第92話 フラプティンナの憂鬱
王国歴162年12月22日 午前10時 皇帝宮 白薔薇の間にて――
「では、早速レッスンを始めましょう」
「よろしくお願いします、師匠」
ライトブルーの髪をバンダナで結びながらフラプティンナが答える。部屋着であるモスグリーンのロングドレスが可愛い。帝王宮で1回目のレッスンがスタートした。
すぐにレッスンを受けたかったフラプティンナだったが、警備体制を整えるのに3日という時間がかかっていた。レッスン場所は以前も姫とアルトナルと練習していた白薔薇の間で、壁には色とりどりの薔薇の絵画が掛けられ、天井のドームには天使の絵が描かれたフレスコ画が描かれている。
窓の外は遠くに海を望むことができ、手前には整然とした街並みが広がっていた。
部屋の椅子に座ったアルトナルは、ぎこちない様子の二人を微笑ましく眺めていた。レオンシュタインは、すぐに練習メニューを発表する。
「じゃあ、基本的な音階練習を……」
そうか、まずは基本に10分程度、取り組むつもりだとアルトナルは予想する。
「今日は初めてですから1時間ほどやってみましょう」
フラプティンナとアルトナルの両者は驚き、互いに顔を見合わせた。
いきなり1時間?
二人の懸念をよそにレオンシュタインはニコニコしながら手本となる練習を始めた瞬間、強烈な音が二人を包み込む。ただの音階練習なのに、演奏会本番のような素晴らしい音色が部屋中に響き渡った。
その音色に後押しされるように、フラプティンナは弓を構えて同じ音を出そうと鳴らし始める。基本をレオンシュタインほど大事にしていないフラプティンナの音は部屋中には響かない。
「フラプティンナさま、基本の音が全ての音につながります。一音一音を美しく奏でましょう」
「はい」
冬とはいえ白薔薇の間には暖炉の火が明るく輝き、室内は上着がいらないくらい暖かい。ひたすら一音を大切にするレオンシュタインの指導は続き、フラプティンナの額に汗がにじむ。基本練習で汗がにじむのはフラプティンナにとって初めての体験だった。
「レオンシュタインさま、少し休憩してもよろしいでしょうか?」
30分が経過したところでフラプティンナから申し出がある。ハラハラしながらアルトナルはその様子を見つめていた。もっと早く休憩はできなかったのか? ニコニコしながらレオンシュタインはそれを許可し、フラプティンナはホッとしたように弓を下ろした。
肩と腕がもうパンパンに固まっている。
ぐったりしているフラプティンナを横目にレオンシュタインは練習を継続する。16時からピアノのレッスンが控えているため、バイオリンの腕を落としたくないレオンシュタインは雑談よりも練習を優先してしまう。
その様子を見たフラプティンナにモヤモヤとした感情が湧いていた。
(今までの先生方は私の頑張りを褒めてくださったり、いろんな声がけをしてくださった。けれども、レオンシュタインさまは……)
雑談もしないまま練習に取り組んでいる。
(ちょっと不誠実だわ)
結局、この日は基本の練習だけでレッスンが終了した。
(えっ? これだけ?)
課題の曲を練習するわけでもなく、実にあっさりとした内容だった。
「では、次回は基本練習で直すところを教えていきますね」
ニコニコしているレオンシュタインとは裏腹にフラプティンナの顔は曇っていた。つまらないのだ。こうして第一回の練習はフラプティンナがモヤモヤしたまま終了してしまったのだった。
§
王国歴162年12月26日 午前10時 皇帝宮 白薔薇の間にて――
(こんな簡単な練習、いつまで続けるのかしら?)
2回目もレオンシュタインが王宮に出向いてのレッスンになる。レッスン会場でフラプティンナの横に立つレオンシュタインは基本に忠実であるよう指摘し、うまく弾けるように励ましていた。けれども、フラプティンナはつまらないことこの上なかった。
愚直にただ一音一音を、美しく奏でることにレオンシュタインは集中していた。部屋に待機しているアルトナルには、その素晴らしさがとても理解できた。長年の懸念事項であったフラプティンナの曖昧な音程が改善しつつあったからだ。
その上、的確な音の長さについても同時に練習しており、フラプティンナにとって最適な練習であることは疑いがなかった。コンサート会場や練習時のフラプティンナの演奏を聴いて、レオンシュタインは考えたのだろう。
(やはり非凡なお方だ)
アルトナルが感服しているようにレオンシュタインは音に妥協がなかった。弓の使い方が悪ければ優しく指摘し、その矯正を図る。楽しいレッスンにしようとレオンシュタインは力を尽くしていたが、今までの自由な練習と違い、つまらないであろうことは姫の顔を見ると明らかだった。
そのため、レオンシュタインと姫の仲立ちに気を使うアルトナルだった。
「レオンシュタインどの、曲を練習したりはしないのですか?」
「そうですね。では、次の練習から少しずつやってみましょうか」
相変わらず笑顔のままレオンシュタインは基本練習に戻ってしまう。その日のレッスンも、こんな感じで終了してしまった。
「ねえ、アルトナル。こんな練習でいいのかしら?」
レオンシュタインが部屋から出て行ったのを見計らって、フラプティンナ姫がアルトナルに愚痴をこぼしていた。フラプティンナが苛立ちを含んだ声で話すのは珍しいことだった。
「少し単調かもしれませんが姫さまの音色は確実に上達しておりますよ」
わずか2回のレッスンでありながらフラプティンナの音色は確実に美しくなっていた。正しい音色をレオンシュタインがひたすら繰り返して聞かせるからだと、アルトナルは笑顔で答えていた。耳から曲想を理解するフラプティンナの癖をレオンシュタインはすぐに見抜いていたのだ。
(レオンシュタイン殿。人を見る目も比類ない……)
ただの演奏家というだけではなく人の本質を見抜く目までもっている。
(私がその素晴らしさを伝える役目を果たさねば)
そう思いながら、アルトナルは帝王宮を後にするのだった。




