第10話 逃げ場なき査問通告
正午を回った帝国魔電公社・第3運用課の執務室は、もはや執務室の体を成していなかった。
苦情電信の紙テープが印字機の受け皿から溢れて床に蛇のように垂れ下がり、その上をインク切れの予備リボンや灰皿の吸殻が散らばっている。壁掛け時計の秒針がカチ、カチと刻む音だけが、疲弊した空気を機械的に刻んでいた。窓の外では遠くサイレンの残響がまだくすぶっていて、未明から10時間が過ぎた今も、3ブロック分の市街地は闇に沈んだままだった。
若手技師たちの顔は、一様に灰色をしている。徹夜作業で目の下に刻まれた隈、乾いて割れた唇、作業着に染みた汗と絶縁油の匂い。壁際に寄りかかって仮眠を取ろうとしている者もいたが、10分おきに鳴り響く苦情電信の着信音がそれを許さなかった。
ギルバート・ハウエルは執務室の奥、課長席の革張りの椅子に身を沈めていた。ネクタイは朝から緩めたまま、胸ポケットの葉巻は折れかけている。袖口の金のカフスボタンだけが、蛍光灯の光を鈍く反射していた。
(バックレた若造の尻拭いに、なんで俺が付き合わなきゃならんのだ)
心の中でそう毒づいて、ギルバートは3杯目の珈琲を口に運んだ。冷めきった液体が舌の上で苦く広がるが、味など分からなかった。朝方に怒鳴り散らした分の体力が、じわじわと肩にのしかかっている。
その時、廊下の向こうから複数の靴音が近づいてきた。
若手技師たちの雑談が、すっと止んだ。
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執務室の扉が、ノックもなしに開いた。
最初に踏み込んできた革靴の音が、紙テープの散乱した床を硬く叩いた。黒い三つ揃えのスーツに、銀縁の眼鏡。白髪交じりの短髪を撫でつけた痩身の男が、一瞥もくれずに執務室の中央まで歩を進める。
フレッチャー技術部長。ギルバートの上席にあたり、市内全域の送配電網と運用管理部門を束ねる冷徹な男だった。
その後ろから、書記官と思しき2人の男が分厚いファイルを抱えて無言でついてくる。
「——部長」
ギルバートが椅子から腰を浮かせた。脂汗が額に滲んでいる。
「わざわざ現場までお越しいただかなくても、状況は既に報告書を——」
「座りなさい、ハウエル課長」
ギルバートの言葉は途中で切り落とされ、彼は中途半端に腰を浮かせた姿勢のまま固まった。
「状況は把握しています。第12ブロック変電施設の変圧器トリップによる連鎖停電。10時間が経過し、市議会および中層商業者組合から公社理事会に対し『原因究明と責任者の処分を求める公式抗議書』が提出された。理事会は今朝の緊急会合で、技術本部に対し直ちに査問を開くよう命じました」
フレッチャーは執務室を見回した。散乱する紙テープ、蒼白な若手技師たち、灰皿に山盛りの吸殻、そして革張りの課長席に汗を浮かべて座るギルバート。その全てを、まるで故障した機械の内部を検分するかのような目で一瞥してから、口を開いた。
「ハウエル課長。事故の経緯について説明していただきたい」
ギルバートは唾を飲み込み、革張りの椅子の肘掛けを握り直した。
「……事故の原因は明白です、部長。先日退職した主席魔電技師——シュンです。あの男は退職時に全ての設計図と調律データを持ち逃げし、引き継ぎもせずに逃亡しました。さらには人事データベースまで消去して連絡手段を断つという、悪質な嫌がらせを——」
「持ち逃げ?」
フレッチャーが右眉をわずかに持ち上げた。その声の温度が、さらに一段下がった。
「ハウエル課長。元主席魔電技師シュンは、退職届の提出と同時に、公社規定に則った『全業務引継書』を技術管理本部の公認アーカイブへ正式登録して退職しています。全ての設計ドキュメント、調律パラメータ、保守マニュアルの保管場所が完璧に記録された書類です」
ギルバートの喉から、掠れた息が漏れた。
退職届の紙面すらろくに読まず、ゴミ箱へ放り捨てたあの朝の記憶が、冷たい刃となって脳裏を刺す。
「さらに」
フレッチャーが、書記官から1枚の書類を受け取った。
「これは第12ブロック緊急迂回工事の承認書です。『シュンの設計回路を撤去し、標準バイパスに切り替える』という工事内容に対し、ハウエル課長——あなたの直筆サインと決裁印が押されています」
書類がギルバートのデスクの上に、乾いた音を立てて置かれた。その事務的な音が、ギルバートの背筋を氷水のように冷たく撫でていく。
「つまり」
フレッチャーは眼鏡の奥から、ギルバートをまっすぐに見据えた。
「主席魔電技師は、正規の手続きに従い完璧な業務引継書を登録して退職した。にもかかわらず、あなたは引継書を確認すら行わず、退職の事実を上層部に隠蔽し、設計責任者でもない若手技師に回路の撤去と迂回工事を命じ、その承認書に自ら決裁印を押した。——事実関係に相違はありますか」
ギルバートの口が開き、閉じ、また開いた。声が出なかった。
「本日15時、技術本部大会議室にて緊急査問会を開きます。ハウエル課長、出席を命じます」
フレッチャーが身を翻した。革靴が紙テープを踏みしめて、扉へ向かう。
「な——待ってください、部長! これは、現場判断として——」
「現場判断?」
フレッチャーが、扉の前で足を止めた。振り返りもせずに言った。
「ハウエル課長。現場判断の結果、3ブロックもの市街地が10時間以上闇に沈んでいます。市立中央病院は非常用電源で持ちこたえていますが、そちらも数時間の猶予しかない。商店街は営業不能、住宅街では乳幼児を抱えた世帯が避難所に殺到しています。——それが、あなたの現場判断の成果です」
扉が閉まった。
書記官たちの靴音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。
ギルバートはデスクに両手をついたまま、動けなかった。額から首筋まで流れ落ちる脂汗が、ワイシャツの襟を濡らしている。視線の先にあるのは、自分のサインと決裁印が刻印された危険工事の承認書。
他ならぬ、自分の手で押した印だった。
指先から力が抜けて、袖口の金のカフスボタンがデスクの角に当たり——カラン、と乾いた音を立てて床に転がった。紙テープの上を、小さく光りながら、机の脚の影に消えていく。
ギルバートは、それを拾う気力すら残っていなかった。
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地上での狂乱から隔絶された地下要塞の中は、別世界の静寂に包まれていた。
冷却ファンの穏やかな囁きと、真空管アンプから流れるチェロの柔らかな旋律。ラベンダーの香りを含んだ清浄な空気が、天井の低い工作室をゆるやかに満たしている。
シュンはサーバーラック2番棚の前に腰かけて、最後の1本を仕上げていた。
青い電力系ケーブルと橙色の通信ケーブルが、寸分の狂いもない直角を描いて2番棚の背板を走っている。その間を縫うように、緑色の魔力伝送ケーブルが美しい弧を描いて——いや、ここの曲率半径がほんの少しだけ気に入らない。シュンは耐熱スリーブの端を精密ニッパーでかちりと切り揃え、結束バンドの位置を3ミリだけずらした。
(……うん。今度は完璧だ)
3本のケーブルが等間隔で平行に並び、交差点では完全な直角を描き、カーブでは流体力学的に最適な弧を辿って次の端子ブロックへ伸びていく。朝から3時間かけて整理し直した2番棚の配線が、工芸品のような幾何学模様を形成していた。
「シュン」
作業台の向こう側で、シエラが腕を組んだままモニターを見つめていた。琥珀色の瞳にラックの緑色の常時点灯LEDが映り込んでいる。
「整線前後の熱流体シミュレーションが完了しました。ケーブル間の通気面積が12%拡大し、冷却効率が改善されています。2番棚の伝送効率も0.7%向上。ノイズフロアはマイナス3デシベル」
「ほら見て、シエラ。ちゃんと意味のある改善だろ? 直角の配線は見た目だけじゃなくて——」
「あなたが3時間かけてケーブルの曲率半径を3ミリ単位で追い込んだ主目的が、冷却効率の改善であるという主張は、記録に残しておきます」
シエラが淡々と言い切った。
「ただし、同一の冷却効率改善は、ファンの回転数を2%上げるだけでも達成可能でした。作業時間は約0.3秒です」
「それは、その——美しくないだろ」
「ええ。ですから、機能美としての評価は行います」
シエラがモニターから顔を上げ、完成した2番棚の配線を見た。青と橙と緑のケーブルが織りなす幾何学模様を、琥珀色の瞳がゆっくりとなぞっていく。
「……88点です」
その声がかすかに柔らかくなったことを、シュンは聞き逃さなかった。
「おっ、88点!? 前回の1番棚は82点だったから、6点アップだ!」
「誤差の範囲です。それと——」
シエラが顎を引いた。耳の先にうっすらと色が差しているのを、工作室の暗がりが半分だけ隠している。
「残りの12点の改善余地について議論するつもりはありません。昼食の時間です」
「シュン様〜、お昼の準備ができましたよ〜」
廊下の向こうから、リリアの柔らかな声が漂ってきた。そしてその声よりも先に、濃厚なバターとブイヨンが溶け合った芳醇な湯気が、工作室の入り口からふわりと流れ込んでくる。
シュンの鼻腔が、ぴくりと反応した。
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リビングのテーブルに並んだ景色に、シュンは思わず足を止めた。
深皿になみなみと注がれた白いクリームシチューの表面を、削りたてのチーズが薄い金色のヴェールのように覆っている。湯気の中に、バター、ブイヨン、生クリーム、そしてほんのわずかなナツメグの甘い香りが幾重にも折り重なって立ち上っていた。傍らには、焼き立ての丸パンが3つ、籠の中でまだ温もりを放っている。割れ目からのぞく白い中身が、小麦の香ばしい蒸気を吐いている。
「昨日からじっくり煮込んで、ひと晩寝かせておいたんですよ〜。お野菜の甘みがたっぷり溶け出していると思います〜」
リリアがエプロンドレスの前掛けで手を拭きながら、にこにこと微笑んだ。菫色の瞳が、シチューの湯気越しにきらきらと光っている。
「いただきます」
スプーンを入れると、ほろほろに崩れる鶏肉が白いクリームの中から現れた。口に運ぶ。舌の上にまず生クリームのまろやかなコクが広がり、そこへ一晩かけてじっくり溶け出した人参の甘み、じゃがいものほくほくとした舌触り、そしてブイヨンの奥深い旨味が追いかけてくる。鶏肉は箸でも裂けるほどに柔らかく、噛むたびにじゅわりと肉汁が染み出した。
(……うまい)
丸パンをちぎって、シチューに浸す。パンが温かいクリームを吸い込んで、ほんのりと膨らんだそれを頬張ると、小麦の甘みとシチューの塩気が口の中で完璧に溶け合った。
公社の仮眠室で食べていた夕飯を思い出す。自販機の合成パン、密封の安い缶詰、蛇口からの水。暖房の効かない狭い部屋で、明日の朝までに終わらせなければならない調律のことを考えながら、味も分からずに流し込んでいたあの食事と——今、舌の上にあるこの温かさとの落差が、胃の奥から全身にじんわりと広がっていく。
「リリア」
「はい〜?」
「毎日こんな美味いものを食べさせてもらえたら、社会復帰なんて絶対に無理だ」
「ふふ〜。シュン様がおいしそうに食べてくださるお顔を見るだけで、リリアは一日中幸せですよ〜」
リリアが両手を頬に当てて、花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しくて、シュンはスプーンを持ったまま少しだけ目を細めた。
「高カロリーの摂取後に運動を行わない場合、体脂肪率が0.2%上昇する見込みです。警告しておきます」
シエラが食卓の端から淡々と言い放ちつつ、自分の前に置かれた小ぶりの器に視線を落としていた。すでに空になったはずの器には、しっかりと2杯目のシチューが盛られている。
「シエラちゃんも、おかわりしたんですね〜」
「これは魔力変換効率の維持に必要な熱量摂取です。嗜好とは無関係です」
「はいはい〜」
リリアがにこにこと相槌を打ち、シエラの器にシチューを足した。シエラは何も言わなかったが、スプーンを動かす速度がわずかに上がったことを、シュンは見て見ぬふりをした。
2杯目のシチューを平らげ、食後の珈琲を飲み終える頃には、心地よい満腹感が全身を重く温かく満たしていた。
シュンはソファーに移動して、羽毛のブランケットを引き寄せた。リリアがクッションの位置を整え、シエラが何も言わずに室温を0.5度下げる。真空管アンプから流れるチェロの旋律が、穏やかな午後の空気をゆるやかに撫でていた。
何百メートルも頭上の地表では、元上司が15時の査問会を宣告されて顔面蒼白になり、自慢の金のカフスボタンを床に転がしているのだろう。
だが、冷たい鉄扉で外界を閉ざしたこの空間には、怒声もサイレンも届かない。
胃の奥からじんわりと広がるシチューの温もりと、羽毛ブランケットの柔らかな重みに身を沈めながら、シュンは静かに瞼を閉じた。
(平日の昼間から、こんなに美味いものを腹いっぱい食べて寝られるなんて……もう二度と、あんな場所に戻るもんか)
最後までお読みいただきありがとうございました!
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次回も明日【18:00】に更新予定です!




