54話 精霊の試練
魔獣たちの苛烈な猛攻を全員の絆で潜り抜け、ユイたちが忘却の洞窟の最深部へとついに辿り着くと、そこには思わず息をのむほどに神秘的で美しい光景が広がっていた。
遥か高い天井の隙間から差し込むかすかな月光に照らされ、翡翠色に妖しくも清らかに輝く巨大な地底湖――それこそが、世界に存在するあらゆる最悪の呪いをも綺麗に清めるという伝説の『癒やしの泉』であった。
「わあ……綺麗……。本当に、こんな暗闇の奥に眠っていたんだね、モカ」
「うん! わたしたちの妖精の島の宝物、『癒やしの泉』だよ!」
案内役のモカとココアが、安堵したように嬉しそうに泉の周りをパタパタと飛び回る。
「急いで、この水を汲みましょう。神界で、今もシンが私たちの帰りを待っているわ」
サーラがそう言って水元へ歩み寄ろうとした、まさにその時であった。
ゴボゴボゴボ、と静まり返っていた泉の中央から、まばゆい青い光の泡が激しく湧き上がった。
平穏だった水面が大きな波を立てて割れ、そこから透き通るような美しい純水によって形成された、巨大な大人の女性の姿をした神聖なる存在が、ゆっくりと姿を現した。
『――何者ですか。我が静寂なる聖域を侵す愚かな者は』
洞窟全体に厳かに響き渡る、冷徹で慈悲のない声。それは、忘却の洞窟の水を遥か神話の時代から守り続けてきた【水の精霊】であった。
その場を圧倒する凄まじい神威のプレッシャーの前に、ソフィアが思わず息を呑み、ヒミコが静かに身構えながらユイたちの前に進み出る。
「私たちは神界から参りました。現在、サタンの最悪な闇の呪いに侵され、生死の境を彷徨っている一人の少年の命を救うため、どうかその泉の水を分けていただきたいのです」
ヒミコが至高の魔導師として毅然とした態度で交渉を試みる。しかし、水の精霊の双眸は冷たい氷のように固く閉ざされたままだった。
『呪いを清める水……。ですが、神界の者よ。先ほどこの地を力ずくで支配せんとした、魔獣の王サタンの悍ましい邪気を私は知っています。今や世界は、あの男の闇に染まりつつある。この神聖な水を悪しき者に二度と奪われぬよう、我が命に代えても、ここを容易く通すわけにはいきません』
精霊の巨体から、まるで巨大な津波が押し寄せるかのような、凄まじい濁流の魔圧が放たれる。世界の均衡が崩れている今、力ずくでこの精霊から水を奪うのは容易ではない。
その時、ユイが背後からヒミコの制止の手を優しく振り切り、自ら一歩前へ、精霊の目の前へと進み出た。
「待ってください、精霊さん! 私たちはサタンの仲間じゃありません!」
ユイは押し潰されそうな精霊のまっすぐな視線を正面から受け止め、自身の胸にそっと手を当てた。
「私たちが水が欲しいのは、世界を、みんなを救うために……自分を犠牲にしてまで一人で戦ったシンを助けたいからなんです! シンは……誰よりも優しくて、自分の心がどれだけ傷ついてボロボロになっても、いつも僕たちを守ろうとしてくれた……。だから今度は、僕がシンを助けたい! シンのあの優しい笑顔を、もう一度だけ取り戻したいんです! そのためなら、私はどんな過酷な試練だって受けます!」
ユイの大きな瞳から零れ落ちた、透き通った一滴の涙が、翡翠色の地底湖の水面にポツリと静かに落ちた。
その瞬間、忘却の洞窟全体がサアッと穏やかな、温かい黄金色の光に包まれ、水の精霊の強固だった警戒の表情が驚愕へと変わった。
『……その涙。そして、その少年のために己の命を懸ける、純粋なる心の輝き……。神界の者たちよ、疑ってしまい、ごめんなさい。あなたのその心、確かに偽りなき光の意志です』
水の精霊は穏やかに微笑むと、巨大な身体を人間の少女の大きさへと変え、ユイの目の前まで静かに舞い降りた。そして、その透き通った手を、ユイの小さな胸元へと優しく差し伸べた。
『少年の根深い闇の呪いを完全に解くには、ただの泉の水だけでは足りぬかもしれません。そのシンという少年を想うあなたの強い心に、我がすべての力を託しましょう。――受け取りなさい、水の絶対の意思を』
精霊の身体が眩い光の粒子となって爆発的に弾け、ユイの身体へと吸い込まれるように流れ込んでいく。
青と金のまばゆい神秘の光がユイの全身を幾重にも包み込み、彼女の体内に眠っていた魔力が、今までにない次元へと爆発的に膨れ上がっていく。
光の残光がゆっくりと収まった時、ユイの背中には、まるで精霊そのものであるかのような、美しく光り輝く水の翼が静かに、そして力強く羽ばたいていた。
愛するシンを絶望から救い出すための絶対的な力が、いま、ユイのその清らかな魂へと授けられたのだった。
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