第15話 元社畜のロマン【第1章完結】
陶器鍋の重い蓋が持ち上げられた瞬間、凝縮されていた芳醇な蒸気が、白い煙となってふわりと食卓いっぱいに広がった。
ローリエの爽やかな青い香りと、じっくりと熱を通されたタイムの微かな苦味。澄んだ黄金色のブイヨンの中で、大ぶりに切り分けられた豚バラ肉が、とろりとした脂の艶を湛えて静かに揺れている。その脇には、スープの旨味を芯まで吸い込んで琥珀色に透き通った丸ごとの小玉ねぎ、鮮やかな人参、そして煮崩れ寸前まで柔らかくなった大ぶりのじゃがいもが、湯気の奥で温かな存在感を放っていた。
「お待たせいたしました〜。お野菜とお肉をたっぷり煮込んだ、特製ポトフですよ〜」
リリアが白いエプロンドレスの裾を揺らしながら、深皿へと丁寧にスープを取り分けた。陶器のレードルが触れ合う澄んだ音が、静かなリビングに心地よく響く。傍らに置かれた木製の籠には、香ばしい焼き色のついたライ麦パンが並べられ、切り口から香ばしい穀物の蒸気を吐き出していた。
「いただきます」
シュンはスプーンを手に取り、まずは黄金色のスープをひと口含んだ。
熱々のスープが舌に触れた瞬間、野菜から溶け出した濃厚な甘みと、豚肉の奥深いコクが、ブイヨンの柔らかな塩気とともに口の中いっぱいに広がっていく。喉を通るたびに、胸の奥から胃の腑にかけて、じんわりとした温もりの波が幾重にも押し寄せてきた。
スプーンの縁で豚肉を軽く押すと、繊維がほろりと解け、肉汁が透き通ったスープの中へと溶け出していく。熱い肉片を口に運べば、噛む必要すらないほど滑らかに解け、脂の甘い香りが鼻腔へと抜けていった。
「……っ、うまい……」
思わず小さく息が漏れた。
スプーンを動かす手を止め、シュンは立ち上る湯気をぼんやりと見つめた。
公社にいた頃の食事が、ふと脳裏をよぎる。
高電圧配電盤の前で、警報が鳴り響く中、両手でテスターとプローブを握りしめたまま何時間も立ち尽くしていたあの日々。空腹で胃がキリキリと痙攣しても作業を中断することなど許されず、油と煤で黒ずんだ軍手のまま、作業着のポケットからパサパサの圧縮栄養バーを引っ張り出して口に放り込んでいた。チョークを噛み砕くような無機質な塊を奥歯で擂り潰し、壁の蛇口から出る鉄臭い冷水で喉の奥へ流し込んでいた。
スプーンの上の、とろりと崩れる豚肉が、湯気を立てている。
「……温かい。ちゃんと、味がする……」
それだけ言って、シュンはまたスプーンを口に運んだ。
「ふふ、シュン様」
リリアが向かいの席から、菫色の瞳を細めて優しく微笑みかけた。
「シュン様はもう、お腹が空いたのを我慢して現場を走る必要も、冷たいものを急いで飲み込む必要もないんですよ〜。どうぞ、ゆっくり時間をかけて、味わって召し上がってくださいね〜」
「うん……ありがとう、リリア」
熱いライ麦パンをちぎり、ポトフのスープに浸して口へ運ぶ。香ばしい外皮の歯ごたえと、スープを吸ってふっくらと膨らんだ生地の甘みが重なり合い、胸の奥に残っていた社畜時代の冷たい強張りを、一粒残らず溶かし去っていくようだった。
食卓の端に座っていたシエラが、綺麗に空になった深皿をことりと前に押し出した。
「あら、おかわりですか、シエラちゃん?」
リリアが嬉しそうに小首を傾げると、シエラは琥珀色の瞳をわずかに逸らし、平然とした顔で言い放った。
「誤解のないように言っておきますが、これは主基板および冷却循環系の熱量バランスを維持するための、純粋に論理的なカロリー補給ルーチンです。決して、豚肉の繊維構造が理想的に加熱処理されているからではありません」
「シエラ、素直に美味いっておかわりすればいいのに」
「必要摂取量の申告です」
シエラはシュンのツッコミを一蹴し、リリアに向き直った。
「……リリア。先ほどと同量のスープ、および豚肉を二切れ、人参をひと切れ追加してください」
「はいはい〜、たくさん食べてくださいね〜」
リリアが楽しそうに笑いながら、シエラの器に温かいスープとお肉をたっぷりと注ぎ足す。
穏やかな湯気と、食器が触れ合う微かな音。
美味しいものを美味しいと感じられる当たり前の幸せを噛み締めながら、シュンは三人で囲む温かな食卓の時間を、心ゆくまで満喫した。
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アンダー・スラッグの路地裏に佇む安酒場『ラスト・ドロップ』の店内には、安ウイスキーのツンとした刺激臭と、安煙草の紫煙が淀んでいた。
カウンターの隅で、ギルバート・ハウエルは震える両手で濁ったエールビールのジョッキを掴んでいた。
頭から被った泥水は乾き、ボサボサになった髪や顔のあちこちに赤黒い土がこびりついている。支給された粗悪な厚手作業着は、スラムの廃線路を四つん這いで這いずり回ったせいで泥だらけに汚れ、膝や肘の生地が無残に擦り切れていた。袖口には、朝まで自慢していたはずの金のカフスボタンの代わりに、泥で黒ずんだボタン穴が虚しく口を開いている。
「くそっ……あんな、あんな場所……っ!」
ジョッキをカウンターに叩きつけるように置き、ギルバートは忌々しげに呻いた。
あの廃線路で浴びた強烈な赤色ストロボと、鼓膜を裂くような高周波警報。泥水に突っ伏してパニックに陥り、命からがら逃げ帰ってきた屈辱が、酒で赤く充血した瞳の奥で煮えたぎっていた。
「俺は……俺は帝国魔電公社の第3運用課長だった男だぞ……! あんなスラムの配管掃除なんぞで終わるはずがないんだ……! あいつだ……シュンの野郎を探し出して、首根っこを掴んで公社へ引きずり戻せば……あいつに回路を直させさえすれば、俺はすぐに元の課長室に戻れるんだ……!」
「おいおい、泥水を店に持ち込むんじゃねえよ、元課長さんよ」
すぐ隣の丸テーブルでエールを飲んでいた配管作業員が、ギルバートのみすぼらしい姿を一瞥して鼻を鳴らした。
「上から首に縄つけられて配管清掃現場に放り込まれてきたくせに、まだそんな寝言言ってんのか。現場じゃな、仕事もできねえ口先だけの奴が一番惨めなんだよ」
「な、何だと貴様……! 俺を誰だと思って——」
「誰だろうと知ったこっちゃねえな」
カウンターの奥で汚れたグラスを布巾で拭いていた禿頭の店主が、冷ややかな視線を向けて割って入った。
「それよりよ、昼間の市立中央病院の話を聞いたか? 大停電で非常用魔導炉が落ちかけて、手術室の患者も新生児室の赤ん坊も全滅寸前だったってのに、急に裏から電気が通って全員助かったらしいじゃねえか」
「あぁ、スラムの連中の間でも持ちきりだぜ」
作業員がジョッキを傾けながら相槌を打つ。
「公社の役人どもには手も足も出せなかった大事故を、どこぞの『姿なき神様』が一瞬で片付けちまったって話だ。病院の連中、涙流して拝んでたらしいぜ。スラムの商人たちも手を貸して、地下の神様へのお礼に最高級の珈琲豆をお供えしたそうだ。『街の命を救ってくださってありがとうございます』ってな」
「か、神様だと……!?」
ギルバートが目を血走らせ、カウンターから身を乗り出して叫んだ。
「馬鹿な……! そんなオカルトがあるものか! 公社の送電網を勝手に迂回して電力を引き込める奴なんぞ、シュン以外にいるはずがない! あいつだ……あの小僧が公社への当てつけで勝手にやりやがったんだ……!」
「当てつけだろうが何だろうが、大勢の命が助かったんだ。文句があるなら公社へ行って言え」
店主はドンと布巾を置き、冷淡な目でギルバートを見下ろした。
「恩人を悪者扱いして騒ぐような奴に飲ませる酒はねえよ。飲むなら黙って飲め」
「全くだな」
隣の作業員も嘲笑いながらエールを煽った。
「現場から逃げ出してきた負け犬が、助けてくれた相手に八つ当たりすんなよ。見苦しいぜ」
「ぐっ……貴様ら、スラムの底辺のくせに……! この俺をコケにしやがって……!」
ギルバートは怒声混じりに立ち上がろうとしたが、店主の据わった眼光と、周囲の作業員たちの冷笑に射竦められ、喉の奥で息を詰まらせた。
威厳も、肩書も、命令に従う部下も、ここには何一つ残っていない。
顔を真っ赤にして口をパクつかせながら、ギルバートは逃げるように視線を落とし、震える手で温くなったエールを煽った。濁ったアルコールが喉を焼く感覚だけが、自分が完全に転落したという惨めな現実を、これ以上ないほど鮮明に突きつけていた。
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松脂の焦げる香ばしい匂いが、作業机の周囲に微かに漂っていた。
夕食を終えたゼロ・ターミナルのリビングでは、柔らかな夜間照明が作業机を琥珀色に照らし出している。
シュンはルーペ付きの作業用眼鏡をかけ、細身の魔電半田ごてを手元で滑らかに動かしていた。
食後に確認した不労所得ボットの収益モニターには、本日の確定収益として【銀貨358枚】という数字が刻まれていた。公社の月給の何倍もの金額が、何もしなくても毎日確実に口座へと積み上がっていく。軍資金も時間も、今のシュンには腐るほどあった。
「よし……これで本棚のインデックス化は完成だ」
シュンは半田ごてをスタンドに戻し、壁一面にそびえ立つ天井までの書棚を見上げた。
棚板の木組みの隙間には、微小な魔力共鳴端子と超小型のサーボモーターが整然と組み込まれている。作業机の端末キーボードを叩き、『19世紀末・多重魔導共振論』と入力してエンターキーを押した。
カチ、と小さなリレー音が響いた次の瞬間——本棚の3段目、左から12番目に並んでいた厚手の革装丁本が、静かに「スーッ」と数センチ手前へスライドし、淡い青色の光を帯びて浮き上がった。
「おお……! 完璧だ。これで椅子から一歩も立たずに、読みたい文献が一瞬で見つかる」
「……シュン」
作業机のすぐ横で腕を組んでいたシエラが、琥珀色の瞳を細めて冷ややかに見下ろしていた。
「本棚まで歩いて手を伸ばせば、所要時間はわずか0.8秒です。その0.8秒を削るために、あなたは3時間かけて精密サーボと共鳴端子を組み込みました。これは明白な運動量低下ルーチンであり、怠惰の極致です」
「いいんだよ! 読みたいと思った本が手元に自動で差し出される、この隠れ家のギミックこそが大人の男のロマンなんだから!」
「……相変わらず論理の飛躍が著しいですね」
シエラは小さく息を吐き出したが、視線を本棚の配線へと巡らせると、微かに耳元を動かした。
「……ですが、棚の木目を損なわない隠蔽配線と、サーボモーターの静音調律は見事です。音響イコライザーのバイアス調整も含め……機能美として、89点を与えましょう」
「お、89点! シエラにしては高得点だな」
「残りの11点は、あなたの怠惰さに対する減点です」
シエラがツンと顔を背けたところへ、キッチンから甘い香りをまとった足音が近づいてきた。
「ふふ、シュン様、シエラちゃん。温かいカモミールティーが入りましたよ〜」
リリアが銀のトレイに載せた湯気の立つカップを運び、作業机の脇にそっと置いた。ふわりと立ち上るリンゴのような甘いハーブの香りが、作業で熱を持った頭を優しく解きほぐしていく。
「わぁ、シュン様、本棚が魔法みたいに動いていますね〜! 床を走っている小さな機械さんも、とっても健気にお掃除してくれています〜」
リリアが指差した足元では、シュンが夕方に組み立てた手のひらサイズの円盤型機巧——自走式小型お掃除ガジェットが、低い駆動音を立てながら床の微細な埃を吸い取り、器用に椅子の脚を避けて巡回していた。
「シュン様は本当に手先が器用で、素晴らしい魔法使いさんですね〜。お部屋がどんどん便利で素敵になって、リリアもとっても嬉しいです〜」
「リリアぁ……! そうやって何でも褒めてくれるの、リリアだけだよ……!」
シュンが感激して情けなく顔を覆うと、リリアは「よしよしですよ〜」と楽しそうに微笑みながら、シュンの柔らかな髪を優しく撫でてくれた。
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作業道具を綺麗に片付けた後、リビングの主照明がゆっくりと落とされた。
天井のスリットから投影されたのは、微細な魔導粒子の発光による疑似夜空だった。漆黒の天球に満天の星々が瞬き、柔らかな三日月の淡い光が、リビング全体を静謐な蒼と銀のグラデーションで染め上げている。
部屋の隅に置かれた真空管オーディオのガラス管の奥で、暖炉の熾火のようなオレンジ色のグロー放電が静かに灯っていた。イコライザーを調律したスピーカーからは、深く豊かなチェロの独奏が、石壁の反響と美しく溶け合いながら、部屋の空気を心地よく震わせている。
シュンは飴色の革張りソファーの奥深くへと体を沈めた。
使い込まれた革が吸い付くように背中を受け止め、手元のカップから立ち上るハーブの温もりが、指先から全身へと染み渡っていく。
外に出ず、誰にも会わず、ただこの部屋で好きなものだけに囲まれて過ごしている。
温かくて美味しいご飯があって、居心地のいいソファーがあって、静かに寄り添ってくれるシエラとリリアがいて。
何百メートルも頭上の地表では、かつて自分をすり減らしていた公社が軋みを上げ、元上司が泥水の中で喚いているのかもしれない。だが、そんな外界の喧騒も、理不尽な怒声も、この地下要塞の分厚い壁の向こうには何一つ届かないのだ。
(……本当に、いい場所だな、ここは)
勝ち誇るでもなく、過去を呪うでもなく、ただ目の前にある穏やかな暮らしへの愛おしさと素朴な安堵が、胸の奥を満たしていった。
ふわり、と肩に心地よい重みが加わった。
見上げると、リリアがソファーの隣に腰掛け、羽毛のブランケットをシュンの胸元まで優しく引き上げてくれたところだった。
「シュン様、今日もお疲れ様でした〜。もう何も心配いりませんから、ゆっくりお休みになってくださいね〜」
「うん……ありがとう、リリア」
ソファーの足元に立ったシエラが、壁の時計モニターに視線を向け、淡々とした声音で告げた。
「本日の全タスク、および設備拡張シーケンスの完了を確認。……明日の起床予定時刻は?」
シュンはブランケットの温もりに包まれながら、ふっと穏やかな笑みをこぼした。
「もちろん……目覚ましなしで」
「了解しました。アラーム設定、全解除」
琥珀色の瞳を細めたシエラが、小さく口元を緩めたように見えた。
チェロの穏やかな調べと、天井に広がる星々の瞬きに見守られながら、シュンは静かに瞼を閉じた。
チェロの最後の一音が、石壁の奥にゆっくりと吸い込まれていった。
天井の星が静かに瞬き、真空管のオレンジ色のグロー放電だけが、暗くなったリビングで温かく灯り続けている。
シュンの寝息が、二体のオートマタに守られた地下の静寂に、穏やかに溶けていった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
第15話をもちまして、【第1章:ブラック企業脱出&元上司完全失脚編】が完結となります!
元上司の完全失脚と、届いた最高級珈琲豆。
誰にも邪魔されないシュンたちの至福の引きこもり生活は、第2章へと続いていきます!
「第1章最高だった!」「ざまぁが痛快だった!」「面白かった!」と感じていただけましたら、ぜひ広告下部にある【ポイント評価(★★★★★)】や【ブックマーク追加】で応援していただけますと幸いです。作者の執筆の大きな力になります!
第2章もどうぞお楽しみに!




