第12話 手柄捏造の完全崩壊
マホガニーの長机が、大会議室の薄暗がりを横一文字に仕切っていた。
天井の蛍光灯は間引き点灯で、光の届かない壁際には査問委員たちの影が黒々と溜まっている。空調の吹き出し口から微かに焦げたような乾いた風が降りてきて、会議室の空気には消毒液とインクと古い革の匂いが混じり合っていた。
フレッチャー技術部長は、長机の中央に腰を下ろしていた。銀縁の眼鏡が蛍光灯の光を拾い、両脇には理事会から派遣された査問委員が二名、その背後に書記官が分厚いファイルを膝に載せて控えている。
15時ちょうど。壁掛け時計の長針が頂点を指した瞬間、大会議室の扉が軋んで開き、ギルバート・ハウエルが重い足取りで一歩を踏み出した。
その歩みは、朝よりもさらに重かった。ネクタイは結び直されていたが結び目が浅く、額には拭ったばかりの脂汗の痕跡が蛍光灯の下でてらりと光っている。右手の袖口には、金のカフスボタンがなかった。午前中にデスクの下に転がり落ちたまま、拾えずにいるのだ。空いたボタン穴から覗くワイシャツの裏地が、なぜかひどくみすぼらしく見えた。
「——着席しなさい」
フレッチャーが書類から目を上げずに告げると、ギルバートは長机の正面に据えられた椅子に腰を下ろした。課長室の革張りの椅子とは比べものにならない、冷たい金属座面のパイプ椅子が尻に当たる。
「では、始めます」
フレッチャーが眼鏡のブリッジを指先で押し上げた。
「ハウエル課長。先刻の聴取に続き、本査問会では停電事故の経緯および復旧状況について確認を行います。まず——復旧についてお聞きします。市立中央病院への送電は、現在どのような状態ですか」
ギルバートの喉仏が動き、唾を飲み込む音が静まり返った会議室に小さく響いた。それでもなお、ギルバートは無理やり背筋を伸ばした。
「部長。その件については、ご報告申し上げます」
不自然なほど張りのある声だった。両手を長机の縁に置き、査問委員たちの顔を一人ずつ見回しながら、ギルバートは言葉を続けた。
「午前中に状況を把握した後、私は直ちに残存する若手技師を指揮し、市立中央病院への緊急送電を実施させました。結果、病院の電力は無事に復旧し、非常用蓄電魔導炉の枯渇による医療崩壊は未然に防止されております。また、第12ブロック変圧器の異常共振につきましても、私の指示のもと若手が調律スクリプトを実行し、現在は鎮静化に成功しております」
冷え切った会議室に一拍の沈黙が落ちる中、ギルバートは胸を張った。汗に濡れた額を拭いもせず、査問委員たちの反応を窺っている。ここで手柄を立てた実績を示せば、朝の失態を帳消しにできる——その計算が、血走った目の奥に透けていた。
だが、フレッチャーはギルバートの顔を見ることもなく、淡々と書記官へ顎をしゃくった。
「電力統括モニターの積算記録を」
書記官が、ファイルから一枚の記録紙を抜き出して長机に広げた。数列とグラフが細かく印字された技術帳票——市立中央病院の公社受電メーターの時系列データだった。
「ハウエル課長」
フレッチャーが、記録紙の上に指を置いた。
「市立中央病院の公社受電メーター積算値を確認します。午前2時14分のトリップ以降、14時の最終読み取りまで——積算値の変動は、ゼロです」
ギルバートの表情が、一瞬で凍りついた。
「公社の送電網を経由して病院に電力が供給された事実は、メーター上に一切記録されていません。つまり、あなたが若手に指示して実行したと主張する『緊急送電』は、公社の系統を通っていない」
「そ、それは——メーターの故障、あるいは計測誤差の——」
「故障ではありません」
フレッチャーが、二枚目の帳票を広げた。送配電系統の接続ログだった。
「病院の受電盤には、現時点で外部からの給電が確認されています。ただし、その電力は公社の正規送電網のいかなる系統からも供給されていません。配電経路の解析によると、給電源は——30年前に公社の管理図面から抹消された旧軍用暗渠、第0-7系統の廃回線です」
会議室の空気が、さらに一段冷え込んでいく。
査問委員の一人が眉をひそめてメモを走らせ、もう一人はギルバートの顔をじっと見つめていた。
「公社が管理を放棄した廃回線から、公社のメーターを一切経由せず、病院に直接電力が供給されている。これはあなたの指示による送電ですか、ハウエル課長」
「わ——私は——」
ギルバートの視線が激しく泳いだ。廃回線。第0-7系統。聞いたこともない。知りようがない。だが「知らない」と言えば、先ほどの「私が指示した」という主張が根底から崩れ去る。
「続いて、変圧器共振の鎮静化について」
フレッチャーは、ギルバートに弁明の隙を微塵も与えなかった。三枚目の帳票が、長机に広げられる。
「若手技師の端末に着信した自動調律スクリプトの通信パケットログです。送信元アドレスは、公社の通信ドメインに属していません。外部の暗号化回線から、公社の若手端末へ直接送信されています」
フレッチャーの指が、パケットヘッダの送信元フィールドを正確に示した。
「ハウエル課長。このスクリプトの送信を、あなたが指示した記録はありますか」
ギルバートは答えることができなかった。口が半開きになったまま、乾いた浅い呼吸だけが漏れている。
「本部の通信管理課に照会した結果、このスクリプトに関するハウエル課長の指示記録は、ゼロです。メール、電信、口頭命令の記録台帳——いずれにも、一切存在しません」
フレッチャーが、三枚の帳票を指先で揃え、ギルバートの正面に並べ直した。メーター記録、配電ログ、パケットヘッダ。三つの動かぬ技術的証拠が、パイプ椅子に座るギルバートを取り囲んでいる。
「さらに、あなたが決裁した第12ブロック変圧器は、外部スクリプトにより共振が逃がされただけであり、迂回配線の過熱焼損により依然として運転停止状態にあります。復旧の見込みは立っていません」
フレッチャーが、ようやくギルバートの顔を見据えた。銀縁の眼鏡の奥にある瞳は、感情を排した精密検査装置のようだった。
「整理します」
その声は、氷水を蒸留して不純物を取り除いたような、温度のない透明さだった。
「ハウエル課長。あなたは主席魔電技師の全業務引継書を確認せず、退職の事実を上層部に隠蔽し、設計責任者でもない若手技師に高度な回路の撤去を命じて自ら決裁印を押し、3ブロックの市街地を10時間以上にわたって停電させた。そして本査問会において、公社の系統を一切通っていない外部からの送電と、送信元不明の匿名スクリプトの成果を——自らの手柄として虚偽の報告を行った」
一語一語が、会議室の冷たい空気の中に正確に刻まれていく。
「査問委員会として、以下の処分を決議します」
書記官がペンを走らせる音だけが、静かに響いた。
「第3運用課長の職を即日解任。平技師への降格。停電に起因する損害の賠償請求手続きの開始。そして——」
フレッチャーは暗記した条文を朗唱するわけでもなく、ただ冷厳な事実を宣告するように告げた。
「復旧作業の人員として、最下層・地下配管清掃現場への異動を命じます。期限は定めません」
会議室が、完全な静寂に包まれた。
ギルバートの両手が、膝の上で小刻みに震えていた。恰幅の良い体躯が、パイプ椅子の上で一回り小さく縮こまって見える。ネクタイの結び目の下で喉仏が何度も上下し、声にならない掠れ音が口の端から漏れかけて消えた。カフスボタンのない袖口が、蛍光灯の光の下でみすぼらしく垂れ下がっている。
フレッチャーは既に書類を閉じていた。書記官が椅子を引き、査問委員たちが無言で立ち上がって、革靴の足音を響かせながら会議室を後にしていった。
最後に残されたギルバートは、パイプ椅子に座ったまま、長机の上に残された三枚の帳票を見つめ続けていた。
メーターの積算値ゼロ。廃回線の配電ログ。暗号化ドメインのパケットヘッダ。
その全てが、自分以外の誰かが——自分の知らないところで、自分の関知しない手段で——完璧に問題を解決していたことを、冷酷に証明していた。
ギルバートの唇が、小さく震えた。
「……お前は……どこに……」
誰にも届かない呟きだった。空っぽになった会議室で、蛍光灯だけがジジ、と微かな放電音を立てていた。
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羽毛ブランケットの柔らかな重みと、じんわりとした温もりが意識の底をゆっくりと浮上させていく。
ソファーの革の弾力が背中と腰を優しく受け止め、鼻腔の奥にはラベンダーの清浄な香りと、どこか遠くで淹れた珈琲のかすかな芳香が漂っていた。真空管アンプから流れるチェロの旋律は、さっきまでと同じ曲だろうか——もう少しだけテンポがゆっくりになったような気がする。
さっきまで床板を震わせていた不快な振動が消えていることに、シュンの意識が薄ぼんやりと気付いた。
シュンはブランケットの中で大きく伸びをした。両腕を頭の上に突き出し、指先まで伸ばして、全身の筋肉を一つずつ解きほぐしていく。背骨がコキコキと小さな音を立て、それすらも心地良かった。
(……最高だ)
一度も途中で起こされなかった。電信の着信音も、共振のうなりも、ギルバートの怒声も、何も邪魔しなかった。社畜時代には——仮眠室で2時間おきにアラームに叩き起こされ、目をこすりながら端末に齧りついていた日々には、絶対にありえなかった種類の目覚めだった。
「シュン様〜、起きましたか〜?」
声と一緒に、温かく湿った布の感触が額に載せられた。蒸しタオルだ。目を閉じたまま、じんわりと広がる熱が額からこめかみへ、そして目蓋の上へ浸透していく。
「……ん」
「よく眠れましたか〜? すごく気持ちよさそうなお顔でしたよ〜」
目を開けると、菫色の瞳がすぐ近くで輝いていた。リリアが、ソファーの脇にしゃがみ込んで、にこにこと覗き込んでいる。エプロンドレスの前掛けから石鹸と花の甘い香りが漂ってきて、ラベンダーの清浄な空気にふわりと混じった。
「……リリア。今、何時?」
「15時を少し回ったところですよ〜」
「1時間くらい寝てたのか……」
「1時間48分です」
背後から降ってきた淡々とした声に、シュンは首だけを回した。シエラがサーバーラック横のモニターの前に座っていた。琥珀色の瞳は画面に向けられたまま、腕を組んでいる。
「心拍数、脳波パターンともに完全安定。入眠潜時4分、中途覚醒ゼロ。ナマケモノの冬眠に匹敵する回復効率です」
「褒めてるのか貶してるのか分からないけど、実際めちゃくちゃスッキリしてるからいいや」
「褒めていません」
シエラがそっぽを向いた。だが、その声に棘はなかった。
シュンは蒸しタオルで顔を拭い、ソファーの上で体を起こした。
オシロスコープサブモニターに視線をやると、昼寝前に暴れていた共振波形は完全にフラットになっていた。変圧器の鉄芯共振はもちろん、迂回バイパスの不安定な高周波ノイズまで、きれいに消えている。
(スクリプト、ちゃんと効いたんだな)
公社の若手たちが、匿名の自動調律スクリプトのコードを読んで内容の正しさを自分で判断し、実行してくれたのだ。
(あの子たち、やっぱり優秀だ)
シュンの口元が、かすかに緩んだ。
「シュン様〜、温かいカモミールティーを淹れましたよ〜」
リリアが湯気を立てるカップをトレイに載せて歩み寄り、テーブルにそっと置いた。柔らかな甘い香りが、清浄な空気の中にふわりと溶けていく。
「ありがとう、リリア」
カップを両手で包み、一口含む。喉を通り抜ける優しい甘みと温もりが、胃の奥までじんわりと沁み渡っていった。
昼寝で完全に軽くなった頭に、ハーブの香りが心地よく染み込んでいく。外界の喧騒はすべて遠い彼方に消え去り、ここにはただ、穏やかな静寂と安息だけが満ちていた。
一口ごとに広がるハーブの温もりを味わいながら、シュンは午後の琥珀色の光の中で、至福の吐息を静かにこぼした。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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