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第14話 「もっと奥までパルスを流してくださってもいいんですよ〜?」

 頭上を走る高圧蒸気管の継ぎ目から、濁った温水がぽたぽたと落ちていた。

 アンダー・スラッグの最下層、迷路のように入り組んだ地下配管清掃区画。湿気とカビとヘドロの臭気が淀む薄暗闇の中で、焼けた絶縁油の刺激臭が鼻腔の奥にへばりついて離れない。足元には油膜の浮いた冷たい泥水が溜まり、長靴の底をすり抜けてくる泥の冷たさが、足の指先をじくじくと痺れさせていた。

 ギルバート・ハウエルは、重い鋳鉄製の配管パイプを両腕で抱え込みながら、荒い息を吐き出していた。

 着せられたのは、支給されたばかりの粗悪な厚手作業着だった。あちこちに黒い機械油の染みがこびりつき、擦り切れた右の袖口には、朝まで自慢げに光っていた金のカフスボタンは影も形もない。空いたボタン穴から覗く手首は、錆びた配管の角で擦り剥け、赤黒い血と泥が混じり合って痛々しく汚れていた。

「おい、新入り! 突っ立ってんじゃねえよ!」

 背後から飛んできた怒声とともに、泥水が跳ねて作業着の背中を叩いた。

 振り返ると、油まみれのバンダナを巻いた現場の作業員が、大型モンキーレンチを肩に担いで舌打ちしていた。その後ろでは、かつて第3運用課でギルバートが「無能」と怒鳴り散らしていたはずの若手技師が一人、図面板を抱えて冷ややかな視線を向けている。

「モタモタしてると上の水門が開くぞ! さっさとその10インチ管を奥のバイパスまで運べ! 腰を落として運ばねえから手が滑るんだよ!」

「ぐっ……お、おい、貴様……俺を誰だと思って——」

「あぁ? 誰だろうと関係ねえよ! 上から首に縄つけられて現場に放り込まれてきたくせに、何様のつもりだ! 現場じゃな、口だけ達者な奴が一番邪魔なんだよ! さっさと運べ!」

 怒鳴りつけられたギルバートの喉仏が激しく上下した。歯を食いしばり、重い鋳鉄パイプを持ち上げようとした瞬間、腰の奥でギリリと嫌な軋み音が走り、思わず膝を泥水についた。バシャリと濁った汚水が跳ね、顔の半分まで油臭い飛沫を浴びる。

 作業員たちの嘲笑が、湿った配管の奥に反響した。

(こんなはずでは……こんなはずではなかった……!)

 額から流れ落ちる油汗を、泥まみれの手の甲で乱暴に拭った。

 課長室の革張りソファー。高級酒場のウイスキー。金のカフスボタンを見せびらかしながら、役員たちに囲まれていた夜。

 泥水を掴む指先に、爪が掌に食い込むほど力が入った。

(シュンだ……あいつが全部狂わせたんだ……!)

 あいつさえ捕まえれば。あいつを引きずり戻して回路を繋ぎ直させれば、全部元に戻る。課長室も、カフスも、全部——。

(このスラムのどこかにいるはずだ)

 数日前の酒場で、自分が口走った言葉が頭をよぎる。公社を追い出された若造が行く場所など、この最下層スラムの安宿街以外にあるはずがない。

 作業員たちが奥のバルブ点検に向かい、背中を向けた一瞬——ギルバートは泥水の中にパイプを投げ出し、足を引きずりながら配管区画の暗がりへと滑り込んだ。


---


 換気ダクトの低いファン音が、遠くでくぐもった唸りを上げていた。

 スラムの安宿街を抜けてさらに奥、人通りが完全に途絶えた地下の最深部。湿りきったカビの臭いと冷気が肌を刺す中、ギルバートは擦り剥けた手首を押さえながら、暗い路地をがむしゃらに彷徨っていた。

「どこだ……どこに隠れてやがる……!」

 安宿の路地を何軒か覗いたが、シュンの姿など影も形もなかった。それどころか、宿の住人からは泥まみれの作業着を気味悪がられ、追い払われる始末だった。

 息を切らし、足をもつれさせながら角を曲がった時、ギルバートの足が止まった。

 目の前に広がっていたのは、瓦礫が散乱する崩れかけた古い廃線路だった。線路の入り口には錆びついた頑丈な鉄柵が立ち塞がり、その中央に、公社の公印がかすれた古い警告看板がぶら下がっている。


 【立入厳禁・崩落危険区域・高濃度有毒ガス充満】


「チッ……立ち入り禁止か……」

 ギルバートは荒い息を吐きながら看板を睨みつけた。こんな崩落区域の奥に人間が潜んでいるはずがない。引き返そうと踵を返しかけた——その時だった。

(……いや、待てよ)

 疑念が、泥で濁った思考の底から湧き上がった。

 シュンは元・主席魔電技師だ。公社の地下図面に誰よりも詳しかった男だ。もし連中から逃げ隠れるとしたら、あえて誰も近づかないような危険区域を選ぶのではないか。

「……そうだ、そうに決まっている。あいつはここに隠れてるんだ……!」

 焦燥と妄執が、ギルバートの足を鉄柵へと押し進めた。

「おい、シュン! いるんだろ! さっさと出てこい! 俺の指示に従え!」

 ギルバートが鉄柵の隙間に手をかけ、強引に足を踏み入れようと体重をかけた——その瞬間だった。

 ピピッ、と甲高い電子音が岩壁の隙間から鳴り響いた。

 次の瞬間、けたたましい高周波の警報ブザーが廃線路の空間全体に爆発した。耳膜を劈くような金属的な絶叫音とともに、鉄柵の奥から強烈な赤色ストロボ光が間断なく照射され、暗闇を一瞬で真紅の光条で埋め尽くす。

「ひっ……ぎゃああああっ!?」

 視界を真っ赤に焼き切られたギルバートは、短く悲鳴を上げて仰け反った。足元の砕石に足を取られ、派手にバランスを崩して後ろ向きに倒れ込む。

 バシャアアンッ!

 油膜の浮いた泥水たまりに、尻から頭まで一気に叩きつけられた。鼻腔と口の中に腐ったヘドロと錆水が容赦なく流れ込み、激しく咽せ返る。

「げほっ、ごほっ……ゆ、有毒ガス……!? ほ、本当にガスが出やがった……! 死ぬ、死んじまう……っ!」

 ストロボの点滅と警報の轟音にパニックを起こしたギルバートは、立ち上がることもできず、泥水の中を四つん這いになりながら無我夢中で這いずり回った。擦り剥けた手首の痛みも忘れ、汚水にまみれた顔で悲鳴を上げながら、スラムの明るい路地を目指して転がるように逃げ去っていった。


---


 天井のスリットから差し込む疑似午後の柔らかな光が、リビングの木製テーブルを温かな琥珀色に照らしていた。

 ラベンダーの清浄な空気の中に、さっきまで飲んでいた『黒曜石の雫』の香ばしい残り香がかすかに溶け合っている。

 シュンは壁際の物資受取シュートの前にしゃがみ込み、端子盤のカバーを閉じてビスを締め終えたところだった。

「よし、接続完了。これで受取シュートの自動スキャンフィルターが常時稼働するよ」

「確認しました」

 サーバーラックの前に立つシエラが、手元のモニターを見つめながら淡々と告げた。

「投入口の開閉と連動して、魔力走査と毒物フィルターが自動起動します。異常検知時は防爆セルに隔離。……現時点で、指摘事項はありません」

「よかった。これでまた何か届いても安心だね」

 シュンは立ち上がり、作業台のツールロールから細身の白銅ピンセットと微小魔力プローブを手に取った。

「さて……次はリリアのメンテナンスだな」

「はい〜、シュン様。準備できていますよ〜」

 作業机の前の椅子に腰掛けていたリリアが、ふんわりと微笑みながら両手を胸元へ運んだ。

 パチン、と小さな金属音が静かな部屋に落ちる。

 リリアは自らの手で白いエプロンドレスの首元のホックを外し、襟元を左右へとゆるやかに開いた。薄手の白いインナーが滑り落ち、露わになったのは、陶器のように滑らかな白磁の肌と、優美な曲線を描く鎖骨の窪みだった。

 その左右の鎖骨のちょうど中央、柔らかな胸元の中心に、金色の魔導炉コアプレートが埋め込まれている。極細の魔力刻印が同心円状に刻まれ、微細な放熱スリットの奥で、淡い菫色の魔導光が呼吸のようにゆっくりと明滅していた。

「……リリア、少し近づくよ」

「はい〜。どうぞ、お好きなようにしてくださいね〜」

 作業用眼鏡をかけたシュンが、リリアの正面に膝をついた。

 距離が縮まった瞬間、リリアの肌から立ち上る石鹸と甘い花の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。吐息がかかりそうなほどの至近距離。白磁の肌の温もりが、空気を伝ってシュンの頬をかすかに熱くする。

 シュンは呼吸を整え、白銅ピンセットの先でコアプレートの防護カバーをスライドさせた。

 チ、と小さなラッチ音がして、内部の環境制御端子が姿を現す。

「じゃあ、主炉心のパルス周期を微調整するね。少し魔力を通すから、力を抜いてて」

「ふふ、わかりました〜」

 シュンは魔力プローブの先端を端子の素地に当て、指先からごく微弱な波形パルスを流し込んだ。

 ジ……と、かすかな共振音が端子の奥から鳴り響いた。

 その瞬間、リリアの細い眉がふわりと下がり、菫色の瞳がうっとりと細められた。

「はぁん……っ」

 唇の間から、甘く熱い吐息がこぼれ落ちた。白磁の首筋から胸元にかけて、見る間にほんのりと桜色の紅潮が広がっていく。

「ん……ふぅ……。シュン様の魔力パルス……じんわり温かくて……胸の奥が、芯まで蕩けてしまいそうです〜……っ」

「ちょ、リリア……っ、変な声を出すなよ……!」

 耳元にかかる艶っぽい吐息に、シュンの心臓が跳ね上がった。先日背中の装甲を開けてメンテナンスしたシエラは、恥ずかしさで耳まで真っ赤にして身を縮こまらせていたが、リリアはまるで正反対だった。身を竦めるどころか、蕩けたような笑みを浮かべ、無防備に胸元を差し出してくるのだ。

「ふふ、シュン様……手元が少し震えていらっしゃいますよ〜? お顔も、とっても真っ赤です〜」

 リリアは至近距離からシュンの目をまっすぐに見つめ、楽しそうに小首を傾げた。

「そんなに真剣に見つめられると……リリアの炉心、もっと熱くなっちゃいます〜。遠慮なさらず、もっと奥の端子まで……たっぷりパルスを流してくださってもいいんですよ〜?」

「煽るのも禁止! からかわないでくれ、手元が狂ったら回路がショートする!」

「ふふ〜、怒ったお顔も可愛らしいですね〜。どうぞ、リリアの体を隅々まで弄ってくださいね〜」

「弄るって言うな!」

 シュンが真っ赤になって抗議する中、作業台の向こうから冷淡な声が飛んできた。

「……リリア。この男を翻弄して遊ぶのはやめなさい」

 シエラが腕を組んだまま、冷ややかな視線を向けていた。

「シュン、心拍数35%急上昇を検知。体温上昇による手元のブレを警告します。雑念を捨てて作業に集中しなさい」

「わ、分かってるよ……!」

 シュンは必死に息を整え、ピンセットとプローブを慎重に操作した。端子の位相差を0.01ミリ秒単位で追い込み、主炉心の共振周波数を完全に同調させる。

 カチリ、と心地よいロック音が響いた。

 金色のプレートの明滅が、乱れのない滑らかな正弦波へと落ち着いていく。

「……ふぅ。これでよし。出力の安定度が上がって、環境制御のノイズも完全に消えたはずだ」


---


「ふふ、ありがとうございます〜。胸の奥が、とっても軽くなりました〜」

 リリアは満足そうに微笑みながらエプロンドレスの胸元を合わせ、ホックをパチンと留めた。立ち上がって裾を整えると、いつもの穏やかな聖母の佇まいに戻っている。

 シュンがソファーに戻って深く息を吐き出した、その時だった。

「シュン」

 モニターの前にいたシエラが、短く声をかけた。

「何?」

「スラム側監視センサーが、接近者1名を検知しました」

 シュンの背筋が、ぴくりと跳ねた。

「接近者……? まさか、誰か入ってきたのか……!?」

「いいえ。侵入者は廃線路手前の偽装看板に触れた瞬間、威嚇ストロボと警報ブザーにより自滅・退散しました。侵入深度ゼロ、脅威度ゼロ。ゼロ・ターミナルの安全は完全に保たれています」

 シエラがキーを操作し、サブモニターにセンサーログの録画映像を再生した。

 暗い画面の中に映し出されていたのは——けたたましい赤色ストロボに目を灼かれ、泥水たまりに派手に突っ伏して、汚水まみれの四つん這いで這いずり逃げていく、見覚えのある太った男の無様な姿だった。

「……あれって、ギルバート課長……?」

 破れた作業着。油膜まみれの顔。四つん這いで汚水の中を這いずっていく、太い背中。

 シュンはしばらく画面を見つめていた。

 葉巻の煙を吐きながら「代わりはいくらでもいる」と笑っていた男の面影は、もうどこにもなかった。

「……シエラぁ」

 シュンは画面から目を逸らし、ソファーの横に立っていたシエラの太ももに、ぺたんと額を預けた。

「やっぱり外の世界、面倒くさすぎるよ……」

「……シュン。侵入者は手前の看板に驚いて逃走済みです。ここまでは届きません」

 シエラはモニターから視線を落とし、太ももにしがみつくシュンを見下ろした。

「いい加減に離れなさい」

 シュンが動かずに額をすり寄せると、シエラは長いため息をひとつ吐き出した。

「……はぁ。本当に手のかかる技師ですね。……少しだけですよ」

 小言を言いつつも、シエラは無理に引き剥がすことなく、冷たい金属の脚をそのまま預けさせてやった。

「ふふ、シュン様、よしよしですよ〜」

 リリアがそっと歩み寄り、シュンの丸まった背中を優しく包み込むように撫でた。柔らかな手の温もりが、布地を通してじんわりと染み込んでいく。

「ここには誰も入ってこられませんから、安心してゆっくりしてくださいね〜」

「うん……ありがとう、二人とも……」

 外界の泥水と狂乱から完全に隔絶された地下要塞。

 冷たい相棒の装甲と、温かい聖母の手のひらに挟まれて、シュンは胸の奥の強張りをゆっくりとほどいていった。

 やがて、リリアがふわりと微笑んで体を起こした。

「さて、シュン様。今夜は体が芯から温まる、お野菜とお肉たっぷりのポトフにしましょうか〜」

「いいね……すっごく食べたい……」

 穏やかな夕餉の匂いを思い浮かべながら、シュンは琥珀色の光に満ちたリビングで、心地よい安息に深く身を沈めていった。


最後までお読みいただきありがとうございました!


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次回も明日【18:00】に更新予定です!

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