第85話 楽団員への挨拶
王国歴162年12月15日 夕方 ヴィットリア=コンサートホールにて――
会場に入ると、ちょうどフラプティンナ姫の演奏が始まるところだった。会場に案内され、最後列の席をすすめられた一行は黒ビロードの座席に腰を下ろしていた。遥か遠くに姫さまが演奏しているのが見え、難しい曲にもかかわらず美しい音が最後列まで響いている。
(凄いなあ。オーケストラに全く物怖じしていない)
そう思った瞬間、レオンシュタインは一瞬オーケストラの音に首をかしげる。ただそれは一瞬で、また素晴らしい演奏が続いていった。会場が素晴らしい音楽に酔いしれている中、突然、レオンシュタインは後ろから肩を叩かれる。
「レオンシュタインさん。そろそろ、控え室の方へご移動ください」
その声を聞いたレオンシュタインが立ち上がるとティアナも同時に立ち上がり、レオンシュタインの服の襟を直す。いつもの灰色のチュニックではなく、演奏会のために買っておいた白いシャツと黒いベスト、黒いズボンを身につけていた。
そのおかげでいつもよりもほっそりとしたシルエットに見える。
「レオン、いい音を聴かせてね」
襟を直し終わったティアナは明るい声でパンとレオンシュタインの肩を叩く。一行が思い思いに励ましの声を掛ける中、係の人について会場を後にする。
(みんなのためにも、いい演奏にしたいな)
姫さまの演奏を頭の中で再現しながらレオンシュタインは控え室まで移動していく。控え室には誰もおらず、掛かりの人に演奏が終わったら団員が来ることを知らされた。しばらくお待ちくださいと頭を下げた係の人は、すぐに出て行ってしまった。
見送ったレオンシュタインは、すぐにバイオリンをケースから取り出し練習を始める。30分ほど練習を続けていると、部屋にたくさんの楽団員がなだれ込んできた。
演奏をやめたレオンシュタインが所在なげに立っていると楽団員のカウリがその存在に気付く。
「あっ! レオンさん」
笑顔でレオンシュタインはカウリに手を振る。すぐざまカウリはコンマス(コンサートマスター)にレオンシュタインのことを紹介した。40台後半とおぼしき、顔に厳しさを覗かせた紳士がレオンシュタインに近づいてくる。
「私はコンサートマスターのアルトナルと申します。どうぞ、よろしく」
「私はレオンシュタインと申します。レオンと呼んでください。師はエックハルトさまです」
にこやかな笑顔で差し出された手をレオンシュタインはがっちりと握る。
「私もエックハルトさまの弟子です。3年ほどでしたが」
エックハルトさまに教えを受けられるのは貴族、そして才能に溢れた者だけだが……とアルトナルは考え込む。その時、突然、アルトナルは師に言われた言葉を思い出した。
――「弟子の中で最も輝く才能は、間違いなくシュトラントから昇ってくるだろう」
「マエストロ。それはいったい?」
「すぐに分かる。あの音は隠そうにも隠しきれんからな」
師は確かシュトラントと言っていたとアルトナルは思い出すが、目の前の小太りの男がそうだとはとても思えなかった。軽く頭を振って自分の考えを打ち消す。
「ではレオンさん、早速オケのみんなに挨拶を」
けれども、レオンシュタインはその前にしておきたいことがあると早口で伝える。
「あ、あの……実は、オフィーリアの楽譜を見たいのです」
少し驚いたアルトナルだったが、それはすぐに失望に変わる。バイオリン協奏曲でも特に難曲として知られるオフィーリアは、今から楽譜を見たとしても、どうにもなるまいと思ったのだ。
「レオンさん。オフィーリアは、その……難しい曲ですよ?」
言外に再考を促したつもりだったが、レオンシュタインは全く気がつかない。
「はい。ですので、一度確認しておきたいのです」
違和感を感じながらも、アルトナルは楽団員の一人にオフィーリアの楽譜を持って来るように話す。その楽団員はひゅうと口笛を吹いて、みんなに演奏曲名を伝えていた。
「おい、みんな。どうやら俺らはオフィーリアをやるらしいぜ」
楽団員たちは一斉にざわつき始めた。
「おいおい。まさかのオフィーリア……」
「いるんだよな。身の程を知らない演奏家が」
「ソロ、できんのかね?」
「まあ、できなきゃコンマスがやるよ。弾く真似だけしてもらえばいいんじゃね」
散々に言いながらも一流の楽団員である彼らは、それぞれが練習を始める。
「コンマス。オフィーリア、持ってきました」
分厚い楽譜をアルトナルに手渡すと、それをそのままレオンシュタインに手渡した。
「どれくらい譜読みにかかりますか?」
楽団員の休憩は1時間で、練習に当てられるのは45分程度だ。普通、オフィーリアの譜読みは自分でも20分ほどかかる。
「5分くらいですね」
えっ? と振り返ったときには、レオンシュタインは楽譜を読み始めていた。
(速い!)
めくるスピードが尋常ではなく、初めて見たという感じではないことに少しだけ安堵する。自分の記憶が曖昧なところだけを確認したレオンシュタインは、3分ほどで終わってしまった。笑顔のまま、楽譜をアルトナルへと差し出す。
「ありがとうございます。では、練習に入りましょうか」
「わ、わかりました。」
アルトナルがレオンシュタインを楽団員の前に連れて行くと、その瞬間に音がぴたっと止まる。
「今日、私たちと演奏してくれるレオンさんだ」
「よ、よろしくお願いします」
内心の失望を隠しながらも楽団員たちは笑顔で挨拶を返した。
「すごいね。オフィーリアなんて」
「ソリストなんですか?」
「自信があるんですね」
ニコニコしながらそれを聞いていたレオンシュタインは、アルトナルにみんなに伝えたいことがあると切り出した。何だろうと思いながらも、アルトナルはそれを許可する。
「先ほどの演奏、とても素晴らしかったです。さすが世界一と言われるバルタザル交響楽団ですね」
何だ……お世辞で俺らの歓心を買うつもりかと楽団員たちは内心で苦笑する。けれども、次の言葉が彼らの表情を一変させてしまうのだった。




