第13話 差出人不明の最高級珈琲豆
天井のスリットから差し込む疑似午後の光が、リビングを柔らかな琥珀色に染めていた。
革張りのソファーに深く腰を沈め、シュンは予定のない午後の時間を気ままに楽しんでいた。昼寝ですっかり軽くなった頭は心地よく冴え渡り、次はどんな不労ガジェットでも作ろうかと考えを巡らせていた、その時だった。
リビングの壁際から、聞き慣れない金属音が乾いた静寂を破った。
コトン……カラン。
確かな衝撃音に、シュンは顔を上げた。リビングの壁の、ちょうどサーバーラックと大書架の間にある——旧軍用の物資受取シュートだ。気送管方式の防爆投入口で、地上の廃線路側にある非常用物資投入口から荷物を流し入れると、ゼロ・ターミナル内部のトレイに落ちてくる仕組みになっている。
ただし、この機構が作動したのは、シュンがここに住み始めてから一度もなかった。
「シエラ」
「検知済みです」
シエラは既にモニターに向かっていた。指先がキーを叩き、受取シュート周辺のセンサーログが展開される。
「物資投入口の外部開閉記録、16秒前。投入物の重量は約340グラム。魔力波動スキャン——毒物反応ゼロ、爆発性魔力残留ゼロ、呪術的トラップの痕跡ゼロ」
「……ゼロ・ターミナルの場所を知ってる人間なんて、いないはずだけど」
「廃線路の入り口にある投入口は、外部からは単なる壁面の通気口にしか見えません。誰かが意図的にこの口に物を入れた場合、それは『地下の廃線路方面に住んでいる何か』に宛てたものだということになります」
シュンはソファーから立ち上がり、壁際の受取シュートに近づいた。鉄製のトレイの蓋を持ち上げると、中に小さな包みが一つ、転がっていた。
油紙で二重に包まれ、その上から目の粗い麻袋が巻かれている。麻紐で丁寧に縛られた口元に、折り畳まれた手紙が一枚、挟み込まれていた。
シュンは手紙を抜き取り、広げた。飾り気のない、しかし丁寧な筆跡だった。
——地下の廃線路から電力を送ってくださった名もなき恩人様へ。
——市立中央病院を代表し、心よりの感謝を申し上げます。
——公社の送電が止まり、非常用蓄電魔導炉が残りわずかとなった午後、あなたの送電がなければ——手術室の患者も、新生児室の命も、失われていたかもしれません。
——お姿を見せていただくことは叶いませんでしたが、この街には感謝している者がたくさんおります。
——ささやかですが、上層のサロンでも滅多に手に入らない珈琲豆をお届けいたします。
——どうか、お受け取りください。
シュンは手紙から目を上げ、麻袋の口を解いた。
油紙を開いた瞬間、深く、甘く、そしてどこかスモーキーな——焙煎されたばかりの珈琲豆の濃密な香りが鼻腔を打った。リリアが普段使っている豆とは、明らかに格が違う。一粒一粒が艶やかな黒褐色をしていて、表面に浮いた油分が鈍く光っている。
「シエラ、この豆……」
「品種を照合中——完了。ニュー・ブラッドフォード上層貴族御用達の高級焙煎所『モルゲンシュテルン』の最高級銘柄『黒曜石の雫』です。100グラムあたり銀貨12枚。通常の流通経路では入手困難な希少品」
「銀貨12枚って……不労所得ボットの日給の3%以上じゃないか……」
「まぁ〜!」
リリアが小走りに駆け寄ってきた。油紙の上の黒い豆を覗き込み、菫色の瞳をきらきらと輝かせている。
「これは素晴らしい珈琲豆ですね〜! シュン様、街の方からの贈り物ですよ〜!」
リリアは両手を胸の前で合わせて、花が綻ぶように微笑んだ。
「シュン様が昼寝のために電力を送ったおかげで、たくさんの人が助かったんですね〜。シュン様は、街の神様みたいですよ〜!」
「いや、神様って……僕はただ、変圧器のうなりがうるさくて昼寝できなかっただけで——」
「動機は極めて利己的です」
シエラがモニターから視線を向けた。
「しかし、安眠環境を自力で整備した結果として第三者が救済されたのであれば、その対価として現物報酬を受け取ることは合理的です。拒否する論理的根拠がありません」
「……シエラがそう言うなら、遠慮なくもらっておくか」
シュンは油紙を丁寧に折り直し、麻袋の豆を両手で掬い上げた。掌の中で、黒い宝石のような粒がさらさらと転がる。鼻先に近づけると、焙煎の香ばしさの奥に、チョコレートとドライフルーツを思わせる複雑な甘い芳香が立ち上ってくる。
「リリア」
「はい〜?」
「この豆、淹れてくれるか?」
「もちろんですよ〜! 最高のドリップをお約束します〜!」
リリアが豆を受け取り、小躍りするようにキッチンへ駆けていった。エプロンドレスの裾がふわりと翻り、石鹸と花の甘い香りの残像がその軌跡に漂う。
シュンはソファーに戻り、羽毛ブランケットを膝の上に引き寄せた。
(外に出なくても、こんな豆が勝手に届くのか……)
壁際の受取シュートを、もう一度見た。30年前の旧軍用気送管。公社の図面からは抹消され、誰もその存在を知らないはずの小さな投入口が、今日、最高級の珈琲豆を運んできたのだ。
キッチンの方から、手動ミルで豆を挽くカリカリという音が聞こえてくる。その音に混じって、挽きたての豆が放つ強烈な芳香が、リビングの空気にゆっくりと広がり始めた。リリアが淹れる普段の深煎りよりも、さらに深く、さらに甘い——嗅いだことのない種類の香りだった。
「シュン」
シエラが、珍しく自分から口を開いた。
「何?」
「受取シュートの外部投入口は、現在セキュリティレベル3で監視しています。今回の投入者に悪意は検出されませんでしたが、同じ経路から有害物質が投入される可能性は排除できません」
「うん、分かってる。毎回スキャンを自動で走らせるフィルターを組んでおくよ。魔力トラップと毒物の二重チェック——30秒もあれば書ける」
「……あなたのセキュリティ設計に関しては、現時点で指摘事項はありません」
シエラの声が、かすかに柔らかくなった——ような気がした。気のせいかもしれない。
「シュン様〜、淹れたてですよ〜」
リリアが、白い陶器のカップをトレイに載せて戻ってきた。カップの縁から立ち上る湯気が、琥珀色の光の中でゆらゆらと揺れている。
シュンはカップを受け取り、両手で包んだ。陶器越しの温もりが掌に染みる。湯気を吸い込むと、焙煎の苦味の奥に、カカオとベリーと蜂蜜を混ぜたような、複雑で奥行きのある芳香が鼻腔を満たした。
ゆっくりと一口含むと、舌の上で最初にビターチョコレートのような深い苦味が広がった。それが喉を通り過ぎる寸前に、ドライチェリーの甘酸っぱさと、蜂蜜を焦がしたようなカラメルの余韻が追いかけてくる。後味は驚くほど澄んでいて、舌の奥にかすかなスモーキーさだけが、長く、長く残る。
(……今まで飲んだ珈琲と、全然違う)
リリアが淹れてくれる毎朝の深煎り珈琲も十分に美味い。だがこれは、その上の——いや、比較すること自体が意味をなさないほど、別次元の味わいだった。
「リリア」
「はい〜?」
「僕、もう一生ここから出ない」
「ふふ〜。シュン様はもともと出ないつもりでしたよ〜?」
「うん。でも今、改めて確信した」
シュンはカップの温もりを掌で味わいながら、ソファーの背もたれに深く体を預けた。リビングを満たす『黒曜石の雫』の濃厚で香ばしい余韻が、胸の奥まで幸福感で満たしていく。
リリアがそっと隣に腰を下ろし、空になったカップを受け取った。代わりに、おかわりの珈琲をそっと差し出してくる。その動作のひとつひとつが、まるで壊れ物を扱うように柔らかい。
「シュン様、二杯目ですよ〜」
「……ありがとう」
「シュン様のおかげで、街の方々が助かって、こんな素敵なお礼が届いて……リリアは、とっても嬉しいです〜」
菫色の瞳が、本当に嬉しそうに細められた。
「次はどんなものが届くか、楽しみですね〜」
外に出ず、誰にも会わず、ただこの部屋で好きなように過ごしているだけなのに。
美味しいご飯があって、居心地のいいソファーがあって、シエラとリリアがいて、そして今日からは、思いがけない贅沢な贈り物まで届くようになった。
(……本当に、いい場所だな、ここは)
二杯目の珈琲の余韻が、舌の奥で長く澄んだ煙のように漂っていた。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「シュンが羨ましい!」「オートマタ二人に癒やされた!」「元上司ざまぁ!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】をポチッと押していただけると励みになります!
次回も明日【18:00】に更新予定です!




