皆既月食の夜
皆既月食まであと三日。魔王国が王女セレンディナの誘拐を目論むカウントダウンは既に始まっていた。
「ルネ、本当にわたくしの身代わりになるつもりなの?」
絹のように滑らかな輝きを放つ金髪。サファイアと見紛う青い瞳。国中から愛される少女が眉尻を下げ、申し訳なさそうな表情で目の前の人物に語りかけた。
「他にアナタの代わりを務められる高貴な人間がいる? 私だけよ」
ふん、と声高らかに言い放つのは、ルネ・フィオドール。傍から見れば、共にティータイムを楽しむ二人の少女はよく似ていた。
それもそのはず、王妃であるセレンディナの母親とフィオドール公爵夫人であるルネの母親は双子なのだ。その為、従姉妹同士のセレンディナとルネも顔の造形がそっくりだった。
しかし見分けは簡単につく。セレンディナが柔らかな色合いの金髪であるのに対し、ルネは燻したような銀髪。セレンディナの瞳をサファイアと称するなら、ルネはアイオライトといったところか。とりわけ違うのはその表情だ。
「でも、とても危険だわ。だって相手は魔族なのよ」
セレンディナが気弱な表情のままティーカップに視線を落とす。対するルネは勝ち気な表情でティーカップを持ち上げた。
「危険だからこそ、アナタの身代わりが必要じゃない。家臣として当然でしょ? それに、もう決まったコトよ」
「ルネは一度、わたくしの身代わりになってる。それなのに、また身代わりになってほしいなんて言えないわ」
幼い頃二人で遊んでいた時に魔族に遭遇した時のこと。セレンディナを庇い、呪いを肩代わりしたルネの背中には複雑な模様を描いた痣がある。
「あのねえ。何度も言うけれど、そんな昔のコトをいつまでも引っ張らないで。アナタが無事である方がよっぽど重要なのよ」
セレンディナはいずれ王国を導く身。彼女の命の安全は最優先されなければならない。
(それに、私が身代わりを申し出た時、お父様とお母様、お兄様は喜んでたわ。よくやったって)
身を呈して王女を守ってこそ忠臣。ルネの活躍は公爵家の活躍そのものだ。
(まあ、そうよね。お兄様がいるから後継の心配は無いし、呪い持ちの私に縁談なんて来ない。これくらいしか役に立たないもの)
家族ですらルネの身より功績を優先する中、セレンディナだけが己を心配してくれた。
昔からそうだ。心優しい彼女は人の痛みを自分のことのように感じてくれる。
だからルネはセレンディナが好きだった。家族よりも愛し、慈しんでくれる彼女をルネも敬愛していた。
(セレが私を気にかけてくれるだけで、それだけで十分よ)
セレンディナに気づかれぬよう、そっと口元に笑みを浮かべる。
(セレ、アナタは本当に優しい。けどね、君主になるならその優しさは時には捨てなければならないわ)
国の為を思うならば、従姉を身代わりの贄として差し出すことに躊躇いを感じてはならない。
「心配しないで。既に魔王国から脱出するプランを五通り、別のプランへの途中変更も含めると二十五通りほど考えてるの」
「本当に? 魔王国から無事に脱出できるの?」
「当たり前じゃない。私を誰だと思ってるのよ。ルネ・フィオドールにできない事なんかないわ」
はったりだった。魔王国を覆う黒い毒霧、魔障を越える手立てなど見つかっていない。けれど、セレンディナには気取られぬよう誇ったように笑って見せる。
ルネとて魔族を欺き、その懐に飛び込むことに恐怖が無いわけではない。だが自身の選択に後悔はしていなかった。
これでやっと、あの日の罪滅ぼしができるのだから。
(……いいえ。罪滅ぼしなんて一生できない。これでもまだ足りないわ)
セレンディナとの話を終え、王宮を後にするルネ。ルネに好意的なのはセレンディナと両陛下だけで、他は皆彼女を恐れた眼差しで見つめる。
とはいえ、さすがは王宮に勤める人間。ルネが「呪われ姫」だからといってそれを態度に表す者はおらず、他の客人と同じように接する。
ルネの呪いがセレンディナを庇った故であることは機密事項だった。王女が魔族に狙われるなど言語道断だというのに。
(魔族め、何が『赤い月が昇る夜、美しい姫を迎えに行く』よ!!)
ひと月前に突如送られてきた手紙。王女誘拐の予告に王国はたまらず混乱に陥った。その予告された「赤い月が昇る夜」、即ち皆既月食の日がもうそこまで迫っている。
当日国王は国中の兵をかき集めて城を守り、愛する婚約者を心配した隣国の王子までもが姫のために駆けつける。それでも誰もが不安を拭えずにいた。
だからこそルネの身代わり作戦だ。セレンディナは隣国の王子と共に安全な場所へ隠れ、ルネがセレンディナの部屋で魔族を待ち伏せる。部屋の外では衛兵が待機し、魔族が現れた途端に捕縛する。そういう手筈だ。
(絶対にセレを攫わせたりしないわ)
そしてもちろんルネ自身も魔族に嫁ぐつもりなどない。もし魔障を抜けられず、そのまま魔王国の花嫁になるくらいなら舌を噛み切って死ぬ方がマシだ。
ルネが魔族の手から抜け出すチャンスがあるのは、魔障が完全に消滅する皆既月食の最中だけ。月食が終われば満月が戻り、魔障が弱まる新月まで二週間ほど待たなくてはならない。
二週間も魔王国で過ごすなどごめんだ。おまけに魔障が最も弱まるからといって越えられるとも限らない。
何より、呪われ姫が攫われたところで誰も助けには来ないだろう。
助けが来ないことは別にいい。今に始まったことではないし、こちらを気にかける暇があるならセレンディナを優先してほしい。
(自力で逃げ出すしか無いわね……けど、身代わりとはいえ一度でも魔族に攫われた私は傷モノになるのだし、逃げ出した後の生活も考えないと)
王女の身代わりだ。無事魔族からセレンディナを守れた暁には謝礼金がたっぷりと支払われる。当分生活に困ることはないが、公女としては生きていけない。
呪い持ちでも受け入れてくれる修道院を探さなければ。
(ま、今考えても仕方ないわ。まずは魔族をやり過ごさなくちゃね)
──一日一日が過ぎるごとに王国の空気は張り詰めているようだった。
とうとう迎えた皆既月食の日。朝から至る所で兵士が辺りを険しく睨みつけ、魔族に怯えた民はほとんど外に出て来ない。
「少し緊張してきたわね」
じりじりと迫る夜に向けて、ルネも王宮で準備をしていた。セレンディナのドレスを着て髪を下ろし、姿形をなるべく彼女に近づける。その様は、薄暗いところで見ればどちらか分からないほどに似ていた。
「どう? 完璧でしょ?」
ふふん、と自慢げに自身の姿を見せびらかすルネをセレンディナが酷く不安な表情で見つめる。
「本当に大丈夫なの?」
「大丈夫だと言ってるでしょ! 私のことより自分の心配をなさい。全部終わるまで絶対に姿を見せたら駄目なんだから! いいわね!」
そろそろセレンディナも隠れなくては。婚約者の王子が迎えに来ても心配そうにルネの手を握るセレンディナを、ルネは半ば強引に部屋から押し出した。
「まったくもう。どれだけ心配性なのよあの子は。そういうところは、昔っから全然変わらないわね」
呆れた様子で言いながらも、ルネの口元は微かに笑みが浮かんでいた。
夜がもう、すぐそこまで迫っている。
日が沈み、満月が王国の空へと昇る。誰もが空を見上げては、来たる時を覚悟して唾を飲んだ。
ルネもそわそわと部屋の中を歩き回る。本当に魔族がここへ来るのだろうか。
(セレンディナはちゃんと隠れた? 本当に上手くいくかしら……いいえ、弱気になっちゃ駄目。城中に衛兵がいるし、絶対に大丈夫よ)
ふと窓の外を見ると、月が欠けていた。月食が始まろうとしている。
(月が……!!)
銀月が徐々に食われていく。満月から三日月へと姿を変え、それと同時に食われた月の縁が赤く染まり始める。
気付かぬうちに手に汗を握っていた。予告通り魔族は姿を現すのか、一体どこから来るのか。心臓の鼓動が早い。部屋に一人きりであることが急に心細く感じた。
(お従兄様……!)
全てが上手くいくようにと両手を握りしめて目を瞑る。その先で、とうとう月が真っ赤に輝いていた。
「──約束通り迎えに来たぞ、お姫様」
耳元で妖しい声がした。跳ね上がる心臓とともに振り返れば、どこから入ってきたのか美しい青年がすぐ傍に立っていた。長く伸びた艶やかな髪。真っ白な肌。そして、皆既月食のように赤く輝く一対の瞳。
(魔族!!)
「衛兵──」
「おっと、騒ぐなよ? あんまりお前に手荒な真似はしたくないんだ」
軽々とルネを抱き上げると、青年は躊躇いなく窓から飛び降りる。ルネが最後に見たのは部屋に駆け込む兵士達の姿だった。
「きゃー!! 落ちる!! 落ちる!!」
「騒ぐなって」
地面に激突することを恐れ、青年の服にしがみついてぎゅっと目を瞑るがいつまで経っても痛みも衝撃もない。閉じた目をおそるおそる開けてみれば、王国が眼下に広がっていた。
「え……飛んでる?」
「モタモタしてると皆既月食が終わるからな。飛ばすからしっかり掴まっとけよ!」
「え? え?」
何も分からないまま夜空を飛ぶ速度が上がる。悲鳴を上げながら青年にしがみつくことしかできず、隙を見て逃げるどころではなかった。




