした店舗も風営法には――表向きは――則っているし、この国で最も厳戒とされる都市の中での話だ。押し並べて監視は厳しく、また、穿って述べるなら、わざと適度に見過ごすことで、風紀を守っている側面もある。それが都市運営というものである。
以上をまとめると、実のところ、研究施設が集う一区を押さえて、この島で最も治安維持が難しい区画と述べられるだろう。
「宗教団体とは、調査室は公安の真似事もしていたんですか」
「真似事言うな。つうか、お前も分室に入るんだし、そのくらいの知識は頭に入れておけ。これからは気兼ねなく使ってくからな」
「今までに気兼ねがあったんですか」
隣でハンドルを握っている女は、桐澤礼華。特殊事象調査室に所属する警察官。高い身長と長い手足のモデル体型に加え、誰もが羨むほどの美人。元ヤンだかレディースだかで暴力的な一面もあるが、基本となる性格は姉御肌(自称)。だが、こちらとしての最重要事項は、“再生”を知っている、という点である。
“再生”とは、久々原源重によって秘匿されている機密情報。まあ、肝心の彼が。
『いいんじゃない? 知られたら知られたで、その時はその時だ』
なんてことを口にする調子なのは記憶に新しいくらいで、第三者的には、大したことはないと思われるかも知れないが、少なくとも、部外者に機密文書を閲覧されたり、ハッキングや盗聴といった不法行為なりで情報漏洩が生じることは、ほぼあり得ない、と述べられるくらいには徹底している。
しかし、桐澤礼華は、その『ほぼあり得ない』を、あろうことか真正面から打ち破り、“再生”を突き止めた唯一の人物。その事実だけで、久々原源重を知る者からすれば、彼女が如何に規格外かを知ることが出来るだろう。
「何だよ、今更遠慮しろってか? お前がいなかったら解決しなかった調査室の事案、いくつあったと思ってんだ」
「だから、これまでも気兼ねなく使い潰されてきたんじゃないですか。まあ、潰れても死なないのでいいんですが」
「そうそう、そのくらいの軽口を叩いとけよ、お前は」
特殊事象調査室。今から七年ほど前に、警視庁に新設された部署。その役割は、千万島全域における、特殊事象によって脅かされる治安の維持と捜査である。ここでの『特殊事象』とは、人智を超えた理論の形式的な表現であり、それには魔術も含まれる。よって、より簡潔にすると、魔術を用いた犯罪をはじめとする、超常現象専門の捜査官が、通称『調査室』と呼ばれる彼らなのだ。
とはいえ、調査室は基本的に、ほとんどの事件に携わる。なぜなら、哀しいかな、常識が通用しないのが超常現象だからだ。
例えば、傷害事件が起きたとしよう。では、付近に凶器がなかった場合、それは犯人が処分したのか、それとも、魔術による犯行なのだろうか。その判別は容易にはつけられないし、判断の誤りは、冤罪に繋がる可能性もある。人智を超えた理論は、既知の法則を超越し、定石なんて通用しない。よって、初動捜査で解決する明快な事件でない限り、彼らはその目を向ける必要があるのだ。
そんな調査室職員は、必然、優秀でなければならない。単純に職務の量が多い、ということもあれば、超常と相対することを考慮して、求められる能力水準が極めて高い、というのもある。全国三十万人超の警察官の中から、僅か三百名。千人に一人の選ばれし者達が、この島の平和を守っているのだ。
よって、彼らは常に、人手不足に悩まされてきた。比較的に平和な島国の、更に平和な人工島であるが、事件と無縁とはいかず、寧ろ、本土以上に治安維持へと注力する都合から、彼らへの負担は一層大きい。警察業務で最も難しいのは、犯罪を未然に防ぐことだと彼女は言う。
そんなこんなで、“再生”という力に目を付けられたことで、俺は、何度か調査室の手伝いを非公式的にさせられてきた。魔素理論に造詣があり、しかも、どんなに危険な現場にも投入出来る。こんなに使い勝手のいい駒はいないらしい。
「そうだ、公安と言えばな、この前捕まえた奴、結局は普通の誘拐で立件になった」
「火鞍乾一……背後関係は引き出せなかったんですか? 明らかに組織的犯行でしたが」
「自供が取れなかったのが大きいな。全部自分の仕業だと丸まっちまったよ。ま、逆にそれなりの組織が関与してるって証左でもあるんだが」
先日の事件。魔術師である火鞍乾一を主犯とした、魔素理論研究所の所員二名が被害に遭った連続誘拐事件だ。また、俺と飛鳥馬も巻き込まれ、その過程で火鞍を捕らえるに至った、というあらましの事件である。
しかし、主犯格の逮捕には至ったものの、彼らが誰に雇われていたのかは、結局、不明なままであった。しかも、魔術師を蜥蜴の尻尾のように扱える相手。極めて大きな『力』を持っている彼らを従わせるには、それ以上の『力』が必要になる。実力、財力、権力、どれであれ、厄介には違いない。
「火鞍の経歴からは何か判明したりは?」
「あいつは元はそこら……というか本土で活動してる半グレ集団の一員だった。魔術を扱えるようになったのはごく最近。それもあって、グループ内じゃ浮いた存在だったみたいだが、それが、いつの間にか姿を消して、この島で悪事を働いてたとさ」
情報提供者でもいるのだろう。彼女は、内情を見てきたかのように語った。
「突然力を手にして、手のつけられなくなった半グレの一人に目をつけた何者かが、誘拐を依頼した?」
「だろうよ。計画や装備の調達に火鞍が関与した形跡はない。巧いことダミーを挟んでやがったがな。あれは奴の頭じゃねえだろう。火鞍に求められていたのは実行力。絶対的な力だ。必ず成功させる為にな」
「手段まで用意しておいて、自分達に繋がる情報は一切隠し通すとは、周到ですね」
「久々原さんもその辺を危惧してた。使い捨てを予め考えてたかのような計画だし、少なくとも、名前が出ると困るほどの組織と狡猾な人間が裏にいるだろう、とさ」
企業か、それとも、国か。研究機密を狙うくらいだから、それを利用するものとしても、相手は限られてきそうだ。
「ともあれ、その件に関しては、火鞍の逮捕で一旦は沈静化したと見ていい。腐ってもあいつは魔術師だ。そう簡単に補充が利く玉じゃない」
「まあ、調査室や、それこそ公安も警戒度を高めるでしょうし、しばらく大きな動きはないでしょうね」
警察もパトロールを強化しているし、魔素理論研究所でも、安全対策の研修や送迎車の実施があるらしい。時間の無駄だ、と知り合いの博士が嘆いていた。
「それよりも、バイクと服、ありがとうございました。ちゃんと返されたんですよね?」
すると、彼女は嫌味たらしく薄紅の唇の端を吊り上げる。
「バイクは綺麗にしてもらったが、服の代金は修司の初任給から天引きするって。お前、自分から火に飛び込んだんだって? そりゃ仕方ない」
「いや、聞いていないんですが……あれハイブランド物でしたよね」
「はっはっは」
それは、件の誘拐事件の真っ只中でのこと。
飛鳥馬を連れ去ろうとした火鞍の魔術により、俺は炎に呑み込まれ、一時、彼らを見失ってしまう、という一幕があった。
前述の通り、こちらには“再生”があるので、身体はともかくとして、服は当然、戻らない。そこで、焼け焦げた服の代わりを手配したのだが、その際に遣わされたのが、“再生”を知っている彼女だったのだ。
都合のいいことに、彼女はサーキット走行用のような洒落たバイクで駆けつけた――一般車両に規制がある千万島だが、医療従事者や警察官等、一部の職種では認められている――ので、それを借りて火鞍を追った。戦闘中は放置していたバイクも、いつの間にやら久々原さんに回収され、ついでに洗車を経て返却されたらしい。
と、そんな舞台裏だった訳だが、服の値段は想定外。なお、受け取った当初は。
『適当に見繕ってきた。お前、パーカー好きだったよな?』
と言われていたので、そこらの安物かと思っていたのだが、彼女の『適当』はブランド物が基準になるようで、ロゴがあるだけで変哲のない化学繊維の編み物は、一枚を千から万に化かして俺の手元に届けられた。どうして人類は、ブランドなんかに目を眩ませるようになってしまったのか。
「まあ、いいんですが。それで、これから向かう宗教団体の支部には、どんな容疑があるんですか?」
「まずは麻向法違反だな。他にも、医療用医薬品違法取引の可能性もある。こっちは薬機法違反。平たく言えば薬物の違法売買だ」
なお、『麻向法』とは、『麻薬及び向精神薬取締法』の略称。また、『医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律』のことを『薬機法』と略す。
「まさか、信者相手に?」
「それも考えて少し調べてみたんだが、そういう気配は今のところなさそうだ。つまり、それこそ不審だった」
「薬物を何に使っているのか、ですか」
「ぶっちゃけ、ルートがはっきりしてるなら、薬物ってのは大した事案じゃない。被害が限定的だしな。ただ、こういう全貌が見えない場合は別問題だ」
そもそも、彼女が動いている時点で、既に穏やかではない。何せ、桐澤礼華は調査室を代表する捜査官なのだから。
「で、いっそのこと踏み込んで確かめることにした」
「また強引な」
「成果を出せばいいんだよ。社会に求められるのは結果であって、途中経過じゃないんだぜ?」
と、治安維持に携わる者の言葉である。
「それなら、俺は何を? 家宅捜索なら大掛かりな捜査になるでしょうし、いても邪魔なだけでしょう」
「ん? まあそうだな」
……それだけ? 彼女が一言二言で口を噤んだことに、どうも違和感を覚えた。
桐澤礼華は、口数が少ない性格ではない。どころか、言わずとも絡んでくる人だ。我が強く、自由奔放。そんな性格の彼女が、返事を濁して話を切り上げるのは、奇妙とさえ評していい。
つまり、何か裏があるのだと、付き合いが長ければ、それを如実に表していた。たかが一年程度の付き合いだとしても、だ。
「礼華さん、まさかとは思いますが……」
「あー分かった分かった。白状する。ったく、お前のその妙な勘の良さ、たまに邪魔だよ」
そう言いつつも、いずれバレることくらい、分かっていただろうに。
「そのまさかだ。どうにも上が腰を上げたがらなくてな。独断っつうか」
「命令違反」
「そうとも言う」
その言い草は、大して焦ったり、または、悪びれることもなかった。
「現状で証拠が揃っていないのは、ただの勘違いか、もしくは、相手がそれだけ用意周到なんでしょう。もっと慎重に動くべきでは?」
「おいおいお前、学園通いで老けたのか? 頭の固いジジイ共と同じこと言ってるぞ」
「それが一般論です。そもそも、令状がなければどれだけ疑いが濃くても踏み込めない筈ですが」
「そこはほら、どうせやってることは反社みたいなもんだし、叩けば出るだろ。魔法の言葉、現行犯逮捕♪」
警察官が無法者みたいなことを言い出した。ぶりっ子振っている声色がしんどい。
「それに、納得出来ないだろ?」
一転して、礼華さんは静かに呟き、車内には動力のモーター音だけが響く。たった数秒の静寂も、不思議と神妙にさせるものだった。
「何がですか?」
「未来の為の島で、誰かの未来を奪われてることが」
彼女の視線の先にあるのは、ただの夜景ではない。彼女が守ろうとしている、守らなければならない街の景色。
「泥を被ることになっても、ですか」
「そこはほら、奇遇にも、優秀な相棒がいるもんでな。そいつがさせない。だろ?」
つまり、調査室でも取り逃がすような組織の実態を、乗り込んで暴けと、そんな無茶苦茶な信頼を寄せられている訳だ。
「これでも分室所属になったので、あまり悪事には加担させないでもらいたいんですが」
「そう言いながら手伝ってくれる修司やさしーぃ。それに、調査室の人間に借りを作っておいて損はないぜ?」
「貸し借りする間柄でもないでしょう。貸しになるなら、世界平和にでも使ってください」
「はっ、ただの警官に何を買わせるつもりだよ」
まあ、貸しになるのがどのくらいかはともかく、『桐澤礼華』という人間にとって、世界平和くらいは、荒唐無稽ではないだろう。時に自らの力が及ばなければ、他者の手を借りるとしても、それでも、彼女は才媛なる主人公である。この世を物語としたら、彼女は必ず中核にあり、彼女に課せられる試練は、必ず乗り越えられるもの。そういう存在なのだ。たまにいるのである、そうした人間が。
それに、この島の治安を守ることも、平和維持には十分に繋がる。これは誇張ではなく、今や魔素理論研究の中心とも言われる海上都市の、その平穏が乱れれば、場合によっては、他国に介入の口実を与えかねず、それは、新たな闘争の火種となる。千万島の安寧は、一般に思われるよりも重い意味を含むのだ。
「にしても、世界平和ね。そういうことを本気で言えるのがお前だよな。天然ジゴロっつうか、現実主義者の癖に理想論者なところ。実際、学生よりスパイの方が向いてそうだよ」
「学園云々は久々原さんが決めたことなので、俺ではなくあの人に言ってください」
そうぞんざいに返事をして、視線をフロントガラス越しの夜景へと戻す。まもなく三区だ。とはいえ、境界線のようなものは存在せず、あくまでも、行政上の仕切りである。
「で、具体的にはどうするんですか? 大人しく家捜しさせてくれるような集団でもないんでしょう?」
「そこは簡単だ。正面から乗り込む」
「……は?」
まさか、殴り込みか? それは流石に警察の所業ではない。反社会勢力と反社会勢力の抗争、暴力の世界だ。
「ああ、言っとくが、別に殴り込みじゃないぞ。代表に正式に会いに行くって意味だ。つうか、殴り込んだら後始末が面倒だろ」
「それは良かったです。寿命を縮めず済みそうで」
こちらの思惑を察してか、補足説明をされた。というか、するしないで悩むなら、可不可では、可能なのか。相変わらず、思考力も能力も並外れた人だ。
「早い話が、揺さぶりだよ。容疑自体は固いからな。向こうも調査室を無下にすれば、何か企んでると白状するようなものだ」
立場のある人間が、警察官の聞き取りを拒否したとなれば、確かに外聞は悪い。特に、信者を抱える宗教団体なら、尚更だろう。
「つう訳で、お前の勘にも期待してるぞ。存分に働いてくれ」
「そりゃあもう、捜査でも何でも、誠心誠意働かせてもらいますよ。最近痛い出費もあったので」
「じゃあ学生服着て見せてくんない? 自撮りでいいから」
「あー、ちょうどカメラ壊れているので無理です」
そんな言い合いを車内でしながら、車は夜の人工島を軽快に走った。
「さて、到着だ」
徐に車外へ出ると、目の前に佇むのは、見た限りでは怪しさの欠片もないような、一般的なオフィスビルだった。いや、少なくとも、一般的ではないか。
前述の通り、三区は雑多な商業区画だが、中でも、この付近は一等地である。少し見渡せば、誰でも一度は目にするような一大企業の名前が、そこかしこで目に入るほどだ。広い歩道に、樹木の立ち並ぶパブリックスペースには個性的なベンチが設置され、なんとも贅沢な空間の使い方をされていれば、ここが敷地の限られた人工島であることを忘れさせる。
そんな場所にある、洒落た建造物。三階建てで横に広い構造のビルは、人工島という性質上、ありふれたものだが、ガラス張りの壁面から覗ける開放感のある屋内は、どこかのベンチャー企業のオフィスビルかと思える。少なくとも、先日まで無職だったこちらとしては、場違いにもほどがある、と尻込みしてしまうほどだった。
すると、車の両の目が点灯し、彼はキュッキュッと鳴く。
「本当にここなんですか?」
「ああ。ここの三階が宗教法人“黎明の陽射し”の千万島支部。お前が疑ったように、“黎明の陽射し”は、宗教団体とは思えないほど小綺麗でオープンな雰囲気なのが売りだな」
「ですが、この島で、反魔術の活動を、こんな場所で?」
魔素理論の提唱後に大きく変動した業界は多々あるが、その一つが、宗教界隈。なぜなら、魔術という超常現象が科学的に認められたことを、神といった超的存在の肯定と解釈されたからである。
そもそも、魔素理論は神については言及していない――認める認めないではなく、そもそも題材に挙げていない――ので、それ自体はよくある誤解の一つ。しかし、世間一般に魔術と魔法の区別はそれほど重要ではなく、事実として、宗教界隈の気運は高まった。
すると当然、拠り所としての力は強まる。敬虔な信者でなくとも、例えば、神社や仏閣への参拝という形で、この国の人間は古くから神との付き合いを続けてきているし、統計的にも、売上――と述べていいものか分からないが――は上昇傾向にある。時代が不安定だからこそ、人は安寧をそこに求めるのだろう。
そして、不遜だと主張する者も出てきた。超常の力を神の如き力と捉え、であれば、人が扱うには分不相応だとする考えである。
それが、反魔術思想。
「あー、実際、そこんとこの定義はややこしくてな。“黎明の陽射し”っつう宗教団体自体は、別に反魔術活動を推進してる訳じゃないんだよ」
「そうなんですか? あまり詳しくなくて」
「というか、宗教団体としてなら、普通に健全だな。所謂、教えの強要は一切していないし、献金も受け取ってないらしい。信者が払ってるのは、そこらのジムの月額利用料より安い程度の会員費だ」
ビルを見上げながら車に凭れる彼女は、夜の繁華街で、とても絵になっていた。
「では、何の為の入会なんですか?」
「言葉にするなら、『伝統的な日本式宗教』の体験」
「日本式宗教?」
「クリスマスは生誕祭、年の暮れには除夜の鐘、正月には初詣なんて、この国くらいなものだろ?」
「なるほど。言われてみれば、浮気性も甚だしいですね」
キリスト教に仏教、神教を数日の内にころころと切り替えるのだ。確かに、特有の文化だろう。ハロウィンやバレンタインだって、元は宗教的なイベントだろうが、既に日本独自のイベントになりつつあるのだから。
「浮気性ね。ま、理想はどうあれ、神事も仏事も宗派もごちゃ混ぜのこの国で、それぞれのイベントを本格的に催したりだとか、各宗教の講座も開いたり、何なら、ミサ開いた次の日にお祓いすることもあるらしいな。宗教も多様性の時代ってことかね」
「それで日本式宗教ですか」
「信仰の段階は大きく分けて三つ。感謝、崇拝、盲信。日本では三つ目のイメージが特に強かったな。だが、魔素理論の提唱から、宗教事業にいくつも新規の団体が参入してきて、ビジネスの色が濃くなった。その結果、界隈の自浄作用が結構効いた。別に、宗教そのものは魔素理論とも競合しないからな。“黎明の日射し”は、そこで参入してきたまともな団体の一つって訳だ」
実は、科学者でありながら信仰心を持つ者は、決して少なくない。元来、両者は相反するものではないのだ。科学者だけは神を否定しなければならない、なんて決めつけるも、おかしな話だろう。
宗教団体と聞くと、どうしても胡散臭い教戒やら、厄介な勧誘やら、負のイメージばかりが先行するが、この組織に関しては、そうではないらしい。彼女の声色からも、在り方自体に疑念の色は見えなかった。
「とにかく信者数を増やすことで好印象に繋げる、一種の経営戦略ですか」
「その『信者』ってのもこっちの言い分ってだけで、ここは『参加者』とかでな。悪いイメージが印象に残り易い界隈では、まともに見えればそれだけで好印象なんだよ」
そう聞くと、世も末だな、なんて思った。
「それなら、反魔術団体というのは?」
「まず前提として、反魔術思想そのものは、そう珍しいものじゃない。程度の差はあれ、超常に対する忌避感は、寧ろ全うな感性とも言える」
「とはいえ、世論の傾向は肯定的ですし、忌避感も徐々に薄れつつあるそうですが?」
「それを無くすのもこの島の存在意義の一つだしな。で、警察内部では、中でも過激な反魔術思想を持つ人間が組織のトップに就いている場合に、そう呼ぶことになってる。そのものを表すんじゃなく、属性の一つくらいとしてだ」
要するに、会社の代表取締役が何らかの思想に傾向していれば、従業員にそれを強制していなくとも、要警戒のレッテルを貼る訳か。あくまでも、彼らの身内のみに通じる符号として。
続けて、「特に宗教団体は一層警戒してるが」と彼女は付け加えた。
「だとしても、トップ一人で反魔術団体扱いとは、相当ですね」
「まあ、そこは日本の組織の悪しき慣習だな」
その口調からも、少しうんざりしている様子が窺えた。
「警察は公的組織。公的組織は官僚が動かす。そして、官僚には人脈が求められる。つまり、行政機関には政府の意向ってヤツが少なからず映される」
「ああ、現政権が魔素理論研究の推進派だから」
「そういうことだ。反魔術思想は、現政権にとっちゃあ目の上の瘤みたいな連中だからな。公安連中なんかは特にその意向に従ってるよ。あ、これ修司だから話したヤツな?」
つまり、他言してはならないのだと、彼女は口元に人差し指を立てた。
「ということは、“黎明の陽射し”の代表が反魔術思想の過激派だと?」
「いや、組織の規模によっては支部単位で見る。“黎明の陽射し”の代表が、じゃなくて、ここの支部長が、だな。ま、薬物について調べてたら、ついでに出てきた程度の話なんだが」
なるほど。要約すると、“黎明の陽射し”は、組織としては優良な宗教団体だが、そのとある支部の長に、組織的か、あるいは、個人としてか、薬物に関する違法行為の疑いがあり、また、彼は反魔術思想を抱いている。そこに、桐澤礼華は何かを感じ取り、踏み込む判断に至った、と。
「ってことで、この組織の全貌を見極める為にも、是非とも専門家の意見が欲しい」
「分かりました。泥を塗る真似はしません」
「いいね、自信満々の台詞。惚れちゃいそう」
「馬鹿言っていないで行きましょう」
「修司ってば冷たーい。相手してくれないとぉ、礼華拗ねちゃうぞ! ぷんぷんっ」
俺の周りには、本当に変な大人しかいないなあ。
「さて、支部は三階だが、どうする? 階段で行くか?」
入って傍らのエレベーターホールにて、俺はエレベーターの階数表示を見ながら、ほとんど無心で言葉を返す。
「健康には良さそうですが、礼華さんを背負って上らされる未来が見えたので遠慮します。体重が軽ければ一考しましたが」
「軽口叩ける心境なのは良しとして、そういや、殴るのも忘れてた、なっ!」
ガッ! っと、いきなり真横から伸びてきた手に、突如として、顔を鷲掴みにされた。所謂、アイアンクローである。
しまった。反魔術団体に対する警戒は最高レベルを自負していたが、まさか、同行者に対しては無警戒である。この女の隣にて気を抜くとは、一生の不覚。
「っていうか痛い痛い痛い痛いッ! あんた握力ゴリラか!?」
「ばっか、あんまり騒ぐな。まったく大袈裟だぞ。そんなに暴れられたら礼華ぁ、興奮しちゃうなぁ……!」
「頼むから手に負えてくれ!」
うっとりとしたような声色の彼女は、恐らく、尻尾を掴まれたハムスターが必死にもがく様を見て愉悦を覚えているような、そんな胸中だろうと思われる。真性のサドだ。
しかし、拷問と呼ぶべきそれは続けられる。俺は藁にもすがる思いで歯を食い縛り、顔を必死に歪めて痛みを誤魔化して、ようやく悲鳴を呑み込んだ。エレベーターの階数表示が、まるでカウントダウンのよう。たった十数秒を、ここまで待ち遠しく思ったことはなかった。
そして、遂にエレベーターが一階へと到着すると、ポーン、と愉快な電子音を響かせ、重厚そうな扉が滑らかにスライドしていく。
その中には、中年ほどの男が乗っていた。
「あら、ごきげんよう。どうぞお構いなく」
彼女の指の隙間から辛うじて見えた彼の顔は、とても驚きに満ちていた。まあ、それもそうだろう。朗らかに挨拶をしてきた軍服美人と、その女にアイアンクローを決められて悶絶している男が目の前に突然現れたら、俺も驚くかも知れない。
だから、触らぬ神に祟りなし、といった雰囲気で、そそくさと立ち去っていった男性のことを、決して咎められなかった。
「……三階、支部があるだけなんですよね?」
「そこの表記にもそうある。ま、顔は覚えた。問題はなさそうだ」
おちゃらけた雰囲気はどこへやら、アイアンクローも自然と解かれて、俺は左右のこめかみを両手でそれぞれ覆う。仮に内出血していたとしても“再生”するのだが、もし、防犯カメラでもあったら、その瞬間を映像に残す訳にはいかないからだ。
さて、そんなひと芝居を打つに至った経緯の説明といこう。
当初、二階に停まっていたエレベーターは、こちらが上ボタンを押す直前には上昇し始めており、その後、三階から一階へと下りてきた。つまり、搭乗していた今の男は、例の支部に用があった、ということである。このタイミングで、夜のこの時間に、些か妙だ。
「ただ、変な様子でしたね。焦りとはまた違うような……」
「アポなしだしな。慌てて逃げたって訳でもないだろうが」
とはいえ、ぱっと見た印象に過ぎない。こちらは視界のほとんどが覆われていたし、しっかりとした確認はしていない。
「何にせよ、支部長や関係者の面は割れてる。あいつは違う。『参加者』かそんなところだろ。お前の顔を見られるよりはと思ったが、杞憂だったかもな」
「顔を隠す為なら、アイアンクローなんてされずともフードを被りましたが」
「調査室がんな怪しい奴を連れて歩けるかよ」
「本人が一番怪しまれたと思いますが?」
呆れつつ、ということで、寸劇に興じたのであった。しかし、本気で痛めつける意味はなかったと思う。
さておき、閉まりかけた扉に足を挟み、俺は、礼華さんに先んじてエレベーターへと乗り込んだ。
「にしても、修司との仕事はやり易いな。褒めてやろう、ほれほれ」
満足気に伸ばしてくる手を、首を傾げて避ける。
「もう着きますよ」
「釣れないねえ。言っとくが、調査室のエース様の片腕なんて、他の連中なら憧れる役目だぞ」
「へー」
「次は頭握り潰してやる」
かくして、エレベーターは三階に到着。先程と同じく電子音を響かせて開いた扉の先は、全く想像していない光景であった。
「……本当に、ここでいいんですよね?」
暖色系の照明で照らされた、落ち着きのある空間。ほんのりくすんだ色合いの白いフローリングに、ベージュの壁紙。背丈ほどの観葉植物の緑が映えて、奥には半円形の小洒落たカウンターがあった。
これはどうにも想定外。事前に聞かされていなければ、階を間違えたと引き返していたかも知れない。
「もしかしなくとも、刀と掛軸がセットになった和室か、教祖様の教えでも貼り出されてるカビ臭い板の間とか想像してたな?」
「そこまで極端ではありませんが、まあ、似たものでしたね」
調査室が目をつけていた団体だ。そうした側面もあるのだと思っても仕方がなかろう。
「信者には雰囲気も大切だからな。実際は怪しい団体じゃないと思わせるだけで、自ずと警戒は緩くなる」
「詐欺と同じ手口ですよねそれ」
「結局は金ってこった。金で買えないものがあるとしても、『救い』は買える範疇ってこった」
身も蓋もないことを言いつつ、エース様はつかつかと踵を鳴らして、正面のカウンターへ堂々と進む。勝手知ったる我が家のような振る舞いで、微塵も遠慮が見られなかった。
「こんばんは。支部長に取り次ぎをよろしくお願いします。いるのは分かっているので」
「あ、えっと、どちら様でしょうか?」
私服姿の若い受付嬢が、困っていた。一人はキチッとした調査室の制服を纏っているが、対照的に、一人は他所行きとは思えないラフな格好をした男。そんな二人組なら、怪しさは十分なのであろう。
そして、そんな彼女に礼華さんは笑顔で言う。
「調査室です」
警察手帳を掲げながら。
「けいさっ……しょっ、少々お待ちくださいっ」
抜き打ちは成功のようだ。慌てて受話器を取る受付嬢に隠すように、こちらへVサインが向けられた。
「支部長、受付に警察の、調査室の方がいらして……はい。はい、かしこま……えっ? あ、いえ、分かりました。そのように」
通話内容は聞こえなかったが、何やら怪しげな雰囲気だった。礼華さんと目を合わせるが、彼女も疑惑を抱えた瞳である。
「……お待たせいたしました、支部長室へご案内します。どうぞこちらへ」
立ち上がった彼女は、低頭平身という言葉が似合う程に背筋を丸めて、おっかなびっくり先導し始める。警察の肩書きを恐れている……にしても、解せない態度。
「とりあえず、着いてくぞ。支部長様のお呼びだそうだ」
小声での指示に、こちらも同じく小声で「了解です」と返す。
そうして、俺達は支部の内部を進んだ。そこに想像していた胡散臭さは一切なく、掃除の行き届いた清潔で明るい廊下は、まるで、自分達は清廉潔白なのだと主張しているようにも感じる。考え過ぎだろうが。白い壁面に、床にはタイル柄の絨毯が敷かれ、等間隔に観葉植物が並ぶ。時刻的に就業時間を過ぎているからか、しんと静かなものだが、やはり、企業のオフィスへと通されている気分である。
礼華さんが言っていた通りなら、“黎明の陽射し”の事業は、宗教系イベントの企画運営が主だろう。この支部は、その事務仕事に用いられる場所であって、実務として信者が集うのは、また別の場所のようだ。
「そういえば、先日、通報がありまして」
礼華さんが不意に切り出した。すっかり警官モードだ。
「あっ、私ですか? 通報……そんな話は、特に聞いてないと思います……」
「下の階のテナントからなんですが、上の階から変な物音がするだとか。何か聞き覚えとかありませんか?」
「いえ、覚えは特に……」
こちらとしても初耳だ。思わず発言者を見やるが、彼女は首を振って。
『うそ』
と唇を動かす。どうやら、揺さぶりを掛けたいだけらしい。
「他にも何かありませんか? 噂話とかでも構いませんよ」
「いえ、私は本当に、何も知らなくて……」
見たところ、やや萎縮しているだけで、恍けている様子ではない。口止めされている訳でもなさそうだ。どうやら、自身の職場へ調査室が捜査に来たことへの驚きと困惑から、挙動不審に見えるだけ。この受付嬢、駆け引きや隠し事の得意なタイプではないだろう。
薬物についても、恐らくだが、彼女は何も知らない。鎌を掛けた張本人も同じ結論に至ったらしく、僅かにガッカリした様子が窺えた。
やがて、受付嬢は、とある一室の前で立ち止まった。
「こちらです。少々お待ちください」
言って、彼女は扉を開ける。木製だが、重厚な感じのする一枚扉だった。
「では……その、お入りになってお待ちください」
そんな言動を不思議に思いつつも、俺達は、とりあえず指示に従っておくことにする。礼華さんに続いて入ってみれば、そこは、一風変わった空間だった。
「これはまた、何というか、西洋かぶれな」
「はは。ま、言い得て妙だ」
支部の主の部屋は、見たこともないデザインの内装の数々で仕立てられていた。輸入品だろうか、豪奢な色使いや独特な形状をした家具は、少なくとも、この島国ではメジャーではないように思う。壁には絵画や盾、タペストリーが飾られ、大きなガラスケースの中には、本物なのか、長剣や短剣が収められている。本棚に並ぶ本の背表紙は英語で記されており、何と言うか、実業家の趣味丸出しの部屋、という印象だった。
「一応、支部長様不在だからいいものの、本人の前で言うなよ?」
「分かっていて言ったんですよ。それより、どのくらい待てばいいんですか?」
と、言いながら俺は振り向いたが、そこに受付嬢の姿はなく、代わりに、静かに閉められた扉が、ガチャリと鳴った。
「あー……これ、まさかとは思うんですが」
嫌な予感が過る最中、礼華さんが率先してドアノブに手を掛ける。
「……二人っきり、だね」
「危機感のなさ」
ノリは軽くとも、事態は重い。どうやら、嵌められたようだ。外から閉じ込められた。俺もノブに手を掛けてみるが、一向に回る気配がない。
「両側から施錠出来るタイプだな。入った直後に疑うべきだった。さっきの内線はこの指示か」
「支部長とやらが、ここから指示を出したんでしょう」
きっと、こんな内容で。
『来客を支部長室へ通せ。ただし、外から鍵を掛けて閉じ込めろ』
もしかすると、調査室の抜き打ち捜査という事態を、ある程度は見越していたのかも知れない。両側施錠の扉の設置に、鍵もどこかで保管されていたのだとすれば、そう考える方が自然だ。
「つーことは、だ」
「はい、抜け道があります」
そう結論づけることに、二人とも異論はなかった。
「このビルの構造、気付いてるか?」
言いながら、彼女は仰々しいまでに大きな革製の椅子のクッション部分に手を当てる。
「ざっとですが、支部長室でもまだフロアの半分くらいですね。それと、途中にあった怪しい扉」
「あの途中の通路の奥にあったヤツな。あれだけ雰囲気が違った」
そう、オフィスビルのような廊下で、一つだけ、鈍色で無機質な扉があった。その先には入るな、と言わんばかりの。
それらの前提から、こう考えられる。
「多分、関係者以外に……関係者でも、極一部の許された奴以外立ち入り禁止のバックヤードがあるな。そこに逃げ込んだらしい」
「ただのバックヤードとは思えませんね。例の容疑もありますし」
オフィスとして表向きに使われているエリアと、表に出せない何かをを隠しているエリア。日向と日陰。光と陰。“黎明の陽射し”とは、言ったものだ。
「椅子がまだ温かい。直近まで誰かがいたのは間違いないな」
視線だけで室内を見渡す彼女の表情は、既に真剣そのものだ。
「面倒だな……あからさまな罠っつうか、挑発か?」
「この状況で俺達を閉じ込めたのなら、寧ろ、追ってこいの意味でしょう」
仮に、逃げるつもりなら、閉じ込める必要はない。適当な場所へ案内させ、同じように閉じ込め、その隙に逃げればいい。抜け道の存在にだって気付かれなかっただろう。
恐らく、相手側には、逃げ隠れる意思は微塵もない。こちらの退路を塞いだ上で、まるで、試しているかのように、進んでこいと言っているのだ。
「ま、いいか。修司は一般人枠だし、監禁罪の現逮が成立だ。なんなら公妨もいける。さっさと見つけてとっちめようぜっ! 帰りは焼き肉でも奢ってやるよ!」
「たまにですが、警察官ってゴリラみたいな身体能力している癖に、何で一般人に小突かれただけで逮捕するのかって疑問に思います」
「はあ? 警官なんて元から法律を盾にしたゴリラだろ何言ってんだ。んな生物相手にしようとした勉強代だと思えば安いもんだろ」
「……なるほど」
道理が通じないのが分かった。
そんな軽口を叩きながら、二人で部屋を調べ始める。とはいえ、先の内線電話から数分しか経っていない。家具を動かすほどの暇はなかっただろうから、調べる場所は自ずと限られた。
ちなみに、先の『現逮』とは現行犯逮捕。また、『公妨』は公務執行妨害の略称。まあ、隠語にしても有名過ぎて、もう敢えて述べる必要はないと思うが。
「修司、ここ見てみろ」
礼華さんが、掌全体で壁に触れていた。入り口とはちょうど対称の位置、机と椅子の先。そこには、“黎明の陽射し”のシンボルなのか、日の出を模したような紋章が描かれた巨大なタペストリーが掛けられており、その奥の平べったい石を積んだような石目調の壁は、流石に本物の石ではなく壁紙の一種だと思うが、この趣味丸出しの一室にとても映えていた。
「……まさか、隠し扉?」
「映画かよ、なんて笑い話じゃ済まなそうだぞ。打音が違うし、よく見ると縦の継ぎ目がある。どこかにスイッチでもあったりしてな?」
冗談めかす彼女を余所に、ざっと辺りを見渡してみる。すると、豪奢な輸入家具といった雰囲気の机の引き出しが、ほんの僅かに開いていることに気が付いた。
「……おいおい、マジか?」
「慌てて閉めて勢いで跳ね返ったのか、あるいは、敢えて開けておいたか。せめて、直前まで見ていた何か……あ」
引き出しの奥を手探りで調べてみれば、天板に突起があった。少し斜めになっているこれは、まるで、レバーのよう。試しに、反対側へと倒してみると。
「ああ……壁、開いたな」
「開きましたね、壁」
タペストリーを暖簾のように残して、壁が自動ドアのようにすーっとひとりでに動き、ぽっかりと口を開いたのだった。
「建築基準法とか大丈夫なんですか? これ。確か、緊急時に手動で開けられるものでないと駄目だったような」
「知るかよ。DIYでもしたんだろ」
「DIYでも違法は違法ですよ」
「知ってるよ。釈迦に説法ってかマジレスすんなよ」
証拠として収める為か、話しながらも、礼華さんはスマートフォンのシャッターを何度か切る。通路の奥からは、不気味な冷気が漏れ出していた。
「さて、愚痴愚痴言っても仕方ねえし、進むとするか」
「罠があるかも知れないので、先導します」
「槍でも突き出してきたりな。ほら、これ貸してやる」
ペンライトを受け取る。この先、照明は点いておらず、それらしいスイッチも見当たらない。真っ暗で狭い通路を、僅かな明かりで照らしてみるが、先は長そうだった。
「流石に罠を張る時間はなかっただろうが、足元には注意しとけ。暗闇にワイヤートラップは定番だしな」
「じゃあ嬉々として背中を押さないでくださいよ。何をそんなに楽しそうに」
西洋かぶれの一室に、隠し通路。自分達が人工島にいることも、追い込まれている状況すら忘れて、気分は冒険であることは、まあ、こちらとしても否めないが。
「よし、では進め、京修司二等兵っ!」
「捨て駒階級」
とはいえ、二階級特進することはない。俺は廊下の先を照らして、背中を押されながら踏み入れた。
コツ……コツ……と足音が反響している。照らす先は上も下も剥き出しのコンクリートで、先程までとは打って変わり、薄汚れた道が続く。換気がなっていない狭い廊下は、息が詰まった。
「かなり反響しますが、奥から何も聞こえないということは、もうビルからは逃げたんでしょうか」
「つっても、何もないってことはないだろ、こんな仕掛けで誘い込んどいて。とりあえず、油断はするなよ?」
そんな当たり前の忠告も真摯に受け止め、俺は「了解です」と早まる鼓動を抑えるように、冷静に返した。
ところで、先程から礼華さんが、やけに近い。いや、これだけ暗いなら、少し離れるだけでも見失いそうなので、仕方ないとは思うのだが、ずっと腕に抱き付かれ、少しでも離そうとすれば、たちまち密着してくるのである。コアラのようだ。
「ちなみに、怖いとか思っていませんよね?」
「あ? あー……やーんっ、礼華こわーい! ドキドキするー。えへ、おっぱい押し付けちゃってるね、ごめんね?」
「低俗」
「……礼華ぁ、バカだからその言葉分からなーい。このまま肩関節外しちゃうかもぉ?」
「待て待て本当に外そうとするのやめろゴリラ! 痛いっつってんだろ!」
関節を外してくる謎の妖怪に取り憑かれた気分を味わわされた。まあ、彼女の豊満な胸の柔らかな感触とか、長髪が振り撒くシャンプーの匂いとか、多少は気持ちが揺れなくもなかったとそれなりに思われるが、鬱陶しさが、やや優勢。
「っと、馬鹿やってる間にどこかに着いたな」
馬鹿やっている自覚があるなら、最初から絡まないでほしかった。
さておき、目の前には一枚の扉。先程、支部長室の手前で見掛けたのと同様に、重苦しい雰囲気の鋼鉄製の扉である。
「一気に開けるなよ? 少しずつ開けて、同時に隙間から様子を見ろ。音をよく聴いて、テープか紐かワイヤーの一本でもあったら、戻さずそこで止める、いいな?」
警官というより、特殊部隊のようなレクチャーを受けながら、俺は、言われた通りにドアノブを回す。鍵は掛かっておらず、徐に扉を開いていく。
「電気、点くか?」
「スイッチありますね。点けます」
パチッと音が鳴ると、扉の隙間からガツッと強めの光が漏れてきた。すっかり暗闇に順応した目を二人して細めて暫く、明るくなった状態で、再び隙間を確認する。罠の類いはなさそうだった。
意を決して、扉をゆっくりと押し開く。ギィ……と苦しそうな蝶番の音が通路に響く一方、久方ぶりに思える光を浴びながら、俺達は、そこへ広がる光景に息を飲んだ。
「これは……ちょっと想像してなかったものが出てきたな」
「かなり広い、研究室ですかね?」
刺すような強い光源に、淀んだ空気。宙を漂う埃が目に見えるくらいだ。部屋の広さは、学園の教室一部屋ほど、といったところだが、嵐でも過ぎ去ったかのように散らかっていた。割れた瓶やガラスがあちこちで散乱し、本棚と思しき棚は空っぽで、空のバインダーがいくつも無造作に放置され、一部には土や植木鉢も転がっているが、これも割れたり転がったりだ。倒れたテーブル、放置された工具、日用品も散乱し、壁には大きなモニターと、地面には何本もの色とりどりなケーブルが這っている。ナイフが突き立てられた机には本の山と、とにかく統一感のない部屋だが、俺達の目を引いたのは、部屋の中央にある、拘束具付きの椅子。
「研究、ね。碌な研究には見えないな」
「最悪、人体実験とかもありそうですが……そういえば、教祖の教えが貼られたカビ臭い和室なんてないとか、さっき誰かが言っていたような」
「なかったじゃん」
「無敵か?」
等と、自然と軽口を言い合ったのは、雰囲気に呑まれまいとする無意識の精神的自衛だったのか。喋っていないと落ち着かない心境だったのかも知れない。
ともかく、再び手分けして調査を開始することに。
拘束具の付いた椅子そのものは、椅子とは名ばかりで、かなりチープな作りに見えるが、手首と足首を固定する筒状の取って付けたようなバンドと、腰周りを固定する太い革紐が異彩を放つ。地面にだらんと伸ばされたケーブルは、さながら、電気椅子のようにも見えたが、その先は、真っ暗な液晶をした電子機器に接続されている。ベッドサイドモニターという、入院患者の隣で心拍数等を測るお馴染みの医療機器だ。同じものを魔素理論研究所で見たと思えば、やはり、『PHILIANESIS』の銘。まあ、流石に四季小路は無関係だろう。装置が勝手に使われただけと思われる。
さておき、本来であれば、ベッドで寝ている患者のバイタルを監視するものだが、つまり、椅子に座らされた者の体調を著しく乱す何かを、ここで行っていた訳だ。薬物違反の容疑が、ここにきて不穏である。
一方、部屋の隅のコルクボードに貼られた大量の紙に気が付く。新聞記事や週刊誌の切り抜きらしい。日付が不明のものもあるが、どうやら決まった時期ではなく、ただ、内容は偏っていた。
「魔素理論……研究費用の是非を疑う新聞記事に、こっちは論文の切り抜きか? 『魔術がもたらす世界の破滅』、『政府が学生を軍隊化か』。ほぼゴシップ記事だが」
どれも、否定的な内容が共通。ざっと見たところ、魔術による犯罪の危険性、軍事利用、時勢の先行き不安に、ここ数年の税金の使い途、若者の自殺率に言及しているものまであるようだ。全て、魔素理論を悪役のように述べて。
かと思えば、視線を下げ、木製の机に山と積まれている本は、ジャンルが疎ら。天体、航空学、小説、自己啓発、植物、日曜大工……装丁のしっかりしたものから、薄いソフトカバーの文庫本まで、とにかくかさばっている。その傍ら、一本のナイフが天板へと浅く突き立てられており、柄まで装飾の施されたそれは、天井からの照明によって、机に十字架の影を写す。その光景に、『反魔術思想』が頭を過った。
また、天板には文字が刻まれており、その一部が雑誌で隠れているので、どけてみると。
『Fait ce que vouldras』
とあった。フランス語だろうか。残念ながら、俺は読めなかった。
「修司、こっち」
呼ばれたので、こちらの調査を一旦切り上げ、礼華さんの下へ。彼女は戸棚の中身を検めていたようだ。
「そっちは何か見つけたか?」
「いえ、特には。というか、情報が多過ぎて処理が追いつきません」
「こっちはこっちですっからかんだ。で、隙間からこんなものが出てきた訳だが」
差し出されたのは、一枚の紙。棚のどこかに挟まっていたのか、不自然な位置で折り目が付いていて、バインダーに綴じる目的で空けられた穴は破れていた。ファイルの一部だったものが、何かの拍子に抜け落ちたのだろうか。
液体が飛び散ったような染みが残るその紙は、滲んでいる部分もあったが、それでも、タイトルを含む一部は判読可能で、道理で、わざわざこちらに見せたものだと理解する。
『鎖による被検体への影響』
それは、“被検体”の俺と、そして、事情を知る彼女にとって、単語以上の意味を勘繰って当然のものであった。
とはいえ、妙な単語が目を引く。
「『鎖』って何だ? お前、覚えあるか?」
「いえ……」
その紙に記されているのは、心電図や脈拍、体温や血圧をグラフ化したもの。研究者通いの俺には、馴染み深いデータでもある。幸い、と述べていいものか、この『被検体』のバイタルは、そこまで大きくは変動していないようだった。
「なら、どう思う?」
「……ここで何らかの研究をしていたことは確かでしょうが、これだけでは何とも。ただ、俺や久々原さんが用いる“被検体”とは違います。単なる偶然の一致でしょう」
「ま、そうだろうな。あくまで状況証拠だが、仮にここで“再生”の研究が行われていたとして、設備が全然足りんだろ」
「科学的探究に最新の設備は必ずしも欠かせない訳ではありませんが、せめて、別方面の研究だとは思いますね」
魔素理論研究所と比べれば、この部屋は、夏休みの自由研究のようなレベル。とても理論物理学の研究には向かない。
「別方面ね。それがこの『鎖』ってやつか」
「何かの隠語でしょうか。そこの椅子に被検者を固定し、『鎖』を使った際の悪影響を観察していた、というのが現状最有力ですが」
「問題はこれが何かだな。新種のドラッグ……依存で縛り付ける、みたいな意味か?」
その可能性もあるにはあるが、決め手には欠けるように思えた。状況証拠に、ピンと来ない。先日の誘拐事件の時のような、頭の中でかっちり嵌まる感覚がないのだ。
こちらが難しい表情をしていたからか、彼女も自信がない様子である。
「……ったく、一つの組織を牛耳ってる奴が過激思想の持ち主で、しかも、この島に隠し部屋までこさえて、裏で何かの実験かよ。一体、何を考えてるんだか」
手持ち無沙汰とばかりに、彼女がひらひらと動かすくすんだ紙の、こちらと無縁とは思えないその文字に、ふと思い至った。
「……反魔術思想って、魔術師を敵視したり、もっと言えば、見下すとか、同じ人間と見なさない、みたいな傾向とかありませんか?」
「そりゃあないこたない……おいおい、まさかこの『被検体』ってのが、魔術師を指してるって言うつもりじゃないだろうな?」
「ご名答です」
「はっ、冗談じゃない……つまり、反魔術連中が魔術師を使って人体実験ってか? んなもん、公安でもひっくり返る事件だぞ」
そんな馬鹿な、という口振りをしていたが、自身でも薄々勘づいていたのかも知れない。彼女は一蹴することなく、寧ろ、悪い予感が的中したとばかりに、苦い表情で頬を引き攣らせていた。
「じゃあ『鎖』ってのも、魔術に使う何かってことか? まさか、魔術の無力化じゃないだろうな」
「どうでしょうね。ただ、魔術を向精神薬等で抑え込むような研究は既にあった筈です。それ自体はそんなに珍しいものではありませんよ」
「つってもこの惨状を見るに、椅子には縛り付けてるだろ? 監禁だぞ? しかも魔術師相手に。あー頭痛くなってきた」
「大変ですね」
「お前さあ」
先刻の通り、現政権は魔術の研究に重きを置いている。つまり、魔術師は貴重な存在なのだ。尤も、建前として、政府は国民に差異をつけてはいないが、言うなれば、一般人の渡航に護衛がなくとも、総理大臣はそうはいかない、みたいなもの。はっきり述べて、人間一人の価値は平等ではない。
要するに、魔術師に手を出すことは、大問題。誤解を恐れず述べれば、権力者の子息に手を出すようなものだ。場合によっては、テロ組織に認定されることもあり得るだろう。こちらにとっては大迷惑であり、向こうとしては相当に大胆。あるいは、それだけ相手も本気なのだろう。
「お前といると芋づる式に状況が悪くなってくのって何なの? 何か変な匂いでも出してる?」
「だったら巻き込まないでください。というか、そう悠長な状況ですか? 『魔術師だから監禁された』なんて、島の風評にも影響しそうですが」
「やめろやめろ、お前のそういう予感はマジで思ってても絶対口にすんな」
すると、不意に背後から物音が聞こえた。俺と礼華さんは示し合わせたように、バッ! と即座に振り向く。その正体は、すぐに判明した。
「……おい識者。あれ何だ?」
「ナイフでしょうね。一目瞭然とした」
そう、紛うことなく、ナイフだ。ついでに述べれば、カトラリーとしてのナイフではなく、刃渡り十センチ程度で両刃の短剣。柄の先まで銀色の、十字架のような短剣である。
「だから、何でそのナイフが浮いてるんだって聞いてんだよ」
「……ポルターガイスト、とか」
その物音は、机を爪で弾いたくらいの、コトッという小さな音だった。てっきり、何かが倒れただけだと思っていた。だが、そこではナイフが、見えない糸で釣られたように、宙で静止しているのだ。切り貼りした画像みたいに。そう錯覚してしまうくらい、不自然に。
「ポルターガイストって幽霊の仕業とかじゃなかったんだ? 恨まれる覚えは……まあないことはないが、知らないうちに足でも踏んだか」
「そういえば、どうして幽霊って足がないイメージなんですかね。身体が半透明というのは分かりますが」
「修司? 二人で現実逃避してたら収拾つかないよ?」
ポルターガイスト。
言わずと知れた、物体が自然に浮遊したり、移動する現象のことだ。古くから、幽霊だ超能力だと騒がれてきたこの現象も、当然ながら、人智を超えた理論の範疇である。
しかし、実際に目にすると、違和感だらけの現象だった。脳が混乱する。下手くそなCG映像を見ている気分なのだろうか。宙にナイフが浮いている光景に神秘性などなく、ただただおかしい。
そもそも、原理がよく分からない。ナイフが宙に浮く? どういうことだ。普通に考えれば、電磁気力か。それか、手品の一種かも知れない。分子か単原子レベルの極細の糸での操作や、もしくは、幻覚という可能性も。
「修司ッ!」
耳を劈く悲鳴にハッとして、眼前に迫った銀の刃に紙一重で首を捻る。宙に静止していたナイフは、気付けば、淀んだ空気を切り裂いて、背後の戸棚に突き刺さっていた。
遅れて、全身を得体の知れない感覚が走り抜け、ぞわりと身の毛がよだつ。これがきっと、殺気と呼ばれるものだ。死んでいたかもしれない、という生存本能。幽霊か亡霊か、その正体は不明だが、明らかに『殺す』認識があった。
「おい、大丈夫かよ?」
「はい。風切り音も幻聴ではなさそうですが、修正動作はなし。操れはしても自在ではないタイプですね」
「透明人間がナイフ掴んで振り回したり、ナイフそのものに意思があるとか、そういうのじゃないってことか。で、発生源は?」
「不明です。遠くから操っているのかも」
「誘い込まれたな。最初からこれが狙いか。おい修司、さっさと」
逃げるぞ、と言いかけたのだろう彼女の手から、たった一枚の資料が、不自然に宙へと浮かぶ。それは、見えない何かに取り上げられたようにも見えた。
資料はひとりでにふわぁっと上昇しながら、部屋の隅へと遠ざかっていく。
「チッ、そりゃそれも出来るか。油断した」
「ですが、どうやら見られて困る誰かがいるみたいですね」
「だな。さっさと回収してとんずらこくか。修司、お前はポルターガイストの方を」
と、またしても言いかけて、彼女は言葉を失う。それは、こちらと目を合わせた瞬間のことだった。
「……びっくりした。何してんだお前」
そこには、首だけをぐるんぐるん回している俺の姿があった。
「いや、したくてしてる訳ではなく、さっきからなぜか服が物凄く重いというか、微動だにしなくて」
「何だそれ? キモめのパントマイムかと思えば、タッパ百八十の男が服の重さに負ける非力設定はどうだよ」
「設定ではなく、何と言えば……服が石みたいに硬いというか、首から下をコンクリートに埋められたみたいな」
「……つまり、お前の服がポルターガイストに捕まったってか?」
「恐らく」
何か見た目が変わった訳でも、服や靴の材質が変わった訳でもなさそうだが、喩えるなら、その形をした容器に閉じ込められたような感じか。身体の感覚はちゃんとあるのだが、衣服だけ氷漬けになったみたいな。
あ、これ、脱力しても姿勢が崩れない。今なら立ったまま寝られそう。
「礼華さんは?」
「いや、こっちは別に……どういうことだ? 修司がナイフを避けたから、避けられないように動きを止めにきたのか?」
「それもあるかも知れませんが、それよりは」
その意図は、次第に浮き始める鋏やガラス片といった危険物の切っ先を向けられずとも、明白であった。
「足手まといが増えたというか」
「あー……修司、置いてっていい?」
「いつもならいいと言いますが、正直、誰に見られているか分からないこの状況で“再生”は使いたくないので、可能なら助けてほしいです」
「お前さあ」
「面目ございません」
とはいえ、ここで二人とも同時に拘束されないのは妙な話だ。一度に一人しか出来ないのか、何かやむを得ない条件や事情があるのか。それとも、狙いは俺ではなく、彼女の方か?
何にせよ、こちらは一切身動きをとれない状態になってしまった。ポルターガイストで何が飛んで来ようが、嬲られるだけ。命運は、桐澤礼華の手中にあるのである。
「はぁ、しょうがない。連れてきたのはこっちだしな。しばらく凌いでやるから、その間に打開策を考えろ」
「それは百人力ですね」
恐らく、ポルターガイストを起こしている者にとっては思い通りの、動けない者をもう一人が庇う、という図式。戦況としては、非常に好ましくないだろう。
だが、侮るなかれ。心しろ。桐澤礼華という傑物を。
飛来する凶器の類い。いくつものそれらをやり過ごすには、人間の手足では、本数が些か足りない。そう考えたのか、はたまた、そう考えることすらなく本能的だったのか、彼女はただ簡単に、手近な丸テーブルを片手で軽々と持ち上げると、それを振りかぶって、ぶん投げる。一応、注釈しておくが、多分、重さ十キロ弱はあったと思う。
そんなものを、野球ボールの如く肩を回して投げたものだから、質量と速度に依存する運動エネルギーによって、たかが刃物如きは軽々と弾かれ、テーブルは勢いそのまま、壁にぶつかってバキバキに砕けた。
「超常現象相手に根比べってのも恐いが、ま、百人程度と思われるのも癪だし、一丁やるか」
すると、次は四脚の木製テーブルが、上に乗せていたグラスや照明器具を転がしながら浮き上がる。先の丸テーブルより一回りか二回りほど大きなダイニングテーブルは、当然だが、物を投げることで撃ち落とせるような質量ではなく、あんなものが高速で突っ込んでくるのだから、ぶつかれば、人体なんて簡単にへし折れるだろう。
余談だが、今しがた、そこのゴリラが投げた丸テーブルは回転運動をしていた。テーブルを野球の要領で縦回転に投げるのは、人の膂力としてはどうなのかと思うが、対して、ポルターガイストで飛んでくるテーブルは、一切の回転をせずに、移動している。文字通り、不自然に。現象としては当たり前なのかも知れないが、物理的に考えると、妙である。
さて、桐澤礼華は、この迫り来る四脚テーブルにどう対応したかと述べると、これまた非常に単純明快で、足を振り上げ、振り下ろす、つまりは格闘技での踵落としである。しなやかな脚で飛び跳ね、柔軟な関節で垂直に掲げた右足を、人間離れした瞬発力で振り下ろす。それは、踵の一点に力を集約した杭として、飛来するテーブルを撃墜し、バコォッ! と天板を真っ二つに割った。家具に用いられるしなやかな木の板は、瓦とは全く違うのだが、一体どうすれば、あんな人類が誕生するのか。
桐澤礼華に、小細工は通用しない。
桐澤礼華に、正面突破は通用しない。
桐澤礼華に、不条理は通用しない。
超人。神に愛された人間。超常が常識となった現代で、彼女は紛れもない人としての地力で、超常を超えていく。超的な力はなくとも、存在そのものが超的である。正義とは、必ず彼女を指す言葉として機能するだろう。
次は、背の高いキャビネット。中身はほとんど空。床に転がっている割れた瓶を並べていたのだろう。ただ倒れるだけで易々と人を潰せるであろう巨大なそれが迫り来る最中、桐澤礼華は、軸足一本でくるっと回って回し蹴り。たったそれだけで、あそこだけ物理法則がイカれたのか、キャビネットはポルターガイストよりも景気よく、部屋の奥へと吹っ飛んでいく。彼女はにっと笑顔だった。補足だが、あれは紛れもない彼女の筋力の結果である。
時に、こちらの身体を縛っている力と、今のキャビネットを動かす力は、恐らくは同一の、同程度の現象だと思われ、よって、このコンクリートに包まれているとまで思える力に、彼女は、素の身体能力で対抗していることになる。流石は人間ゴリラ。
「よし、あれより重い物は部屋になさそうだし、何とかなりそうだ」
楽しそうだった。
「修司、ちゃんと作戦考えてるか?」
「すみません、唖然として……というか、必要ですか?」
「要るに決まってるだろ、ぷんすかぷんっ! まあお前がいなけりゃ要らないんだが」
「考えますすぐに」
何か考えなければ、どちらにせよ、殺される気がする。
どうしようかと悩んでいる間も、ポルターガイストは休まず物を飛ばすつもりで、今度は物量で攻める気か、ナイフに鋏、マイナスドライバーに鉛筆、カッターナイフに万年筆にガラス片、等と、身近な物で凶器へ様変わりする物は大量にあり、そもそも、最初からここへ誘い込む策略であれば、仕込みもあって然るべしか、部屋中の凶器という凶器が飛来する。
しかし、我らが桐澤礼華にとっては、児戯も等しい。彼女は、先程、真っ二つにへし折ったダイニングテーブルを両手でそれぞれ拾い上げると、前方から一斉に向かい来る凶器の矢雨を、左右からプレス機のようにグシャッと一網打尽とする。タイミングがずれれば眼孔が筆立てになっていたかも知れないし、そもそも、テーブルを盾代わりにすれば済むものを、攻撃的というか、派手好きな人だ。
ともあれ、おかげで攻略の糸口は見つかった。
然れど、ポルターガイストは続く。休ませる間もなく立て続けに、しかし、どこか不気味な、人間らしい適度さで、次に浮かんだのは、部屋の中央にあった拘束具付きの椅子。見た目こそ物々しいが、攻撃力はキャビネットより断然劣るであろうそれは、あろうことか、桐澤礼華の脇を素通りして、こちらへ向かってきた。
「っと、行かせねえよ」
益々勇ましい礼華さんは、椅子から尾を引くように伸びるケーブルを掴むと、逆方向へぐんと引っ張る。すると、椅子はこちらの顔面すれすれで勢いをなくし、彼女は、そのままハンマー投げのように椅子を放った。散々暴れているので、部屋の中はとっくに滅茶苦茶である。
改めて、調査室職員の実力を思い知る。尤も、誰もがこんな傑物という訳ではないのだが、この桐澤礼華と足並みを揃えるというだけで、まともではない。島の番人と呼ばれるだけはあるものだ。
すると、ぐいっと身体を引かれる感覚があった。重力とは程遠く、首根っこを掴まれて引き摺られるような、横暴な力。やや遠くで背を向けている礼華さんによるものではなく、であれば、当然、ポルターガイスト。そう、今度は俺を道具として投げ飛ばすつもりらしい。
これまでは、単純な投擲ばかりで通用しなかった攻撃も、仲間の身体という、失うにはいかないもので代用することで、無二の戦法となる。賢しい超常現象だ。
だが、それだけ。相手にしているのは、あの桐澤礼華なのだ。連れの一人や二人が投げ飛ばされてきたところで、慌てるような軟弱者ではない。こちらこそ慌てず、彼女の背中へと突進する直前まで微力ながらポルターガイストに抗い、精一杯のサポートをする。
「礼華さん、避けてください!」
恐らく、彼女としても予想だにしない、背後からの味方の突進。しかし、直前で振り向いた礼華さんと、しっかりと目を合わせ、問題ないと確信するには十分であった。
そして、その次の瞬間、俺は横っ面に蹴りを叩き込まれていた。
すっ飛んだ。
記憶も飛んだ。
ちなみに、飛んだ記憶は『忘れる』という本来の脳の機能であるからして、“再生”の対象外。
さて、何が起きたのかも分からず、とにかく、首の辺りから鳴らしてはならない音を鳴らし、顔面から壁に突っ込んで、顔中に激痛が走り、ずるずるとずり落ちて、だばだばと鼻血とか諸々を流して、数秒の混乱を経て、ようやく事態を察するに至った。
「蹴り飛ばせなんて一言も言ってないだろッ!?」
「いや、つい……つうか、割りと本気で蹴ったのによく無事だったな、お前……」
「おかげさまで血だらけですがね!」
意味が分かると怖い話。
彼女は俺の“再生”を知っているので、『よく無事だったな』なんて普通は言わない。では、どう異常だったかと述べると、彼女が完全な本気を出せば、首の骨をへし折って、あわや、首まで吹っ飛んだろう、ということだ。げに恐ろしや、人類。
なお、折れたかも知れない首の骨は、一瞬で“再生”した(と思われる)ので、誰かにこの場を覗かれていたとしても、まさか、既に一回死んでいるとは思うまい。ちょっと頑丈なのだろう、で済む筈だ。一方で、顔の怪我は“再生”したらバレてしまうので、そのままにしてある。当然、あほほど痛い。涙に鼻血にぐしゃぐしゃである。
「それより、奥にあるテーブルの上、机にナイフが突き立てられたままなの、見えますか?」
「今のを『それより』で済ませてくれるから、鼻声で鼻血垂らして情けなくても修司大好き。ちなみに見えてるが?」
「あの位置、多分見えていません」
「……あー、なるほど。OK」
この部屋に来たばかりの時、俺が調べていた机に刺さったままのナイフ。あれだけが、先程の矢雨の攻撃の時に、動かなかった。つまり、ポルターガイストを起こしている何者かにとって、あの位置は死角なのだ。カメラを構えたら真下が映らないように。
「見つけた」
ほとんど間を空けずそう言うと、礼華さんは足元に落ちていたナイフを足先で器用に跳ね上げると、ぱっと掴んで件の方向へ投擲。その切っ先は部屋の奥、壁に取り付けられた小さな飾り棚に向かうと、直後にプツンと、宙に浮いていた物が一斉に、糸が切られたように落ちてきた。
「隠しカメラたあ趣味の悪いこった」
「ですが、制御から外れたようです」
「ってことは、操るには最低限の視覚情報が必要……いや、カメラ越しだから位置情報か? 何にせよ、幽霊の悪戯じゃあなかったな」
なお、彼女がナイフ投げという芸当をどこで身に付けたのか、また、部屋の隅の小さな隠しカメラをどうやって見つけたのか、といった疑問に関しては、質問するだけ無駄である。どうせ、「普通に出来るだろ」としか返ってこない。
「明らかにこちらを狙っていましたからね。どういう方法にせよ、相手は人智を超えた理論を制御することが可能のようです」
俺は顔を“再生”しながら口にして、詰まった鼻血を鼻や喉から追い出した。
「魔術師によるものか、それとも、そういう装置でもあるのかは分からんが、奪ったり浮かせたり拘束したり、応用の利く厄介な力だな。目に見えないってのが特に面倒だ」
「それにしては、調査室のエース様に最も酷い目に遭わされた気がしますが」
「はいはい悪かったよ」
彼女は緊張感も解いて、かさ、と落ちていた資料を拾った。
「とりあえず、手掛かりは取り戻せたな。あとは魔術師監禁の疑惑まで上乗せすれば、流石に上も動く。そしたらガサ入れしてぶっ潰して、この件は終わりだ。さっさとずらかるぞ」
「そうですね」
しかし、直後にまたしても、事態が一変する。
ポルターガイスト。再来だった。しかも、規模が明らかに違う。部屋中の、物という物が浮かび上がっていく。金属も、非金属も、大も小も見境なく。
「待て待て、カメラは壊しただろ! 何で使える!? どこかにまだ残ってたか、それとも条件が違うのか!?」
「いえ、『位置情報』でいいなら、リアルタイムである必要もないのかも知れません」
「チッ……つまり、目で見えなくても多少手探りで操れるってことか! クソッ、非常識連中はマジで法則が分からん!」
悪態の最中にも広がる、特に規模の大きな魔術が行使される際に見られる、群青色の魔素光。基本的に、魔術師の意のままに動く魔素だが、ほんの一部はトンネル効果によって制御から外れてしまい、過剰なエネルギーを光として放出して変質する、という性質がある。普段は微弱で不可視のこの光が肉眼で捉えられるのなら、それだけ多量の魔素が満ちている、という証である。
要するに、非常に危険だ。
「さて、今度こそ虎の尾を踏んだかね……!」
「虎ならまだいいでしょう。この規模での物体操作、一体どうやって……」
「んなもん後回しだ! いいからさっさと」
逃げるぞ、と続く声は耳をすり抜けて、それよりも、ぞわりとした突然の予兆に全神経が傾けられる。分かる。来る。身の毛がよだつ、暴力が。
「礼華さんッ!」
叫ぶ声は、流星群の如く押し寄せる物の濁流に掻き消され、俺達は、オブジェクトの山に押し潰された。
気付けば、真っ暗だった。
「……修司」
ひしゃげ、へし折れ、砕けた残骸が山のように積み上げられ、その直下、耳のすぐ近くから声がして、辺りが落ち着いたと悟った。地面に突っ張っている腕に力を入れるが、背中にのし掛かっている重さを取り除くことは出来そうにない。
「待ってろ、今どかす。よく見えないんだが、今はお前に押し倒されてる格好でいいんだよな?」
暗くて何も見えない中、手探りで身体の位置をまさぐられ、やがて、彼女の足がバコンッ! とガラクタを蹴り上げると、ぶわっと空気が流れて、ようやく解放感を覚えたが、辺りは変わらず真っ暗だ。照明器具すらも粉々で、窓のない密室なら、当然か。
「ふう。ったく、相変わらず死なないからって無茶するよ。こっちがヒヤッとする」
身体を張って助けたのに、この言われようである。こちらが勝手にやっていることなので、礼を言われたい訳ではないのだが。
ともあれ、不死身の役割は果たせただろうか。咄嗟に彼女を引っ張って倒れ込み、物の濁流を、傘になって耐え凌いだ。筋肉というのは思っているよりずっと硬くて、盾には十分機能するのだ。
「まあ、壁とあれに挟まれて潰されるよりは、地面に転がった分マシだったな。生き埋めにはなったが……修司? おい、どうした?」
俺は無言のまま、やや呼吸荒く、彼女を下敷きにしている。
「……その、こう見えて初めてだから、優しくして?」
わあ、鬱陶しい。
「冗談の相手をするほどの、余裕はないんですが……」
「ちぇっ……ん? この感触、血か。どこだ?」
「背中です」
「暗いからよく見えん。渡したライトはどこにしまった?」
「胸ポケットに」
こちらは姿勢は動かさず、四つん這いのまま、やや腕をずらして隙間を作ると、礼華さんはするりと這い出て、暗がりながら、ぺたぺたと触診ついでに明かりを灯す。とはいえ、見立ては聞かなくとも、自分の身体だ、分かっていた。
「うおっ、でっかいガラスが背中にぶっ刺さってんぞ……生き埋めになった時か。また器用に怪我するよな、お前。つっても、部屋はこの有り様だし、カメラも潰してある、何で“再生”しない?」
「体内に異物があると、取り除けなくなるので、今は止めています」
「あー……何でも治せて死なない癖に、激痛を我慢して治るなって念じ続けてるのか。逆の立場なら、頭がおかしくなる気がするね」
“再生”に異物を取り除く力はない。というより、再生現象が早過ぎて、押し出すより先に傷口が塞がってしまう。この力は異物に対して、除去ではなく、健常の継続を選んでしまうので、大なり小なり、身体に侵入してきたものへの根本的な解決にはならないのだ。
「で、これを抜けと?」
「お手数ですが」
自分で抜けるなら抜くのだが、何せ、手が届かない。こちらとしては、ぺしゃんこに潰された方が、まだ困らなかった。
「抜くってお前、ガラスはナイフじゃないんだから、引き抜くだけで傷口ズタズタになるし、位置的に肺とかやってるかも知れんぞ」
「道理で、呼吸するだけで痛む訳ですね……」
「いや、絶対に痛いってレベルじゃないだろ。マジでおかしくなったか?」
「平静でいないとおかしくなります」
「……よし、とりあえず頑張れ」
何となく六割くらいの、ふわっとした応援だった。
「ざっと見た感じ、刺さってるのは二ヶ所だな。脇腹に小さめのと、背中のでかいのは肋の隙間から内臓いってそうだ。何て言うか、お前ってさ、怪我の運ないよな」
「聞いたことないんですよ、そんな運勢……」
まあ、怪我をしなくていい場面で怪我をしたり、そういうことはたまにあるが。角にぶつけて皮膚を軽く擦り剥いたり。
「じゃあ、手早く背中のでかい方からいっとくか。三、二、一で抜くぞ。いいか?」
「分かりました、お願いします」
「任せろ。三」
ズボッ!
「よし、小さい方終わりっと……どうした? そんな悶絶して」
「今、無警戒なところを、脇腹に指突っ込まれて抉られたんですが、鬼のような仕打ちに何か言うことは……?」
「失敬だな。痛いのは意識が逸れてる隙に済ませるって言うじゃん。お前も実際叫ばなかったし」
「子供の注射ならそうなんでしょうね……!」
問題は、注射針の何倍も太い指を、何本も脇腹に麻酔なしで突っ込まれたことだ。叫ばなかったのは、そもそも、俺が声を上げる質でなかったからである。一瞬だけ奇声は上げてしまったが。
「分かったよ、次はちゃんとやる」
「いえ、もういいです。油断していたこっちが悪かったので」
「信用度がガタ落ちするくらいのことだった? 悪かったって……」
もし、他人の身体に指を突っ込む機会があれば、ちゃんと打ち合わせ通りに行いましょう。
「ま、まあ、さっさとでかいのも抜いた方がいいな。今度はちゃんとカウントしてからやるから、な?」
それでも、この人なら不意を突いてきそうだな、と思いながらも、背中に触れる指先に、痛みに耐える覚悟を決める。彼女が「三、二、一」と数え下ろすと、その時が来た。
傷口を押し広げてめり込む指。激痛が走る。肺を裏から穿ったガラス片が、蠢くようだった。ギザギザの断面が臓物と肉を裂き、鮮血が溢れ出て、思わず仰け反ってしまう背中から、ぞりぞりと異物が引き摺り出されていく恐怖心。どくどくと溢れる血潮が体内に流れていく感覚と、脳が必死に分泌する麻酔物質の形容し難い快楽と、痛みとがごちゃ混ぜになって、雑念はなく、ただただ痛い、と。痛い、痛い、痛い、と。それが、どうしようもなく、思考を蹂躙する。
それでも、俺は生かされてるのだ。
「……何度見ても、人体の傷口が構築されてく光景は、少しぞくっとするね。修司、大丈夫か?」
「死んでも死にきれない」
「いつも通りだな」
こちらのぼやきは無視され、バシッと背中を叩かれる。激烈な痛覚信号で幻痛を覚えていた脳に、正常な感覚が叩き込まれて混乱した所為か、そのまま力なく俯せに倒れてしまう。
「お、おいどうした?」
「ちょっと、気力が……すみません。あと、ありがとうございます」
「あ? 何でお前が礼を言うんだよ。逆だろ?」
「いえ、人の身体に指を突っ込んで、やりたくないことをさせたな、と」
「……あーもう! お前さあ!」
すると、なぜか声を張り上げた礼華さんにぐるんと回され、がばっと引き寄せられた。
まあ、抱き締められた。
「……あの、何を」
「うっさい。黙って休め」
投げやりな言葉は、照れ隠しのようにも聞こえて、こちらとしても、何を慣れないことを、と思う。
「苦しいんですが」
「お前なら窒息死しないだろ。いいから顔上げんな。絶対だぞ」
確かに、呼吸をせずとも死にはしないが、辛うじて呼吸は出来たので、どちらにせよ、である。調査室の制服は、軍服のような見た目で生地がしっかりとしているので、何というか、彼女ほど大きな胸の中でも、呼吸する隙間はあったのだ。
問題は、吸う空気のほとんどが、礼華さんの身体を経由してくること。いや、この表現はどうだろうか。気色悪いか。
とにかく、彼女にしては珍しいことで、そういえば、自称レディースで姉御肌だったか。その辺の話を聞いたことはないのだが、もしかすると、この不器用な格好にこそ、彼女が慕われる要因があったのだろうか。
いやでもこれマッチポンプじゃないか?
「というか、礼華さん香水付けてませんか? 捜査官としてどうかと」
「は? 香水? 何でだよ」
「いえ、嫌いな匂いではないんですが、この体勢だと、呼吸の度に鼻が一杯になるというか」
「……嫌いじゃ、ないのか?」
「まあ、いい匂いの方では」
「……へえー」
何を考えているのか。口数の減った彼女の胸中が分からないまま、ただ時間が過ぎていく。
と思っていたら。
「……苦しい。苦しいふるひいふうひぃッ!」
ぎゅーっ、と、どんどん万力のように締め付けられ、流石に呼吸すら難しくなってきて、思わずバシバシと彼女の腕を叩く。それは、どうやら彼女にしても無意識だったようで、「わ、悪い悪い」と言われながら、慌てて解放された。捕らえた獲物を絞め殺す蛇を想起させられた。
「ま、まああれだ。回復したならすぐにでも動くぞ。こんな目に遭わせやがった連中、ふん縛ってやらんと気が済まん」
「そうですね。治安維持的にも、あのポルターガイストは危険です」
暗闇の中、ペンライトの明かりだけで、二人して立ち上がる。あらゆるものが押し流された部屋の奥には、別の扉がぽつんと残されていた。
「ああ、あと修司。別に香水、付けてないぞ」
「そうなんですか?」
こんなことで嘘を吐く彼女ではない。それに、冷静に考えてみれば、調査室のエースともあろう者が、捜査に支障をきたす恐れのある嗜好品を使うことはないだろう。こちらも少々冷静ではなかったようだ。
「では、体臭で臭かっ」
直後、ガッ! と繰り出されたアイアンクローに悶絶し、出発はさらに遅れた。
それらは、掌の上だった。
「首尾は?」
「試運転自体は成功かと。『銀鎖』は正常に機能、バイタルの低下も想定範囲内ですね」
京修司らの目と鼻の先、ビルの外壁とで隔たれた路地で、顔の彫りが深い壮年といった年頃の男が、その視線をやや上、ビルの三階部分へと向けながら、「ふむ、悪くない」と顎髭を擦っていた。丈の長い外套に、中折れハットを合わせた紳士的な風貌の彼こそ、“黎明の陽射し”千万島支部の、その長、天花寺レオである。
一方で、夜空の下、手に持ったタブレット端末の液晶によって、ぼんやりと顔を照らされている配下の男は、立ち上げているメッセージアプリに忙しいのか、その画面に執着していた。
「映像は来ておらんのか?」
「途中でカメラを壊されました。直前まで気付いてなかったと思うんですけど、急に」
「言ったろう、確実に始末しろと。問題あるまいな?」
「絶対死んでます。生きてる訳がない。支障はないですよ」
「……まあ、辛うじて生きていても瀕死か。あそこからは抜け出せず、野垂れ死ぬであろうな」
そう言いつつも、やや不満げな言葉に、配下の男はちらと様子を窺うが、壮年の男に怒りの色は見えなかった。
「計画の進捗は」
「B案へと移行。現状、問題は確認していません」
「よろしい。万が一にも番犬共に勘付かれるな。野蛮な連中に真っ向から相対するほど、我々は蛮族ではないと心得よ」
両手を置いたステッキを地面に突き立て、決して表情を崩さず、眼差し険しくある様は、指導者として、もしくは、ある覚悟を決めた者の顔つきにも窺える。
「海の果てでも、地の底でも、必ず夜は明ける。どこであろうと、神は見ていてくださる。我らの行く末に、寛大な祝福を」
彼は、人工島の街角で神に祈る。それは、誰にでも許された権利であった。
「……では、このまま移動を」
「待て。折角だ、立つ鳥跡を濁さず、憂いは断っておかねばならん」
「はあ、どういうことです?」
「翼を持ったからと、海も空も己がものと過信してはならんのだよ、人間は」
不敵に微笑むその姿は、聖職者のそれでないことは確かだった。
バゴッ! と大きな音を立てて、木製のドアは蹴破られた。
「……ドアって本当に蹴破れるんですね」
「子供の時やらなかったか? 鍵のちょい左くらいを蹴ると体感壊し易いな。穴を開けるんじゃなくて、中の金具をへし折るイメージだ」
「どんな子供ですか」
要らぬ知識を得たし、俺も一応手伝ったが、多分、要らなかっただろう。
さて、ポルターガイストに襲われた俺達は、追跡は諦め、引き返すことにした。時間的にも手間取ってしまったし、それに、またしても襲われるリスクを考慮した。今は、何より情報を持ち帰ることが先決である。
加えて、とある懸念があった。
「……誰もいないな。さっきの受付嬢もどこ行った?」
あれだけの音を立てたのに、騒がれる様子がない。電気は点いたままだが、すっかり無人のオフィスと化していた。
「今度こそ、慌てて逃げたという雰囲気ですね」
「こっちを閉じ込めてからすぐ逃げたか。ってことは、マジでお前の言った通りかもな」
「はい。恐らく、証拠隠滅が行われます」
二人して足早にオフィスを進む。理由は、先の直後にあった、彼女の一言に起因する。
『しかし、調査室職員を襲うとは、後先考えなかったのか?』
考えない筈がないのだ。わざわざ誘い込んで襲撃するほど用意周到。当然、本来ならあの場に残されたであろう二体の死体の扱いを、寧ろ、考えないほど愚かであれば、どれだけ良かったか。取り越し苦労なら、それでいい。しかし、そうでなかった場合のリスクが大き過ぎた。
そのリスクとは、彼らの死体処理方法である。
例えば、密かに処理する方法がある。人体であっても、凍らせて細切れにするなり溶剤で溶かすなり、やりようはあるもので、秘密裏に処理することは、そう難しくない。ただし、実行はそう単純ではないことに加え、調査室職員の行方不明、という疑惑が残されるので、いずれ、捜査の目は向けられた筈だ。あまり賢いやり方とは述べられない。
しかし、とある方法であれば、死体の処理は簡単に済み、ほとんど手間は掛からない。さらに、上手くいけば、全てを『偶然の事故』として、行政的にも問題なく片付けることも出来る。冴えたやり方だ。尤も、冴えた人間なら、殺人なんて愚行をそもそも冒さないだろうが、彼らの妙な用意周到さと、どこか執着じみた襲撃に遭えば、どんなに突飛な行動でも、やりかねない。そんな予感がした。
その方法とは。
「放火ね。あの襲撃のあとだと、本気でやりかねない気がする」
そう、ビルごと燃やしてしまうことだ。特に、あのバックヤード内を灰にして証拠隠滅を図れるのは大きい。残された死体も、損傷次第で身元不明の焼死体になる。それでも、検死解剖で死因は判明するだろうが、その頃までに島から出てしまえば、あとは国外逃亡も十分に可能だ。最も手軽で、最も心理的ハードルが低く、最も効果的な証拠隠滅の方法とは、火による全焼である。
他にも、ビルそのものの爆破や、ポルターガイストによる意図的な倒壊、といった可能性も考えてみたが、やはり、現実的には放火が有力だろう。何の因果か、またしても炎である。
「とにかく脱出と、あとは下の階への避難指示だな。消防要請もか」
「不審火くらいならそれで十分でしょうが、ガソリンか灯油でも奥に山ほど用意してあったら、間に合うかどうか」
「だから、お前が言うとマジになるから怖いんだよ……! あーもうビル全体だよな! もういいや面倒くせえ!」
そうして癇癪を起した礼華さんは、廊下に設置されていた火災報知器のスイッチを躊躇なく押す。すると、大音量で警報が鳴り出した。
「……俺が言うのもあれですが、間違っていたらどうします?」
「そん時は頭下げた分だけお前の頭もめり込ませるから覚悟しろ」
「ぺらっぺらになりそうですね……」
とはいえ、もう仕方がない。念の為、オフィスに残っている人がいないかを確認しながら通り抜け、エレベーターは使えないので、非常階段で階下に降る。
「ところで修司、あのポルターガイスト、気付いたか?」
「何にですか?」
「最初、お前を明らかに狙ってたよな」
「明確な意思があった、という話ですか?」
そのことには気付いていた。つまり、『殺意』という明らかな意思の所在。単なる超自然的現象であれば、こちらの眉間を正確に狙って射抜くような現象は、まず確率的に起こり得ない。だが、それが連続したのだ。一応、『無限の猿定理』という考え方に拠れば、あれが全くの偶然だと見なすことも出来なくもないが、現実として、あのポルターガイストは、紛れもなく人間の意志で動いていただろう。魔術である。反魔術の思想を持つ者の、居城の内で、だ。
「それもだが、あれ、試すように動いてただろ」
「……試す?」
「規模が段階的に大きくなってた。力の限界を見定めてるみたいだった」
言われてみれば。こちらが邪魔なら、最初から全力で叩き潰せばいい。飛ばされてきた家具は、次第にサイズを大きくしていたし、最終的には何本も飛んできた刃物が、最初は一本だけだったのもおかしな話だ。
しかし、弄ぶつもりにしては、都度、本気で殺しに来ていたような気もする。どの攻撃にも手加減はなく、例えるなら、シャワーの温度を確かめながら上げていくような……いや、これが正しい比喩である自信はないが……。
ただ、上げようと思えば、出力をもっと上げることは可能だった?
「ああっ、よかった……!」
急に女の声がして、思考を切り上げる。一階に降りると、そこには、先の受付嬢の駆け寄ってくる姿があったのだ。
「あのっ、私指示されて、鍵を掛けたら帰れと言われて……でもそしたら、今警報があってっ……!」
「ああはいはい、分かってます分かってます。ともかく避難してください」
困ったように呆れつつも、職務を全うする礼華さん。相手からしてみれば、良心の呵責から許しを乞うているのだろうが、この件に関しては、俺も礼華さんも、彼女を責める気はなく、そんなことより早く避難してくれ、というのが本心だろう。肩を軽く押すようにして、取り乱す受付嬢を出口へと促している。
ビルの内部は、全くもって静かだ。まあ、火災警報は変わらず鳴り響いているのだが、人の気配はすっかりない。オフィスビルなので、夜の今の時間まで業務していた者は、元からほとんどいなかったのだろう。数人が既にビルの外で、スマートフォンで誰かと連絡を取っていたり、何事かと話し合っている程度。一向に火の手が見えず、誤報じゃないかと勘繰った者もいるかも知れない。それなら、それでいいのだ。こちらの頭がぺらぺらになるだけで済む話。
安堵すると、疑問が浮かぶ。
そもそも、なぜ襲われたのだろう。調査室に目をつけられれば終わり、その考えは理解出来るが、そこで『逃走』ではなく『襲撃』を選んだ理由だ。
当然、罪を重ねた。無用の罪を負ったとすら述べていい。まあ、彼らからしてみれば、死人に口なし、これで口封じが出来たと勝ち誇ったつもりかも知れないが、いずれは、やはり、疑いは向けられただろう。寧ろ、仲間を失うことで、調査室逆鱗に触れる結果にもなっていたほどだ。あまりにリスクが大き過ぎる、賭けにしても、無謀である。
つまり、リスクを負うほどの価値が、相手にはあった?
『あれ、試すように動いてただろ』
桐澤礼華の見立てだ。彼女の見立ては基本正しいし、客観的に見ても、こちらも同意。
試していたのだ。
何を試していたのか?
調査室職員の実力か。
それとも、ポルターガイストの力。あれに、どれだけの力があるかを確認した?
何でその必要がある?
当然、使う為。
何に使う?
何に、ポルターガイストを使う?
反魔術思想が、魔術を、何に使う?
……これ、マズくないか。
「礼華さん」
呼び掛けて、考えを共有しようとした矢先のこと。
妙な音に気付いた。じりじりと炎が燃えたり、轟く爆発音ではない。もっと低く、身体の芯まで響くような、窓や空気を震わせる、エンジン音。
《上げようと思えば、出力をもっと上げることは可能だった?》
先程の、自分の考えがフラッシュバックする。では、出力の限界とは? ポルターガイストの上限値とは? ナイフや家具なんて小さなものでなく、もっと大きなものは?
一直線に、飛行機が落ちてくる。
「逃げろ……逃げろ逃げろ逃げろ逃げろぉおおッ!」
声を張り上げた。礼華さんがすぐに気付いて、何人かを抱えて走り出した。彼女も必死に声を上げていたようだが、その声は、ドップラー効果で徐々に甲高くなっていくジェットエンジンの音で掻き消される。誰もが気付いたが、誰も動けない。
秒速二百メートル。膨大なエネルギーとジェット燃料を蓄えた人類の叡智の結晶が地に墜ちるまで、一秒。




