第70話 受難曲
「レオンさん、一つお願いがあります」
ゆっくりとフリッツに視線を移したレオンシュタインは、その願いを尋ねる。
「讃美歌320番を弾いてもらえませんか?」
断る理由も無く、レオンシュタインはバイオリンを取り出し、賛美歌320番をゆっくりと弾きだした。以前、教会で子どもたちに聞かせた時より小さな音で弾いたため、さらに心に染みこむような悲しい音になる。
「私は昔、ある伯爵家に仕えていました。赤字で破産寸前の財政を立て直すために呼ばれたのです。私は全力で頑張りました。自分の力を発揮させ、伯爵家を立て直すことがよいことだと単純に信じていました」
フリッツの目に焚き火の明かりが揺れて映っていた。
「けれども伯爵家の財政を改善させても、住民たちの暮らしは苦しいままでした。私は貧乏男爵家の次男ですので、その辛さがよくわかります。伯爵家は税金を多くしなくてもやっていけるのに、いつの間にか以前と同じ税を徴収していました」
フリッツの顔が悲しみに歪む。
「私の婚約者は、とても可愛らしく優しい人でした。私にはもったいないくらいの」
確かフリッツは喪男だったはず……。そう思いながら、レオンシュタインはバイオリンを弾き続ける。
「同じく貧乏男爵家の三女でした。特に問題なく私と婚約を済ませ結婚を待つばかりでした。けれども私の婚約者が伯爵家の長男の目にとまったのです」
「当然、彼女の男爵家では私と婚約していると断ってくださいました。けれども、伯爵家は全く聞く耳を持ちません。私が屋敷に仕えているのを知っていたはずなのに強引に話を進めました。もしかしたら私を煙たがっていたのかもしれませんね」
小さな声なのに、レオンシュタインの耳に明瞭に聞こえてくる。
「伯爵家が圧力をかけ始め、婚約者の男爵家では次第に断りきれなくなりました。それでも婚約済みであるとの立場はずっと守ってくださいました。すると行儀見習いではどうかと伯爵家は態度を軟化させました。それならばと3ヶ月間、行儀見習いとして婚約者が奉公に出されたのです」
「行儀見習いに行ったその日、私は婚約者に会いました。久し振りの再会を喜び、行儀見習いが終わったら結婚しようと約束をしました。笑顔で手を振りながら別れたのです」
「それが、婚約者との最後の会話になりました」
薪が崩れ、空に火花が舞い上がる。しばらく、誰も何も発言をしなかった。
「その晩、婚約者は長男に夜伽を命じられ、婚約者は話が違うと激しく抵抗したそうです。けれども強引に事を進めようと伯爵家の長男は迫り、ついに窓際に追い詰められた彼女は、その窓から身を投げたのです。どんなに……、怖かったことでしょう」
周囲を警戒していたイルマは木の陰に背をつけ顔を背けてしまう。
「翌朝、私は彼女が亡くなったことを知らされました。間違って窓から落ちて亡くなったと。私は信じませんでした。すぐに安置されている場所に赴くと彼女の両親が彼女を抱きかかえながら号泣していました」
「私はその場から一歩も動けませんでした。昨日、彼女と話したんですよ。結婚の日取りも約束したんですよ。なぜか、そんなことが次々と頭に浮かんでくるのです。すると、彼女のお父さんが私に寄ってきて言うのです」
「フリッツくん、娘のアンゲリカは事故だったんだよ。決して伯爵に迫られたからではないからね」
その瞬間、私は自分の手を握りしめました。そう、血が出るくらいに。
「私は全てを悟りました。お父さんは私に真実を教えてくれたのです。誰もが真実を隠し伯爵家の家来が聞き耳を立てている中、それだけが伝える方法だったのです。伯爵家に遠慮しているようにしか、あいつらには聞こえなかったでしょうね」
「それを聞き、私はようやく彼女の側に行くことができました。変わり果てた姿を前に涙は出ませんでした。ムカムカと吐き気がし、あまりに悲しすぎて、自分がどこにいるのかさえわからなくなっていました」
膝を抱えたフリッツの手に力が込められる。
「やがてお父さんとお母さんが遺体を引き取り、領地に戻って行きました。私はそれをただ人ごとのように眺めていました。伯爵家では全く何もなかったかのように、その日が過ぎていきました。私の婚約者が、最愛の人が亡くなっているにも関わらずです。その怒りは何日も続き、仕事を全くしなくなった私は、伯爵家から暇を出されました」
「私は復讐を誓いました……」
その声は暗い闇の中から響いてくるかのようだった。
「その後、私は自分の男爵家を出奔しリンベルクで自堕落な生活を送りました。けれども、どうしても彼女を忘れることができないのです。そんな私を見かねてケスナーさんは旅行をしたらどうかと提案してくれました。旅行をしながら稼げるように馬車屋を開くことにしました」
「私は旅でいろんな場所に行きました。そして、たくさんの景色、たくさんのグルメ、たくさんの女……。けれども、私の心の闇は晴れないのです。もうアンゲリカはこの世にいないのですから」
「教会にも毎日のように通いました。汝の敵を愛せ、と。私は……私は……どうしても愛することができないのです」
レオンシュタインは賛美歌320番から受難曲39番『憐れみたまえ、我が神よ』に変える。
レオンシュタインのバイオリンは多くのことをフリッツに伝えようとしていたけれど、それはフリッツの心には、ついに届かなかった。
「私はあの男を殺すために生きています。それが婚約者への愛だと……信じています……」
いつものフリッツとは違う人がそこに座っていた。
「でも、私は揺れるのです。みんなと旅をするうちに復讐よりも自分が幸せになって、天国のあいつに報告できれば、と。でも、それは正しいことなんでしょうか? レオンさん。私、間違っているんでしょうね?」
そこまで話すとフリッツは背を丸めて顔を伏せ、肩を震わせながら声を出さないように泣き始める。
その様子を見ながら、レオンシュタインはさらに心を込めて弾き続ける。
木の陰に隠れていたイルマは、誰にも見られないように涙を流していた。フリッツの過去が悲しすぎて、かける言葉が見つからない。木の上で警戒していたヤスミンは、フリッツの物語を聞くまいと思っても耳に入ってしまう。なるべく遠くを眺めるようにして、涙がこぼれるのを防いでいた。
バイオリンはずっと静かにフリッツの肩を抱くように鳴り響いた。
今日は星がやけに高く、遠くに見える。誰もがどうしようもない気持ちを抱えながら生きている。
その事実がレオンシュタインには、やりきれないほど悲しかった……。




