第80話 船出前
王国歴162年12月1日 ユラニア王都 港に向かう街道上にて――
移動中に馬車を止められるようなことはなかったが、冷たい風が顔に吹き当たるため荷台の中で寒さを凌いでいた。街道沿いの風景は荒野だったり牧草地だったりしたため、遮るものが何もない。そんな中、イルマは剣の訓練に明け暮れ、ティアナは魔法の練習に取り組んでいた。
フリッツは随行員との会話からグブズムンドルに関する情報収集に余念がなかったし、バルバトラスは読書三昧となっていた。ただヤスミンの顔色はずっと冴えなかった。レオンシュタインが話しかけても、短い返事しか返ってこない。
もともと言葉が少ないのに、ほとんど黙るようになっていた。船中できちんと話をしようと、レオンシュタインは心に決めるのだった。
夕食のパンを囓っている時、話の流れでレオンシュタインはグブズムンドル帝国の人たちに演奏を披露することになってしまった。レオンシュタインがバイオリンの準備する姿を眺めながら、ヴィフトはある程度の演奏はできるだろうと予想していた。エックハルトの弟子は、かなりの腕前をもつ者しか選ばれない。
(それでも、こんな所を放浪していた人物だ。たいしたことはないだろう)
態度には出さなかったが、ヴィフトの笑顔には儀礼的なものが混じっていた。けれども一曲目が始まった瞬間、その認識が甘かったことに気づかされる。
(今まで聞いたことがないくらい素晴らしい音の響き。情景が浮かぶほどの表現力と美しい音色)
ヴィフトは一人、大きな感動に包まれていた。同時に警備主任のヨークトルまでも感情を揺さぶられていた。
(俺は今まで音楽に興味を持ったことはない。それなのに、こんなに胸が苦しいのは何故だ? この音は俺に昔を……)
貧しい漁師の家に生まれたヨークトルは、幼少の頃は留守番で寂しい思いをすることが多かった。けれども、両親が漁から帰ってきたときの安堵感や食事の美味しさ、家の楽しさは今でも大切に心の奥にしまい込んでいた。
それをそっと目の前に引き出すかのようにレオンシュタインのバイオリンが響いてくる。最後のフレーズを弾き終わったとき、ヨークトルは拍手をすることができず俯いたままだった。あの懐かしい我が家を思い出すと、自分の親不孝が身にしみた。部下たちの手前、涙を見せることは許されなかったがトイレに立つと中でこっそりと涙を流した。
(帝国騎士団副団長ともあろうものが……)
けれども久々に流す涙は、なかなか止まってはくれないのだった。
他の護衛たちも同様に心を揺さぶられていた。
(俺たちが? 音楽で?)
けれども、レオンシュタインのバイオリンは容赦無く心の中に入り込んできた。30分ほどの演奏が終わると全員が立ち上がって拍手をする。恐縮するレオンシュタインだったが、しばらく拍手は鳴り続く。レオンシュタインに近づいたヴィフトは、その手を両手で握り力を込める。
「素晴らしい、素晴らしい演奏でした。これが毎日続くのであれば、お金を支払わなければなりませんね」
丁重にそれを断ったレオンシュタインは、気に入ってもらえて嬉しいとみんなに思いを伝える。その音楽のおかげでグブズムンドル側とレオンシュタイン一行の距離がぐっと近づいたのは確かだった。
移動の6日間は天候に恵まれ、馬車は順調に進んでいった。港に到着した日、大粒の雪が降ってきたけれど、その日は宿に泊まることになっていたので寒さに震えることもなかった。
「ああ、久しぶりにフカフカのベッド」
ベッドに飛び込み、ティアナは素直に喜んでいた。慣れたとはいえ、やはり野宿は辛い。上着を脱いだイルマは、白麻の下着1枚でくつろいでいる。ヤスミンはというと、何となくぼんやりとしたまま港を眺めていた。
一方、フリッツは馬車を船に積み込む様子を眺めていた。明日乗船する船は130フィート(約40メートル)もある巨大なもので、港に横付けされている大型船が小さく見えるくらいだ。その船にフリッツの馬車が丁寧に積み込まれていく。
(何だか申し訳ないな……あんなに丁寧に)
馬車はよく見ると修繕の跡が遠くからでも見分けられ、幌に傷が目立ち、色もくすんだ黄色になっていた。でも、フリッツは自分の馬車を誇らしく思う。
(みんなの命を守ったんだ。いい馬車だ)
また、馬がゆっくりと引かれて船倉に移動していく。すぐに馬のそばへ走り寄ったフリッツは、船員と共に乗り込ませる作業に従事するのだった。相変わらず馬はおとなしく、フリッツに顔を近づけてきては甘える仕草を見せる。
(お前もありがとう。もういい年なのに頑張ってくれて。今度は遙か海の向こうまで行くのか)
船中では、馬と過ごそうとフリッツは決めるのだった。




