第86話 嘘は言えない
王国歴162年12月15日 夕方 コンサートホールの控室にて――
「先ほどの演奏では、素晴らしいオフィーリアにはなりません」
楽団員の目に怒気が走る。
「おいおい。優しくすれば、つけ上がって!」
「身の程知らずが! 今からでも辞退しろ!」
怒号が飛び交う中、アルトナルが楽団員を手で制する。
「レオンさん」
さすがにアルトナルは感情を抑えていたが不快は隠しようがない。
「どこが足りなかったのですか?」
右手で答えを促しながら、そうレオンシュタインに尋ねていた。その理由が的を射ていない場合、アルトナルは演奏をしないと決めていた。私たちにもプライドがある。
「ん、口で言うのは難しいですね。演奏しながら伝えてもいいですか?」
レオンシュタインの顔が引き締まったのを見て、アルトナルも劇団員に合図をして先ほどの演奏をスタートさせた。指揮者がタクトを振るった瞬間、素晴らしい音色が響いた。
(さすがバルタザル交響楽団)
姫さまのパートはすぐにやってくるため、遅れないようにレオンシュタインはバイオリンをかまえる。
(今だ!)
オーケストラに合わせてソロパートを弾き始めた瞬間、アルトナルはその超絶した技巧に驚愕した。
(信じられない。この音色は全てを圧倒している)
次第に焦りを覚え始めたアルトナルと同様に、ファーストバイオリンのメンバーたちも少しずつレオンシュタインの異能に気付いていった。栄えあるバルタザル交響楽団がたった一人の音に押されている。
「そこです!」
演奏をやめたレオンシュタインが、ぴしゃりと指摘する。
「先ほどの演奏で気になったのはそこです。オケのパートが少し遅れますよね。テンポを楽譜通りにすれば、もっと美しい音色になります」
指摘されたセカンドバイオリン隊の顔が青ざめる。先ほどの演奏で、姫に会わせて少しだけリズムを遅らせたことを見抜かれてしまった。もっと青ざめたのはコンマス(コンサートマスター)のアルトナルだった。
こんなわずかな時間で自分たちの問題点を指摘するとは……まさか。
「レオンさん。フルネームは?」
アルトナルは恐る恐るレオンシュタインに名を尋ねていた。
「レオンシュタイン・フォン・シュトラントといいます」
その瞬間、アルトナルは口をぎゅっと噛みしめ、両手を思い切り握りしめる。端正な顔がゆがみ、痛烈な後悔が襲う。心のどこかで市井のバイオリン弾きには、それなりの演奏でよいと見下してはいなかったか?
エックハルト一門の鬼才、師匠から100年に一人の天才と称されていた男が自分たちの目の前に立っている。しばらくそのオーラに圧倒されていたアルトナルは、バイオリンを構え直し厳しい顔つきになる。
「みんな集中が足りない。もっと一音に集中だ!」
楽団の顔に緊張が走る。コンマスが集中と言うときは、音が響いていないという意味だ。全力で演奏しろという叱責に等しい。全楽団員の顔つきが変わる。
「レオンさん、ご指摘をお願いします」
真剣さが増したアルトナルたちを横目に見ながら、レオンシュタインは指摘を続けていく。
「じゃあ、一緒にオフィーリアをやりましょう」
指揮者がタクトを振るが10秒もしないうちに演奏が止まる。
「ストップです。セカンドバイオリン16分音符がつぶれてます。もう一度」
レオンシュタインの指摘は正確で、楽団員の顔つきがどんどん変わっていく。その後も、レオンシュタインに指摘され続け、楽団員の額に汗が光り始める。それでも楽団員は必死にレオンシュタインの演奏についていく。
(さすがだなあ)
感心しながら楽団員の様子を眺めていたレオンシュタインだったが、一つ伝えていないことがあったことを思い出した。
「ごめんなさい。ストップです」
すぐに楽団員が演奏をストップする。顔は真剣そのものだ。
「皆さん、オフィーリアの演奏で観客に何を伝えようと思っていますか?」
突然の問いかけに、楽団員は互いに顔を見合わせる。レオンシュタインの視線が、コンマスの隣で演奏していた顔見知りのカウリに向けられる。
「じゃあ、カウリさん」
「やっぱり悲劇だと思います」
うんうんと頷きながら、レオンシュタインはその隣の人たちにも尋ねていく。ほとんどが悲劇だと解答していた。レオンシュタインは頷きつつ、その通りだと頬の横で指を振る。
「そうですね。これはオフィーリアの死を悲しむ曲だとみんな思っています。けれども」
何を言い出すのか分からずに、みんなは固唾を飲んで見つめていた。カウリに楽譜を持ってきてもらうと、レオンシュタインは音を鳴らしながら楽団員たちに講義を始める。
「第3楽章のこれらの部分。ここは悲劇とするのは自分は納得できないんです。この楽譜に書かれた数字の3がずっと気になっていました。他のエイゼンスキーの楽譜を見ていて気がついたんです。ここは音を3つ上げるんじゃないかって」
そういってバイオリンを弾く。
「ほら、いろんな部分に明るさや愛しさが出ますよね。音が上がるんですから。作曲者のエイゼンスキーは生涯で2作品だけ、音を上げても演奏が成り立つ楽譜を作成しています。その2つにも数字が書かれています」
あの膨大な楽譜を全て調べたというのか、と楽団員は驚愕の表情となる。その解釈に矛盾はない。
「これは悲劇の曲じゃないんです。悲劇を乗り越えるほどの愛が曲想の後ろに隠されています。エイゼンスキーはその素晴らしさを発見して欲しいという願いを込めて作曲したと思いますよ」
そういってサビの部分を弾き上げると、その音色の素晴らしさに楽団員たちの顔が思わず綻んでしまう。
「そう、その顔です。私は観客に、そんな顔をしてもらいたいと思っています。楽譜の変更は私だけです。リラックスしながら演奏を楽しみませんか?」
楽団員たちは笑顔で大きく頷いている。聞いたこともない独創的な考えに楽団員たちは圧倒されたが、レオンシュタインの解釈が間違っているとは誰も思わなかった。その後にアルトナルは続ける。
「新しい解釈で演奏できるとは。演奏家冥利に尽きるな、みんな」
「おう!」
ニコニコしながらレオンシュタインはその様子を眺めていた。その時、扉が開き、出番がやってきたことを告げられる。
「もう時間ですね。みなさん、素晴らしい音楽の時間を過ごしましょうね」
レオンシュタインは声を投げかけた。
「はい!」
答える楽団員の顔にもう馬鹿にしたような表情はなく、むしろマエストロに答えるような真剣な表情を浮かべていた。全員に合図をしたアルトナルは、ゆっくりと会場へ歩き始めるのだった。




