第11話 昼寝の邪魔は許さない
食後の心地よい満腹感が、全身を重く温かく満たしていた。
ソファーの上で羽毛のブランケットに包まれ、シュンはまどろみの中に沈みかけていた。真空管アンプから流れるチェロの柔らかな旋律が、ラベンダーの香りを含んだ清浄な空気の中で、意識の輪郭をゆっくりと溶かしていく。
(……最高だ。この世に、食後の昼寝より尊いものなんて存在しない……)
瞼が完全に閉じる、その寸前だった。
ヴ……。
シュンの眉が、かすかに動いた。
ヴ……ヴ……。
腹の底を撫でるような、重く不快な振動。冷却ファンの音ではない。真空管アンプのハムノイズでもない。もっと低い、もっと深い——岩盤そのものを伝わってくる、変圧器の鉄芯共振の低周波だ。
(……嘘だろ。ここまで響いてくるのか)
何百メートルもの岩盤を貫通して、ゼロ・ターミナルの床板をかすかに震わせている。地上の変電施設が回復していないどころか、共振がさらに悪化している証拠だった。
ピ、ピ、ピ。
オシロスコープサブモニターが、黄色いアラートランプを点滅させた。シュンは渋々ブランケットから片手を出して、モニターの表示をちらりと見た。
公社基幹線の鋸歯状の乱脈波形はまだ暴れ続けているが、それとは別に、もう1つの波形が急速に減衰しているのが見えた。第11ブロック・市立中央病院の非常用蓄電魔導炉の出力カーブだ。なだらかな下り坂を描いていた曲線が、ここにきて急角度で落ち込み始めている。
(残量……あと30分もたないな、あれは)
シュンは体を起こして、ブランケットの中でぼりぼりと頭を掻いた。
(病院が落ちたら、手術中の患者とか、生命維持装置とか……そういうのが全部止まるってことだよな)
別に公社がどうなろうと知ったことではない。ギルバートがどれだけ叫ぼうと、もう自分には関係のない話だ。でも、病院は違う。あそこで治療を受けている人たちは、公社の無能とも、ギルバートの保身とも、シュンの退職とも何の関係もない。
(……寝覚めが悪すぎる)
「シュン」
シエラが、ソファーの背もたれ越しに見下ろしていた。琥珀色の瞳に、サブモニターの黄色い点滅が映り込んでいる。
「市立中央病院の非常用蓄電魔導炉の残量が危険域に入りました。公社の送電網を遠隔復旧させますか?」
シュンは首を振った。
「いや、あの状態の公社の配線を通したら駄目だ。迂回工事でぐちゃぐちゃになった送電経路を再調律するのに何時間かかるか分からないし、下手に負荷をかけたらまた変圧器が悲鳴を上げる。そうなったら共振がもっと酷くなって、ここまで響いてくるノイズも大きくなる」
シュンはブランケットを蹴飛ばして、サーバーラックの端末に手を伸ばした。画面に地下のインフラ配管図が展開される。
「旧軍用の暗渠——第0-7系統の廃回線がまだ生きてるはずだ。あれは公社の送電網とは完全に独立してるから、ここのバイパス分電盤から直接引っ張れば、病院の受電盤まで一本で繋がる。公社のメーターも迂回ルートも一切通らないから、ロスもゼロで一瞬だ」
「公社を完全にバイパスする送電は、法的には——」
「残業代未払いの債権回収、第二弾ってことで」
シュンは肩をすくめた。
「それと、もう1つ。この共振を止めないと僕の昼寝が永遠に邪魔される。公社の若手の端末に自動調律スクリプトを匿名で投げておこう。共振の原因になってる迂回バイパスの接続定数を、安全な値に書き換えるだけの簡単なやつだ。若手でもワンクリックで実行できるように組んでおく」
「誰が送ったか分からない匿名スクリプトを、公社の技師が実行するとお考えですか」
「あの子たちは優秀だよ。コードを読めば、中身が正しいかどうかは判断できる。それに、今の公社には他に選択肢がない」
シュンの指が、端末のキーボードの上を走り始めた。画面に回路図と配管の接続パラメータが次々と展開されていく。公社の正規系統とは全く別の、旧軍用地下暗渠の配線図。30年前に公社の図面から抹消された、誰も知らないインフラの骨格。
「シュン様〜、お昼寝の邪魔をされちゃったんですね〜。かわいそうに〜」
リリアが温かいカモミールティーのカップをそっと端末の横に置いた。石鹸と花の甘い香りが、ラベンダーの空気に混じってふわりと漂う。
「大丈夫だよ、リリア。すぐ終わるから。これが片付いたら、今度こそゆっくり昼寝する」
「はい〜。リリアはシュン様のお昼寝をお守りしますからね〜」
シュンの指先が、最後のパラメータを入力し終えた。画面に『第0-7系統バイパス回線——接続準備完了』の文字が浮かぶ。
送電ボタンに指をかけながら、シュンは小さく息を吐いた。
公社のメーターを通さず、公社の送電網に一切触れず、誰にも知られずに——ただ地下の配管を一本繋ぐだけ。技術者としての最も合理的で、最も安全で、最も手っ取り早い選択肢。
その選択がどんな結果をもたらすのか——公社を通していない謎の送電記録が、やがてフレッチャー技術部長の査問で何を意味するのか——シュンは考えもしなかった。
カチ、と。
送電ボタンが押された。
画面の数字が切り替わり、旧軍用暗渠の廃回線に電力が走り始める。同時に、別のウィンドウで匿名の自動調律スクリプトが公社の若手端末へ向けて静かに送信された。
数秒後。
岩盤の奥から響いていた不快な低周波のうなりが、すっ、と一段小さくなった。
「バイパス接続、正常。病院の受電盤、通電確認。非常用蓄電魔導炉の負荷、低下中。……共振も、3割ほど減衰し始めています」
シエラが淡々と報告した。
「うん。あとは若手がスクリプトを回してくれれば、完全に止まるはずだ」
シュンはソファーに戻り、ブランケットをもう一度引き寄せた。カモミールティーを一口飲んで、ゆっくりと目を閉じる。
さっきまで床板を震わせていた不快な振動は、もうほとんど感じられなかった。冷却ファンの囁きと、チェロの穏やかな旋律と、ラベンダーの香りだけが、静かに戻ってきている。
(よし。これで邪魔は入らない)
「シュン様〜。お膝、使いますか〜?」
「……使う」
リリアの柔らかな膝の上に頭を預けると、石鹸と花の甘い香りが鼻腔を満たした。細い指先が、こめかみから後頭部へ、ゆっくりと髪を梳いていく。
「よしよし〜。シュン様、えらいですよ〜。ちゃんと困っている人を助けて、偉いです〜」
「……助けたっていうか、うるさいのが嫌だっただけなんだけど……」
「それでも、えらいです〜」
シエラが小さく鼻を鳴らした。
「ナマケモノが安眠のために枝を移動するのと同じ原理ですね」
「否定はしない……」
瞼が重くなっていく。地上の公社がどれほどの大騒ぎになっていようと、かつての上司がどんな顔をして怒鳴り散らしていようと、もう自分には関係のない話だった。
外界の狂乱は完全に消え去り、ここにはただ、穏やかな静寂だけが満ちている。
リリアの膝の柔らかな弾力と、髪を梳く指先の優しいリズムに身を委ねながら、シュンの意識は心地よい暗闇の中へと静かに沈んでいった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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