第9話 退職三日目の完璧な隠居生活
地下深く、ゼロ・ターミナル。
天井のスリット照明が、朝焼けを模した淡い琥珀色の光をゆっくりと広げていく。リリアの環境制御結界が生み出す疑似朝光だ。窓のない地下要塞にいながら、体内時計だけは地上の太陽と同じリズムで揺り起こしてくれる。
ラベンダーの香りを含んだ清浄な空気の中で、シュンはゆっくりと瞼を開けた。
湯たんぽの余熱がまだほんのりと残る羽毛布団の中で、全身が柔らかな繭に包まれている。肌に触れるリネンの滑らかさ、枕に沈んだ後頭部の重み、鼻腔の奥に届くかすかなラベンダー。その一つ一つが、ここが安全な場所であることを身体の芯に教えてくれる。
(……今日も、目覚ましは鳴らなかった)
電信端末の着信音も、ギルバートの怒声も、ここには届かない。
シュンは布団の中で大きく伸びをして、のろのろとベッドから這い出た。
「おはようございます、シュン様〜」
ベッドルームの扉を開けた瞬間、挽きたての珈琲の芳醇な香りが鼻腔を満たした。深煎りの豆を丁寧にドリップした、あの濃密で苦くて甘い香り。続いて、焼きたてのパンの小麦の甘い蒸気が、温かい空気に乗って漂ってくる。
リビングのテーブルには、湯気を立てる珈琲のカップと、狐色に焼き上がったトーストが並んでいた。トーストの表面にはバターが薄く溶けかけ、その隣には苺のジャムを添えた小皿と、半熟の茹で卵が載っている。
リリアがエプロンドレスの裾を軽く揺らしながら、にこにこと微笑んでいた。菫色の瞳が、朝の柔らかい照明に照らされてきらきらと光っている。
「シュン様、今朝もとっても良いお顔で起きてこられましたね〜。ちゃんとぐっすり眠れたみたいで、リリアは安心ですよ〜」
「……ん。ありがとう、リリア」
椅子に腰かけ、珈琲のカップを両手で包んだ。陶器越しに伝わるじんわりとした温もり。一口含むと、深煎りのほろ苦さが舌の奥に広がり、すぐに豆の甘みが追いかけてきた。胃の中に温かいものが落ちていくのを感じながら、シュンは小さく息を吐いた。
(……うまい)
トーストをかじると、サクッと軽快な音を立てて外皮が砕け、バターの風味と小麦の甘みが口の中いっぱいに広がった。苺のジャムを載せたひと切れを頬張れば、焼きたての熱さと果実の酸味が舌の上で溶け合っていく。
「リリア、完璧だ。毎朝これだと、もう一生外に出る必要がない」
「ふふ〜、シュン様がおいしいって言ってくださるだけで、リリアは今日も満点ですよ〜」
リリアが両手を胸の前で合わせて、花が咲くように微笑んだ。
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2杯目の珈琲を半分ほど飲んだ頃、シュンはソファーに移動してサーバーラック横の端末に手を伸ばした。
青と橙と緑のケーブルが直角に美しく結束されたラック群の隙間から、冷却ファンの低い囁きが聞こえる。真空管アンプから流れるチェロの柔らかな旋律が、ラベンダーの香りを含んだ空気をゆるやかにかき混ぜていた。
昨夜、就寝前に電源を落としたオシロスコープサブモニターのスイッチをカチリと入れる。画面が淡い緑色の光を帯びて目を覚まし——シュンは、珈琲のカップを口元で止めた。
公社基幹線の波形が、昨夜とはまるで別物になっていた。
正弦波の面影すらない。鋸歯状にギザギザと乱高下する波形の上を、スパイク状の魔力サージが不規則に跳ね上がっている。振幅は昨晩の三倍以上。波形の谷間には、保護回路のトリップを示す急峻な断崖が何本も走っていた。
(……派手に逝ったな)
シュンは珈琲を一口飲んだ。苦味が喉を通り過ぎていく間に、波形の意味するところが頭の中で自動的に組み上がっていく。変圧器の鉄芯共振が限界を超えて保護回路がトリップ——まではいい。問題は、その後の波形だ。トリップ後に本来かかるはずのフィードバック減衰がまるで機能していない。負荷が隣接ブロックに丸ごと流れ込んで、連鎖的にトリップを引き起こしている。
(そりゃそうだ。減衰を担っていた多重ループ回路を迂回したんだから、止まる仕組みがどこにもない)
設計者の目には、手に取るように分かる。あの回路のどの部分が何を担っていたか、それを外せばどうなるか——全部、シュンが自分の手で組んだものだった。
「シュン」
背後から、温度のない声が降ってきた。振り返ると、シエラが腕を組んでサーバーラックに背を預けていた。琥珀色の瞳に、モニターの緑色の波形が映り込んでいる。
「公社基幹線の異常を検知しました。午前2時14分に第12ブロック変電施設の保護回路がトリップ。以降、第11ブロック、第13ブロックへ連鎖的に波及し、現在も三ブロックが送電停止状態にあります」
「うん。見てる」
「併せて報告します。壁面の外部電信受信ポートに対し、午前5時38分から断続的にパケットが着信しています。送信元は帝国魔電公社・第3運用課の通信回線。内容は未解読ですが、頻度から推測すると——」
「緊急呼び出しだろうね」
シュンは視線をモニターからそらし、壁面の電信受信ポートに目をやった。小さな赤いランプが、チカ、チカ、と規則的に点滅している。公社の通信回線からの着信信号だ。
だが、その信号が呼び出し音を鳴らすことはなかった。シュンが退職前に仕掛けておいたドメインフィルターが、公社のアドレスからのパケットを受信段階で自動破棄している。赤いランプが点滅するだけで、音は一切しない。信号は入口で静かに消え、誰の耳にも届かないまま虚空に溶けていく。
シュンはその赤い点滅を、珈琲を啜りながらしばらく眺めた。
(……ああ、必死に呼んでるんだな)
公社の第3運用課の誰かが——おそらくギルバートの命令で——シュンの電信アドレスに何度も何度も緊急連絡を打っている。だが、その宛先のデータはとうに存在しない。返事は永遠に来ない。
(ご愁傷さま)
口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「自業自得ですね」
シエラが、端末から目を逸らさないまま言った。淡々とした声に、感情の色は見当たらない。
「公社第3運用課の回線トラフィックが通常の十二倍に達しています。苦情電信と復旧要請が殺到しているものと推測します。なお——」
シエラは一拍置いて、かすかに顎を引いた。
「シュンの退職時に実行した個人データの完全消去処理は、現時点でも公社側に復元の痕跡がありません。設計は——盤石です」
最後の二文字だけ、声の温度がわずかに下がった。
「ありがとう、シエラ。褒められた気がする」
「褒めていません。事実の報告です。それと——」
シエラは腕を組んだまま、ちらりとシュンを見下ろした。
「あなたがソファーで珈琲を啜っている間に、元雇用主の組織が壊滅的な機能不全に陥っている状況を、私は道義的に評価しているわけではありません。ただ、因果関係の帰結として極めて合理的だと判定しているだけです」
「それ、回りくどいけど『ざまあみろ』って言ってない?」
「言っていません」
シエラはそっぽを向いた。耳の先がほんのわずかに色づいている——ように見えたが、シュンはあえてそれを指摘しなかった。
「シュン様〜、珈琲のおかわり、いかがですか〜?」
キッチンからリリアの声が飛んできた。ドリップポットを片手に、にこにこと小首を傾げている。
「もらう」
温かい珈琲が注がれたカップを受け取り、シュンはソファーの背もたれに深く体を預けた。
オシロスコープの画面では、公社基幹線の波形が相変わらず鋸歯状に暴れ続けている。壁面の赤いランプは、チカ、チカ、と虚しく点滅を繰り返している。
その全てが、厚さ50センチの防爆扉と、何百メートルもの岩盤の向こう側の出来事だった。
シュンは珈琲を一口飲み、ソファーの上でゆっくりと伸びをした。
「さて……今日は何しようかな。サーバーラックの2番棚、配線を整理し直そうと思ってたんだけど」
「それとも、もう少しこのまま寝転がっていますか。あなたの生産性は、どちらの選択肢でも大差ありません」
「辛辣だなぁ……」
「事実です」
「シュン様〜、お昼はクリームシチューにしましょうか〜? 昨日仕込んでおいたルゥがいい具合に寝かせてありますよ〜」
「……最高だ」
挽きたて珈琲の香り、焼きたてパンの余韻、チェロの柔らかな旋律、ラベンダーの香り。冷却ファンの囁きと、サーバーラックの規則正しい排気音。その全てが、窓のないこの地下要塞に、完璧な静寂と安息を満たしている。
何百メートルも頭上の地表では、三ブロック分の市街地がブラックアウトの闇に沈み、公社の執務室では電信印字機が苦情の紙テープを際限なく吐き出し、かつての上司が顔面蒼白で自分の名前を叫んでいるのだろう。
だが、そのすべては——シュンが退職届を置いた瞬間に、もう自分とは何の関係もない、遠い世界の出来事になっていた。
シュンは珈琲のカップを両手で包み、ソファーの奥にもう少しだけ深く沈み込んだ。
(退職して、たったの三日目。今日も完璧な一日になりそうだ)
最後までお読みいただきありがとうございました!
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