第75話 王都へ
王国歴162年11月15日 朝 コムニッツ公爵領 クラウスの宿の前にて――
翌朝は盛大な見送りにしようと、従業員たちが飾り付けの作業に余念がなかった。徹夜で作ったというメイドたちの横断幕が宿の2階に誇らしげに広げられている。
『世界一のバイオリニスト、レオンシュタインさま、ご出立!』
白地に大きく書かれた黒い文字が、嫌でも目に入ってくる。頬が赤らむのを感じたレオンシュタインだったが、同時に胸の奥に暖かいものが流れてくるのを感じる。
レオンシュタインの姿を見つけたメイドの一人は、こっそりと手紙を渡そうとする始末だ。それに気付いたヤスミンによって、すぐさま手紙は抜き取られる。
「隠滅する」
そのメイドはなかなか諦めが悪く、第2、第3の手紙を手渡そうと何度も近寄ってきた。そして邪魔をしているヤスミンを睨み付け、口撃を開始する。
「ファンレターを妨害するなんて了見が狭い召使いね!」
「召使いじゃない」
「じゃあ、何?」
憤慨していたヤスミンは言葉に詰まり、手を顎に当てる。自分はレオンシュタインの何なんだろう? ヤスミンの様子が変なことにレオンシュタインは気付いたけれど、支配人が離してくれない。
「レオンシュタインさま、いつでも我が宿にご逗留ください。首を長くしてお待ちしております」
握手が固い、固すぎる! 手は痛むが、レオンシュタインは感謝の眼差しで支配人を見つめていた。辺境伯の捜索から逃れ、沼のそばに潜み、疲れ切った身体と心を癒やすことができたのはクラウスの宿のおかげなのだ。しかも、これまで常に感じておいた金銭的な不安が解消している。
「支配人、必ず演奏に来ます。約束しますよ」
宿の人たちはレオンシュタインの姿が見えなくなるまで、ずっと旗を振って見送ったのだった。
「ねえ、また全員であの宿、泊まろうね!」
悲しみを隠すように元気な声でティアナが提案すると、イルマもそれに賛同し、珍しいことにヤスミンまでうなずいていた。馬も十分休息がとれたようで楽々と荷台を引いて歩く。バルバトラスやフリッツも顔に笑みを浮かべながら馬車の横を歩く。
前途は明るいという予感が全員の胸に溢れていた。
ただ風が鼻の奥がつんとするような感じになってきた。水たまりに薄い氷が張るようになり、雪がちらつく日が多くなってきた。
「やはり防寒具が必要ですね」
そう話しながら、このまま北に向かうのはオススメしないのだが……とフリッツは冷静に考えを巡らせていた。あと少しで本格的に冬になり、雪が積もれば馬車は役に立たなくなる。雪中を歩いて旅することは命に関わる。
バルバトラスも同様の懸念を抱いていた。確かにユラニアの王都には優れた演奏家がたくさんいるだろうが、何も冬に行くことはない。物価が高く、治安も悪い王都に行くより、物価が安く安全な場所に行くのがよいのではないか。けれども、ユラニア王都を一目見たいというレオンシュタインの決意は変わらなかった。
世界最大の王都には、何か素晴らしいものがあるはずだという思いが彼の行動原理となっていた。それに、王都ならティアナの仮面も取れるはずだ。それを聞いた2人は、もう反対はしなかった。これも宿命かもしれないとバルバトラスは考え直す。
「ま、兄ちゃんが行きたいところに俺も行くよ」
陽気に口笛を鳴らしながらバルバトラスは答える。様々な懸念を考慮し、フリッツはなるべく早く王都へ到着できるように街道を外れ、国境へ向かうルートを目指していた。
小さな町で全員分の防寒具を購入し、馬車は一路ユラニア王都へと走る。
§
温泉宿を出発して2週間が過ぎ、ついに王都への入り口が目の前に見えてきた。王都への街道は黄白色の石が並べられており、ユラニア王国の財力の豊かさを感じさせるには十分だった。ただ、石の周りには草が生え、手入れが行き届いていないことが分かる。
うっすらと積もった雪の上に雑草が生い茂る様は、その財力に陰りが見え始めていることの証左だった。
「何だか思ってたのとは違うね」
みんなが思っていたことをティアナは口に出してしまう。王都はもっと華やかだと思っていたのに、街道の両側に見える牧場や家は寂れているように見える。
「自分も初めて来たけど、こんな感じなのかな?」
落胆した声を発しながらレオンシュタインは辺りを見回している。
「ま、美味しいものがあれば何も文句はないけどね」
辺りを警戒しながらイルマは励ます口調になる。寒さが厳しくなってきたせいか、馬車の往来は少ない。ただ、家財道具を抱えた家族が何組も城門から出てくるのが目についた。
遥か遠くに王城の塔が見える。




