第104話 潜入
公爵家の財政が急激に悪化したのは3年前に遡る。今の執事が公爵家に仕え始めたのが4年前で、就任した年には大幅な財務改善を達成していた。翌年は水害に見舞われたために財政が大幅に悪化し、さらに翌年も水害地域の復興にお金がかかっていた。
金が足りなくなると高金利の商人から借りるしかなく、さらに財政が悪化するという悪循環が続いているのが現状なのだ。
王国歴163年1月23日 午後7時 カハトラ公爵の館にて――
すでに夜の10時を過ぎていた。息も凍るくらいの冷たい廊下をヤスミンは音もなく歩いて行く。黒ずくめの衣装のため、陰がゆらゆらと揺れているような印象を受ける。
『探知』の魔法を使い、ヤスミンは執事のいる場所を見当付けていた。
周囲に注意を払い2階への階段をのぼっている執事を見つけると、気付かれないように後をつける。音を立てずに歩くのはヤスミンにとってはお手の物で、気配を感じさせなかった。執事は時折、後ろを振り向くものの、ヤスミンには全く気がつかなかった。
帳簿を保管している部屋に執事がたどり着き、何度も左右を確認すると、鍵をポケットから出し、扉の鍵穴に差し込んだ。ガチャリと大きな音を立てて、扉が開いていく。急いで部屋の中に入った執事は、すぐに扉を閉めようとする。
扉が閉じられるまでのわずかな時間を狙い、『影足』を使ってヤスミンは室内に潜入した。魔法『影足』は最大5m、誰にも気付かれずに動くことができる。部屋の窓際まで進んだ執事は、窓を開いて軽く手招きをする。しばらくすると窓の縁に指が掛かるのが見え、次の瞬間二人の男が窓を越えて室内に入ってきた。
(フリッツ……)
気を引き締め直したヤスミンは、執事から離れた部屋の隅で気配を消す。薄暗い部屋の棚に音もなく登り、低い姿勢で3人の男たちの会話に耳をすました。
「まさか勅命とはな」
「もう少しでしたがね」
忌々しげに吐き捨てた執事をなだめるように大男が答え、小男もそれに続ける。
「金の運び場所も変えた方がいいかもしれねえな」
「まあ、そっちは急がなくていいだろう。黒い森に好き好んで行く奴はいねえよ」
普段とは違った乱暴な口調……これが執事の本性だった。隣に立つ大男は片目に傷があり、肩の筋肉が盛り上がっている。その男は周囲が気になるらしく、盛んに視線を動かしている。
「何か、気配を感じねえか?」
片目の大男は、何度も訝しげに周囲を見渡すが何も見つけられない。隠れていたヤスミンの心臓がギュッとする。
「気のせいだろ。こんなところに誰が来るっていうんだ?」
執事は気にせず必死に棚から帳簿を取り出し、目当ての帳簿を探していた。
「気のせいか……」
頭をかきながら大男は入口のドアの付近に立ち、誰も入ってこないよう警戒を始めた。目当ての3つの書類を探し出し、満足そうにしている執事に向かって、小男も2つの書類を見せる。執事が邪悪な笑顔を見せる。
「じゃあ戻るか」
執事は3つの書類を小男に渡し、小男は5冊を重そうに抱え直す。このまま外に出られるとマズイ! 執事の後をついていこうとした小男に狙いを定めたヤスミンが行動を開始する。音を立てないように壁を蹴り、自分が載っていた本棚を傾ける。
「うわ」
迫ってくる棚に焦った小男が手を上げて身を守ろうとした瞬間、5つの帳簿が下に落ちる。
(今だ!)
影足を使ったヤスミンは5つの帳簿を全てを拾い上げ、すぐに死角の部屋に入っていった。その瞬間ドスンと大きな音を立てて2つの帳簿棚が倒れてしまった。
「痛え! 助けてくれ!」
大男がすぐに倒れた棚に近づき、棚を持ち上げて壁に押し当てる。床を見ると棚から落ちた帳簿があちこちに散乱しており、執事と大男は肩をすくめて溜息をつく。
「おいおい、また探すのか……」
ぶつくさ言いながら棚に本を戻している間、隣の部屋ではヤスミンが奪い取った帳簿の表紙を付け替える作業に取り掛かっていた。執事たちは5冊の帳簿がないことにすぐ気付くだろう。見つからなければ潜入が間違いなくバレる。
(んん)
急いで帳簿の紐を外そうとするのだが、固く結びつけられていて中々取れない。小さく悪態をつきながら作業を続行する。隣の部屋では小男の怪我は後回しにされ、執事と大男が5つの帳簿探しに必死になっていた。
「くそ、なかなかねえな」
「見分けやすい色にしとけばよかったな」
関係のない帳簿を元の棚に戻しつつ執事たちは悪態をつく。
「ここまで見つからねえのも、おかしくねえか? 」
もうほとんどの書類を棚に戻したというのに5つの書類だけが見つからない。
(できた!)
ようやく表紙の換装を完了したヤスミンだったが、相手も棚に全てを戻してしまった。
(こうなったら)
影足を使ったヤスミンが思い切り入口のドアを蹴ると、扉は『ギイッ』と音を立てて半分ほど開く。大きな音の方を睨み付けた大男は、腰の剣を抜いて用心しながら扉へと向かっていった。執事も扉の方に意識を取られた瞬間、ヤスミンは最後の影足を発動させ小男の尻のあたりに全ての書類を置き、そのまま隣の部屋にかけ戻る。
(はあ、はあ)
連続して『影足』を唱えると、いつも息が切れ体中に痛みが走る。まして魔力が切れ、体力的にも限界が近いヤスミンだった。気配を消そうと試みるが、どうしても乱れた呼吸音が消せない。
(整えろ。大男がやってくる)
必死に棚の上に登ると、息を整えようと身体を小さくまとめるのだった。
「ちくしょう、いねえ。もしかして室内に潜んでるんじゃねえか?」
部屋に戻って来た大男の怒鳴り声を聞いて、執事も警戒のため短刀を抜く。棚が倒れた部屋をくまなく探した二人は、次にヤスミンの隠れている部屋に入ってきた。
「やはり気配がする」
剣を構え直した大男は執事に声をかけ、左右から部屋の中を探し始める。必死で息を整えるヤスミンだったが、呼吸音がどうしても消せない。少しずつ二人がヤスミンの登っている本棚に近づいて来る。太ももに隠しているナイフに手を伸ばしたヤスミンだが、今の状態では戦えそうにない。
ついにヤスミンの登っている棚の前に二人が立ち止まったのだった。




