第16話 地下の神様、お供え物に怯える
飴色に艶めく本革のソファーに深く背を預け、シュンは指先で滑らかに装丁された専門書のページをめくった。
乾いた上質紙が擦れ合う微かな音と、ほのかに漂う古いインクの匂い。空調結界から漂う清らかなラベンダーの芳香が、22.0度に保たれた室温と心地よく混ざり合い、静まり返ったリビングを穏やかに満たしている。
サイドテーブルの上では、リリアが淹れてくれたカモミールティーの白い陶器カップから、リンゴに似た甘い湯気が細く立ち上っていた。
読んでいるのは、かつて社畜時代に「いつか落ち着いて読みたい」と願いながらも、連日の徹夜作業と理不尽なトラブル対応で開くことすら叶わなかった名著——『魔導流体力学と高周波回路』の初版だ。
複雑な偏微分方程式と、三次元の多重魔導ループの干渉モデル。公社の現場で走り回っていた頃は、ただ頭を痛めるだけの厄介な障害要因だった数式群が、こうして誰にも邪魔されない安全な空間で眺めると、驚くほど美しく整然とした論理の結晶に見えてくる。
(……うん、やっぱりこの第4章のインピーダンス補正の解釈、すごく美しいな。当時の設計技師のこだわりが伝わってくる……)
至福の読書に没頭し、次の行へ視線を走らせようとした——まさにその瞬間だった。
チカッ。
天井のアーク照明が、ほんの一瞬、瞬きをするように光量を落とした。
めくろうとしていた指がピタリと止まる。シュンは眉をひそめ、本を膝の上へと伏せた。
「……許せない」
低く、しかし断固とした呟きが漏れた。
「読書中に照明が瞬くなんて……網膜への負担が跳ね上がるじゃないか。誰だ、上流の送電網で変な位相の負荷をかけているのは……!?」
作業机で精密テスターのプローブを磨いていたシエラが、琥珀色の瞳をこちらへ向け、冷淡な声音で言った。
「……電圧降下率、わずか0.8%。人間の視覚機能において、実質的な障害とは認められないレベルの微細ノイズです。相変わらず、神経質さのパラメータだけは過剰ですね」
「0.8%もあるなら大問題だよ! 本に落ちる陰影のリズムが乱れるんだ! 目が疲れたら、せっかくの至福の読書タイムが台無しになっちゃうだろ!」
「ふふ、シュン様、お目目がチカチカしちゃいましたか〜?」
キッチンからトレイを運んできたリリアが、ふわりと柔らかなエプロンドレスを揺らしながら歩み寄ってきた。
「冷たいお絞りをお持ちしましょうか〜? それとも、リリアがお目目を優しくマッサージいたしましょうか〜?」
「ありがとうリリア、でもまずはこの不快なチラつきの元凶を止めないと落ち着かないんだ」
シュンはソファーから立ち上がると、リビングの壁際に整然と並ぶ魔導サーバーラックと、その脇に設置された分電盤の前へと向かった。
---
カチ、と金属製トグルスイッチを跳ね上げると、オシロスコープの円形ブラウン管に鮮やかな緑色の輝線が走った。
ニュー・ブラッドフォード基幹送電線から直結された受電バイパスの波形。
本来であれば滑らかな正弦波を描くはずの緑色の輝線が、一定の間隔でギザギザと尖った鋸歯状のサージノイズを撒き散らしていた。
シュンは白銅のプローブを端子に当て、ダイヤルを素早く回してタイムベースと電圧レンジを拡大した。
「……位相ズレ、約42度。高調波の周波数は基本波の7倍か……」
波形の乱れ方を一瞥しただけで、シュンの頭の中で都市全体の送電網マップが瞬時に展開される。
「上流の第10ブロック変電所だな……。新任の担当者が位相の補正を入れずに高圧負荷試験を強行しているのか、それとも上層部が渡した手順書の定数が狂っているのか……。変圧器の鉄芯が異常共振を起こしかけてる。このまま放置したら、うちの照明がまたチカチカしてしまうじゃないか」
公社がどんなトラブルに見舞われようと、シュンには知ったことではない。だが、自分の部屋の読書環境を脅かすノイズだけは、断じて看過できなかった。
「僕の読書時間を邪魔するノイズなんて、全部アースに捨ててやる……!」
シュンがぶつぶつと文句を呟きながらキーボードへ手を伸ばすと、背後からシエラの冷静な声が飛んできた。
「……無駄に物騒な言い回しですね。ただの余剰電荷の接地処理です」
「言い方の問題だよ! 僕の至福の時間を邪魔された怒りを表現してるんだ!」
シュンは言い返しながら、サーバーラックのキーボードへ指を走らせた。
カタカタカタ、と乾いた打鍵音が小気味よく響く。
ゼロ・ターミナルの受電盤に組み込まれた多重バイパス回路のパラメータを書き換え、異常波形と完全に逆位相となる高出力パルス——『逆相打ち消しパルス』を生成。さらに、送電線から漏れ出してくる余剰な高周波エネルギーを、地下深くの大地へと一瞬で逃がす深層アースの自動調律ルーチンを即座に構築した。
「よし……送信」
エンターキーをトンと叩く。
受電盤の奥で「フン……」という微細な魔力励起音が鳴り響いた次の瞬間——オシロスコープのモニターに映る緑色の輝線から、あの不快なギザギザが一瞬で掻き消えた。
水面に広がる波紋がピタリと鎮まるように、波形は完璧なまでに滑らかな正弦波へと収束する。
天井を見上げると、アーク照明は一切の揺らぎを見せず、穏やかで均一な昼光色の光を部屋いっぱいに注ぎ続けていた。
「ふぅ……。よし、これで目に優しい完璧な光度に戻ったぞ。さあ、読書の続きだ」
満足そうに頷いてソファーへと戻ろうとするシュンに、背後からシエラの呆れたような声が飛んできた。
「……公社の実験ノイズを力業でねじ伏せましたね。相変わらず、読書を邪魔されたくないという怠惰な執念の初動だけは軍用機並みです」
「なんとでも言いなさい。自分の快適な生活を守るための防衛措置は、すべての生物に認められた正当な権利なんだからね」
シュンはソファーに身を沈め、再び専門書のページへと視線を落とした。
---
その頃、地上の第10ブロック商業地区にある大型変電施設。
現場では、ギルバート失脚後に繰り上がった新任管理職の指示のもと、若手技師たちが青い顔で計器盤に張り付いていた。
変圧器の筐体が、低く、重く唸っている。鉄芯の共振が油温を押し上げ、赤い針が危険域の刻印を舐めるように震えていた。冷却フィンの隙間から、焼けた絶縁油の刺激臭がじわりと滲み出している。
隣接する商店街の精肉店の軒先では、異臭に気づいた店主たちが、変電施設の煉瓦塀を不安そうに見上げていた。
「……冷却弁を開けろ。油温が下がらない」
低い声で指示を出す新任管理職の額に、脂汗が浮いていた。
その刹那。
ドウン。
大地を伝うような重厚な低周波が、主送電線を通じて変電施設へと逆流してきた。
目に見えない波形が変圧器の回路を駆け抜けた瞬間、狂ったように暴れていた鉄芯の激しい振動が、まるで魔法のようにピタリと停止した。
「……え?」
逃げ遅れた技師が恐る恐る振り返る。
激しく噴き出していた白煙がスーッと薄れていき、危険域の赤色に張り付いていた油温計の針が、目に見える速度で安全圏へと滑り落ちていく。
変圧器は静かに、規則正しい微小な駆動音だけを響かせていた。
「し、鎮火した……? 爆発が……止まった……?」
何が起きたのか分からず呆然と立ち尽くす技師たちの背後で、固唾を呑んで見守っていた商店街の住人たちが、堰を切ったように歓声を上げた。
「助かった……! 店が燃えずに済んだぞ!」
「奇跡だ……! まただよ、第12ブロックの停電を救ってくれた『地下の神様』が、今度は俺たちの街を火災から救ってくださったんだ……!」
精肉組合の組合長である屈強な店主が、両手を合わせて涙を流しながら変電所に向かって拝んでいた。
「神様……ありがとうございます……! 街の恩人に、絶対に礼をしなきゃならねえ……!」
その歓喜の輪から遥か遠く、最下層アンダー・スラッグの薄暗い地下配管清掃現場。
泥水と錆の悪臭が充満する暗渠の中で、粗悪な破れ作業着を着たギルバート・ハウエルは、重い10インチ鋳鉄パイプを泥の中から引き上げようとして、腰に走った激痛に顔を歪めていた。
「ぐぎぎっ……! くそっ、あんな……あんな火災回避など、ただの安全装置の作動に決まっている……! 神など……神などいるものか……!」
泥水を頭から浴び、ボサボサの髪を振り乱しながら毒づくギルバートの背中に、現場の屈強な親方から怒声が叩きつけられた。
「おいギルバート! 口動かす暇があるなら手ぇ動かせ! そこの泥水を全部バケツで汲み出すまで今日の飯は抜きだからな!」
「ひ、ヒィッ……! す、すぐやりますぅぅ……!」
かつての横柄な態度は見る影もなく、ギルバートは泥水の中に四つん這いになりながら、必死にスコップを動かすのだった。
---
地上での大騒ぎなど露知らず、地下要塞のリビングで専門書の第5章へと読み進めていたシュンの耳に、突如として重厚な作動音が響いた。
ガタタン……カラン!
壁際、サーバーラックと本棚の間に設置された旧軍用物資受取シュート。
その気送管ハッチから、重量感のある何かが受け取りトレイへと転がり落ちてきたのだ。
同時に、シュンが組み込んでおいた自動セキュリティフィルターのインジケーターが、ピピッという澄んだ電子音とともに安全を示す鮮やかな緑色に点灯した。
「……えっ?」
シュンは思わず本から顔を上げた。
「また何か届いた……?」
「物資の投函を検知。魔力トラップ、有害毒物、追跡ビーコンの全スキャンを完了——危険物反応、ゼロ。安全です」
シエラが淡々とステータスを読み上げる中、シュンはおっかなびっくり立ち上がり、受取トレイの前へと歩み寄った。
トレイの中に鎮座していたのは、丁寧な装飾が施された真鍮製の保冷魔導箱と、重厚な木箱だった。
「なんだろう、これ……」
留め金を外し、保冷魔導箱の蓋をそっと持ち上げる。
冷たい冷気とともに現れた中身を目にした瞬間、シュンは息を呑んだ。
そこに入っていたのは、見事なまでにきめ細やかなサシが全体に散りばめられた、極厚切りのサーロイン肉だった。鮮やかな深紅の赤身と、真珠のように白く艶やかな脂のコントラスト。手のひらよりも分厚い肉塊が、保冷用の氷結晶の上に贅沢に二枚並べられている。
さらに隣の木箱を開けると、深いボルドー色のリボンがかけられた、見るからに年代物の高級赤ワインが収められていた。
箱の隅には、丁寧に折り畳まれた一枚の手紙が添えられている。
『第10ブロックを壊滅的な大火災から救ってくださった、偉大なる地下の神様へ。
公社が逃げ出す中、神様の御業によって変圧器が鎮火し、私どもの大切な店舗と家族の命が救われました。
商店街および精肉組合一同より、言葉では言い尽くせぬ感謝を込め、当組合が誇る最高峰のA5ランク熟成霜降り肉と、秘蔵の熟成赤ワインを奉納いたします。どうかお納めください』
「…………」
手紙を読み終えたシュンは、数秒間完全に硬直した後、血の気の引いた顔で手紙と保冷箱を交互に見つめた。
「……待って。シエラ、これ、おかしいよ」
「何がですか」
「僕、さっきは読書灯がチカッとしたから、ノイズをアースに捨てただけだよ……? なんで大火災を救ったことに……。しかもこの宛名——『偉大なる地下の神様へ奉納いたします』って……」
シュンは手紙を持つ手を震わせた。
「前回は『名もなき恩人様』だったのに……完全にお供え物じゃないか……」
手のひらより分厚いA5ランクの霜降り肉と、重厚な木箱入りの年代物ワイン。ささやかなお礼の域を完全に逸脱した超豪華な奉納品に、シュンは情けなく頭を抱えた。
「外の世界、僕の知らないところで勝手に話が大きくなりすぎてて怖すぎるよ……」
情けなくソファーのクッションに顔を埋めるシュンに対し、キッチンから駆け寄ってきたリリアは、保冷箱の中身を見るなり菫色の瞳をキラキラと輝かせた。
「まあ〜〜っ! なんて綺麗なお肉かしら〜! 雪のようなサシが入っていて、とっても美味しそうです〜! シュン様、今夜は極上ステーキディナーですね〜!」
「リリア、喜んでる場合じゃないよ! 僕、ただ部屋の電気を安定させただけなんだよ!?」
「……手紙の文面および直前の送電網ログから推測するに、あなたの逆相パルスが、地上で暴走しかけていた大型変電所の鉄芯共振を完全に相殺・鎮火させたようです」
シエラが呆れたようにため息をついた。
「読書環境を守るための勝手な調律が、地上では変電所爆発の阻止として機能した結果ですね。まったく、引きこもりの怠惰な執念が、またしても街の奇跡として誤認されたわけです」
「誤認されても困るよ! 身に覚えのない奇跡で祀り上げられるなんて、バグを放置するより恐ろしいよ……!」
「ふふ、でもシュン様がお部屋で頑張ってくださったおかげで、街の皆様が助かったのは本当のことですよ〜」
リリアは嬉しそうに保冷箱を抱え上げると、ふわりと微笑んだ。
「せっかく街の皆様が心を込めて届けてくださったんですもの、美味しくいただきましょう〜。シュン様のために、リリアが腕によりをかけて最高の一皿に焼き上げますね〜!」
「うう……外の世界は謎が多すぎる……」
クッションに顔を埋めて唸るシュンの鼻腔を、キッチンからフライパンが熱される乾いた金属音と、牛脂が鉄板に触れた瞬間の、甘く香ばしい最初の一筋の煙が、そっとくすぐった。
シュンの腹が、小さく、しかし正直に鳴った。
最後までお読みいただきありがとうございました!
本日より【第2章:地下の神様と、熱狂の地上インフラ編】がスタートです!
「第2章も楽しみ!」「面白かった!」と思っていただけましたら、広告下部の【ブックマークに追加】や【ポイント評価(★)】をポチッと押していただけると励みになります!
次回も明日【18:00】に更新予定です!




